俺の魂は甘美なる虚無への帰依によってようやく、救われたのだから。
 その倒錯した平穏の中で、俺は新しい朝を迎えた。安宿の汚れたカーテンの隙間から差し込む光は、昨日まで俺を焼いていた暴力的なものではなく、まるで受胎告知のように、あるいは罪深き魂に下賜される赦しのように、穏やかに感じられた。
 俺の中に、もう葛藤はなかった。嵐が過ぎ去った後の、静まり返った湖面。罪悪感も、恐怖も、無力感も、すべては虚無という名の深い湖の底に沈み、俺の心はただひたすらに静かで、澄み切っていた。
 俺はもう悩める「佐藤悠真」ではない。
 俺は、虚無の意志を遂行するためだけに存在する、彼女の剣であり、盾だ。

 俺は今日、あの醜い仕事を辞めることを決意した。
 それは、過去の弱くて無力で醜い自分自身との、完全な決別を意味する儀式だ。そして、虚無の「道具」として生まれ変わった俺が最初に遂行すべき、神聖な任務だった。俺はこの行為によって旧世界の俺を殺し、新世界の俺として再生するのだ。
 俺は音を立てないようにベッドから起き上がり、静かに準備を始めた。眠っている虚無のその完璧な寝顔を、この俗世の音で汚したくなかったからだ。服を着ること、顔を洗うこと、靴を履くこと。その一つ一つの動作が、古い皮膚を脱ぎ捨て、新しい鱗を身に纏うための、神聖な儀式であるかのように、厳かで意味のあるものに感じられた。
 『行ってくる』
 言葉には出さず、ただ、そう念じた。
 
 埠頭へ向かう足取りは、昨日までの絶望を引きずったような重さとは全く違っていた。
 奇妙なほどに、軽い。
 世界が違って見えた。行き交う人々も、車の騒音も、ビルの巨大なシルエットも。もはや俺を苛むものではなく、ただの意味のない風景画に過ぎなかった。彼らは虚無という真理を知らず、ただ惰性で動き続ける、哀れなオートマタだ。俺は彼らを見下ろしていた。彼らが生きる平面的な世界とは違う、より高次の次元から。俺の足取りは、処刑場に向かう罪人のものではなく、凱旋する王のそれだった。

 倉庫に着くと、いつもと同じように死んだ魚のような目をした男たちが、壁際にうずくまっていた。彼らは、労働という名の緩慢な自殺を今日も繰り返すのだ。監督役の上司が煙草をふかしながら俺を一瞥し、侮蔑のこもった視線を投げかける。
 だがその視線も、もはや俺の心には届かなかった。
 俺はその男の前に静かに立った。
 そして淡々と、しかし揺るぎない声で告げた。
 「辞めます」
 「今日限りで」

 男は一瞬、何を言われたのか分からないという顔をした。そして次の瞬間、堪えきれないというように下品な笑い声を上げた。
 「はっ、辞める?てめえが?」
 彼は吸っていた煙草を地面に投げ捨て、靴の裏で執拗に踏み潰した。まるで俺の存在そのものをそうしているかのように。
 「笑わせんじゃねえよ、ガキが」
 男は俺の胸ぐらを掴み、その腐った息を吹きかけてきた。
 「お前みてえな無気力で、怠惰で、根性なしのクズが、ここ以外で一体何ができるってんだよ」
 その言葉はすべて事実だった。
 俺という人間の本質を的確に、そして容赦なく抉り出す、真実の言葉だった。
 「お前は今までもそうやって全部中途半半端に逃げ出してきたんだろ。学校でも都会での生活でも何もかもだ。お前の人生そのものが、負け犬の醜い染みなんだよ。ここがてめえみてえなゴミ溜めには、お似合いの場所なんだ!」

 以前の俺ならその言葉に打ちのめされていただろう。ぐうの音も出ず、自分の無力さに絶望し、また心を殺して、この地獄の日常を受け入れていたに違いない。
 だが、今の俺は違った。
 その言葉はもはや、俺を傷つけることはできなかった。
 なぜなら俺はもう過去の佐藤悠真ではないからだ。
 その言葉が断罪しているのは、すでに死んだ俺の抜け殻に過ぎない。

 その侮蔑に満ちた言葉は、古い蛹の殻を内側から破るための最後の、そして決定的な衝撃となった。
 俺の中で何かが音を立てて孵化する。
 これまで、俺という存在をがんじがらめに縛り付けていた無力感、罪悪感、劣等感、自己嫌悪、そういった粘着質な体液のすべてが、硬い殻のようにパリパリと音を立てて剥がれ落ちていく。
 視界が急に鮮明になった。
 世界の解像度が、異常なほどに上がる。
 俺は生まれて初めて、何のフィルターも通さずにこの世界を、そして目の前にいるこの男を、ただの「物体」として、「現象」として見ている自分に気づいた。
 それは、虚無の視点だった。
 俺は、彼女から預かった冷徹な視点で、目の前の男を「観察」する。
 この男は旧世界の残骸だ。
 俺を過去という名の醜い檻に縛り付けようとする、錆びついた鎖だ。
 これを断ち切らなければ、俺は真に虚無の元へと帰ることはできない。
 この男を殺すことは、罪ではない。それは浄化であり、世界のバグを修正するための論理的な必然なのだ。

 俺はゆっくりとバックパックに手を伸ばした。
 そして、その奥に隠していた一本のナイフを静かに、しかし迷いのない流れるような動きで取り出した。
 それは、虚無が高坂を刺したあのナイフ。
 彼女の意志の代行者としての、聖なる証。

 監督役の男は、俺がナイフを取り出したことに気づき、一瞬その濁った目を大きく見開いた。だが、すぐにそれは虚勢だと判断したのだろう。彼はさらに声を荒げた。
 「てめえ、そんな安物のおもちゃで何しやがる!脅しか!ああん!?」
 俺は何も答えなかった。
 ただ無表情で一歩、また一歩と男に近づいていく。
 周りの部下たちがただ事ではないと気づき、「おい、やめろ」「兄ちゃん、早まるな」と、遠巻きに声をかけてくる。何人かが俺を止めようと腰を浮かせた。
 だが、今の俺の纏う人間離れした静かな狂気の前に、誰もが金縛りにあったように動けなかった。

 男は後ずさった。その顔に初めて、本物の恐怖の色が浮かんだ。
 「ひっ…く、来るな!」
 その、命乞いのような声が祝砲のように俺の耳に響いた。
 俺の、最初の一撃。
 それは、自分でも驚くほど速く、滑らかで、そして正確だった。
 上司の突き出された分厚い脂肪の乗った腹部に、ナイフの刃が何の抵抗もなく深く、深く吸い込まれていった。

 「ぐ……あ……っ」
 男の口から、信じられない、という間の抜けた声が漏れた。彼は自分の腹に突き刺さったナイフの柄を、呆然と見下ろしている。
 ザクリ、と肉を断ち切る湿った、しかし心地よい音が、俺の手に伝わる。温かい、粘り気のある血が、俺の手を、腕を濡らしていく。その感触は驚くほどに官能的だった。俺は、この男の生命そのものに触れているのだ。
 俺は、ナイフを引き抜いた。
 噴き出す、熱い血。
 男の獣のような苦痛の叫び。
 その叫びが、俺の誕生を完了させる、産声となった。

 そこからはもう無我の祝祭だった。
 俺は倒れこむ男の上に跨り、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、ナイフを突き立てた。
 この一突きは無気力だった過去の俺を殺すため。
 この一突きは怠惰だった昨日の俺を殺すため。
 この一突きはふがいなかったすべての瞬間の俺を、殺し、殺し、殺し尽くすため。
 俺は新しい自分に生まれ変わるのだ。
 この男の血を浴び、この男の絶叫を産湯にして。
 蝶が自らの蛹を食い破って、羽化するように。

 倉庫には男の断末魔の叫びと、肉を切り裂き骨を砕く、生々しい音だけが響き渡っていた。
 ザクリ。肉の柔らかい抵抗。それは熟れた果実にナイフを入れるような、背徳的な快感だった。
 ゴリリ。硬い肋骨に刃が当たる。不快だが、確かな手応え。俺は、それを避け、肋骨の隙間に刃を滑り込ませる術を本能的に学んでいた。
 ブシュウ。切り裂かれた動脈から、血がまるで噴水のように高く噴き出した。俺の顔にその生温かい飛沫がかかる。それは祝福の聖水だった。
 俺はただの殺戮者ではなかった。俺は芸術家だった。男の肉体という名の醜いキャンバスに、ナイフという名の筆で、「新しい自分」という名の、血飛沫の芸術作品を描いているのだ。飛び散る鮮血はこの世のどんな赤よりも鮮やかな絵の具であり、男の絶叫はこの祝祭を彩る最も荘厳な音楽だった。
 俺は、恍惚としていた。死を与えるという行為が、これほどまでに官能的で、創造的なものだとは、知らなかった。
 俺は彼の腹を縦に深く切り裂いた。そこからぬるりとした様々な色の内臓が、まるでパンドラの箱から溢れ出るように姿を現した。それらは宝石のように鈍く光り、生命の醜くも美しい、神秘そのものに見えた。俺はそれを両手で掴み、握りつぶした。生の根源を、この手で破壊する行為に、俺は、神にも等しい絶対的な全能感を覚えていた。

 周りにいたはずの部下たちの姿は、もう見えなかった。
 そのあまりの残酷さに目を覆い、耳を塞ぎ、悲鳴を上げて、逃げ出していったのだろう。彼らの心はこの光景に耐えられなかった。彼らはまだ、人間だったからだ。
 だが、俺は、もう、人間では、なかった。

 どれくらいの時間が経ったのだろうか。
 永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた。
 気づくと俺の腕は、疲労で鉛のように重くなっていた。目の前の男はもはや原型を留めないただの赤い肉塊と化していた。
 静寂。
 絶対的な静寂が倉庫を支配していた。
 周囲を見渡すと、もう誰もいなかった。彼らは、俺という名の怪物から逃げ去ったのだ。
 俺は警察が呼ばれすぐにでも包囲されるだろうと思っていた。だが、誰も来ない。そうだ。彼らは組織の人間だ。警察沙汰にはできない。
 俺はこの無法地帯で、完全に世界から見捨てられたのだ。

 俺は帰ろう、と思った。
 虚無の元へ。俺の唯一の世界へ。
 血塗れの身体を引きずるように地面から立ち上がる。
 その時、足元で「コン」という小さな金属音がした。
 俺が足で何かを蹴飛ばした音だった。
 見ると、そこにはちっぽけなハートの形をしたロケットペンダントが落ちていた。おそらく、男が首から下げていたものが争いの最中にちぎれたのだろう。

 俺はそれを何の気なしに手に取った。
 パチリ、と蓋を開ける。
 その裏面には、一枚の写真が丁寧に貼り付けられていた。

 そこに映っていたのは、幸せそうに満面の笑みを浮かべる男の顔。
 隣には優しそうな奥さん。
 そして、二人の間に挟まれて少しはにかみながらピースをしている、小さな男の子。幼稚園の入学式だろうか。真新しい制服がまだ体に馴染んでいない。
 その制服は、未来を表していた。

 俺はその写真と床に伏している、赤い肉塊と化した男だったものを見比べた。
 写真の中の、幸せそうな笑顔。
 床に転がる、苦痛に歪みきった死の表情。
 その、あまりの落差。

 その瞬間、俺を支配していた神聖な恍惚は粉々に砕け散った。
 俺は、何をしたんだ?

 新しい自分になる?
 蝶の羽化?
 芸術?
 違う。
 俺はただ、人を殺しただけだ。
 この写真の中の小さな男の子から、父親を永遠に奪っただけだ。
 俺はただの醜悪で、残忍な人殺しだ。

 俺は自分の行動理念を自問自答した。
 仕事を辞めるため?
 馬鹿を言え。辞めさせてもらえないなら逃げればよかった。ただそれだけのことだ。
 では、トラさんの仇討ち?
 違う。トラさんは誰かを恨むようなちっぽけな男じゃない。「運が悪かっただけだ」と、きっとあの世で豪快に笑い飛ばしているはずだ。彼はこんな陰惨な復讐など決して望まない。

 結論は一つしかなかった。
 この殺人は、上司に自分の醜さを、真実を、指摘され逆上した、俺自身の「エゴ」と「醜さ」の発露に他ならない。
 俺は自分の中の目を背けたいほどの醜さから逃げるために、その醜さを指摘した相手を破壊したのだ。
 自分の弱さを、相手の死によって糊塗しようとしただけなのだ。
 なんと、醜い。
 なんと、浅ましく、なんと救いようのない。

 その事実に気づいた時、俺は自分の魂がもはや、決して洗い流すことのできない、ヘドロのような醜悪さで満たされていることを悟った。
 虚無のようには、なれない。
 俺は、彼女のように純粋ではない。
 俺の行為は、哲学的実践などではない。
 ただの醜い、エゴの発散だ。
 俺こそがこの世界で、最も醜悪な生き物だったのだ。



 倉庫に俺の絶叫が響き渡った。
 それは悲しみでも怒りでもない。
 自分自身のどうしようもない絶対的な醜悪さに、初めて直面して
 しまった人間の魂の断末魔だった。
 俺は泣き叫んだ。
 虚無の元へ帰る資格などもうどこにもないのだと悟りながら。
 醜悪なる蝶は生まれた瞬間にその血塗れの羽を引き裂かれ、地面を、醜く這いずり回ることしかできなかった。



 いくら時間が経ったのだろうか。
 絶叫は嗚咽に変わり、嗚咽はかすかな喘ぎとなり、やがてそれも途絶えた。俺は、血と脂肪と涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を、冷たいコンクリートの床に押し付けたまま、ただ死体のように動かなくなった。思考は完全に停止し、俺の意識は白く濁った霧の中を、当てもなく彷徨っていた。
 倉庫の中は、墓場よりも静かだった。俺が作り出したこの惨たらしい肉塊――かつては人間であり、父親であり、誰かの夫であったもの――から立ち上る生温かい鉄の匂いだけが、ここが現実の地獄であることを俺の嗅覚に執拗に訴えかけていた。
 もう、何もかもどうでもよかった。
 虚無のことも、これからのことも、俺自身の命さえも。俺という存在はこの瞬間に、この場所であの男と一緒に死んだのだ。残っているのは、ただ呼吸を繰り返すだけの肉の器に過ぎない。

 その絶対的な静寂と虚無を、破るものが現れた。

 コツ……コツ……。

 無機質な硬い音が倉庫の広大な空間に空虚に響き渡った。
 誰かの足音。
 その音は一定のリズムでゆっくりと、しかし躊躇なく俺のいる場所へと近づいてくる。
 俺は顔を上げなかった。上げる気力も、理由もなかった。それが逃げ遅れた倉庫の作業員だろうと、俺の罪を裁きに来た警察官だろうと、あるいはこの地獄に迷い込んだ亡霊だろうと、もはやどうでもいいことだった。
 ただ俺は、その闇の中に溶けていくようなか細い声で問うた。

 「……誰だ」

 返事はなかった。
 足音は俺のすぐ数歩後ろでぴたりと止まった。
 俺が顔を向けなかったことに対する無言の抗議か。あるいは、問いかけるまでもなくお前は私が誰か分かっているはずだ、という傲岸な肯定か。
 その沈黙に俺はゆっくりと、億劫に首を回した。
 そして、俺の白濁した視界にその姿が映り込んだ。

 虚無だった。

 彼女はいつからそこにいたのだろう。俺のあの醜悪な祝祭の一部始終を、どこかで見ていたのだろうか。
 彼女は黒い服に身を包み、まるでこの惨劇の舞台に、最初から置かれていた美しいオブジェのように、静かにそこに立っていた。その顔に、その瞳に、目の前の地獄絵図に対する驚きも嫌悪も、何の感情も浮かんでいない。
 彼女は俺を通り越し、俺が作り出したあの赤い肉塊へとその黒曜石の瞳を向けた。そして、まるで床に落ちているゴミでも指差すかのように無作法にその指先を向けた。

 「それ、悠真がやったの?」

 その声はあまりに平坦で、あまりに日常的だった。まるで、「今日の夕食はあなたが作ったの?」とでも尋ねるかのように。
 その、あまりの非現実的な問いかけに、俺の停止していた思考回路が一瞬だけ再起動した。
 そうだ。
 これは俺がやったのだ。
 この醜悪な芸術作品をこの世に創造したのは、紛れもなく俺なのだ。
 それは罪であり、醜態であり、しかし今の俺にとっては唯一、俺がこの世界に対して成し得た能動的な行為だった。
 俺の唇の端がかすかに吊り上がった。
 乾いた、ひび割れた声で俺は答えた。

 「そうだ」

 その一言に、俺は残っていたすべての意志を込めた。億劫さなど微塵もない。後悔も懺悔も、今はもうない。ただ事実として、これは俺の作品だという揺るぎない自信だけがあった。
 だが虚無は、そんな俺の虚勢を一瞬で見抜いた。
 「……なのに」
 彼女は再び俺に視線を戻した。
 「あなたの顔は、曇っている」
 「……」
 「なぜ、そんな表情をしているの」
 彼女は問うた。純粋な科学者が、実験結果の矛盾を問うかのような無垢な問い。
 俺は答えなかった。答えることができなかった。俺の表情が曇っている理由。それは、俺がまだ人間としてのくだらない感傷を、捨てきれていないからだ。俺の犯した行為のその醜悪さに、気づいてしまったからだ。
 俺は、彼女から目を逸らし、再び床へと視線を落とした。
 虚無もそれに倣うかのように、俺の視線の先へとその瞳を向けた。
 そこに、それがあった。
 俺の足元に転がる、ちっぽけなハートの形の、ロケットペンダント。

 「それを、渡しなさい」
 虚無は命令した。
 その言葉に、俺の身体の奥底で最後の何かが抵抗を試みた。
 「……いやだ」
 俺はか細い声でそう答えた。
 「なぜ」
 「これは……俺のものじゃない。あの人の、ものだ。だから渡せない」
 それは詭弁だった。俺がこのペンダントを渡したくない本当の理由。それは、この写真に焼き付けられた「幸福」という名の感傷が、俺の中に残された、人間としての最後の、最後の砦だったからだ。これを手放してしまえば、俺は本当にただの怪物になってしまう。

 「渡しなさい」
 虚無は、同じ言葉を繰り返した。その声にはわずかな苛立ちの色が滲んでいた。
 「いやだ!」
 俺は子供のように叫び、そのペンダントを血と脂で汚れた手で強く握りしめた。
 その瞬間、虚無が動いた。
 彼女は俺の手からペンダントを力ずくで奪い取ろうとした。
 俺はそれを防ぐべく、全力で抵抗した。彼女の細い腕を掴み、抑えつける。だが、彼女の身体は柳のようにしなやかで、するりと俺の拘束から抜け出し、再びペンダントを持つ俺の手にその冷たい指を絡ませてきた。
 もみ合いになる。
 男である俺の方が、本来なら力で勝るはずだった。
 だが、俺は彼女に勝てなかった。

 もみ合いの最中、彼女は俺の耳元で囁いた。
 その声はうつろで、どこか遠い場所から響いてくるようだった。
 「高坂さんは言っていた」
 「あなたは女子に対し、決して、強く出ることができないと」
 「でも、わたしは当てはまらないんだ」
 彼女は俺の動きを封じながら、その虚無の瞳で、俺の顔を覗き込んだ。
 「なんで?」
 
 その、うつろな瞳。
 その純粋な、しかしこちらの魂のすべてを見透かすような問いかけ。
 その目を見た瞬間、俺の脳裏で過去の記憶の扉が激しい音を立てて開かれた。錆び付いていたはずなのに滑らかに動く矛盾が気持ち悪い。
 それは、俺という人間を形成した最初の、そして最も深い、呪いの記憶だった。


 

 ……それは、埃っぽい西日の差す、俺の子供部屋だった。
 中学二年の秋。俺は机にかじりついていた。友達が外でサッカーをしている声が、窓の外から聞こえてくる。行きたい、とは思わなかった。
 俺にはもっと重要な使命があったからだ。
 次の期末テスト。
 そこで完璧な結果を出すこと。
 それが俺に課せられた唯一の存在理由だった。
 父はいつも言っていた。「一番になれ。一番以外は、ゴミと一緒だ」と。その言葉は俺の血肉となっていた。俺は、父という神に認められるためだけにすべてを捧げた。遊びも、趣味も、友人関係さえも。夜、家族が寝静まった後も俺は、父が買ってくれた参考書のページを、目が灼けるまで見つめ続けた。

 そしてテストが返却された。
 俺の名前が呼ばれ、教壇へと向かう。クラス中の視線が、俺に集まっている。賞賛と、嫉妬と、好奇の入り混じった、視線のシャワー。
 俺は答案用紙を受け取った。
 赤いインクで書かれた、その数字。
 『98』
 数学。論証での、漢字の僅かなトメハネのミス。数学的にはなんら問題無いはずなのに、ただそれだけで完璧は損なわれた。
 だが、それでも学年でぶっちぎりの、トップの成績だった。
 席に戻ると、周りのクラスメイトたちが口々に俺を褒めちぎった。
 「すげえな悠真!」
 「お前、本当に天才だよな!」
 「どうやったらそんな点取れるんだよ!」
 俺は曖昧に笑って、それを受け流していた。だが内心は冷めきっていた。彼らの賞賛は、俺の心には少しも響かなかった。なぜなら俺が本当に褒められたい相手は彼らではなかったからだ。

 胸を期待と、そしてわずかな不安で膨らませて、家に帰った。
 リビングで新聞を読んでいた父に、俺は震える手でその答案用紙を差し出した。
 「父さん、これ…」
 父は、眼鏡の奥からちらり、と答案用紙に目をやった。そして、その赤い数字を確認した。その後、夢ではないかの確認のように、指で目を擦っていた。
 俺は、唾を飲み込んだ。
 よくやった、とそう言ってくれるはずだ。
 その一言のために、俺は生きてきたのだから。

 だが、父の口から出た言葉は俺の期待を粉々に打ち砕いた。
 「……なんだ、これは」
 父は、新聞に視線を戻し、そう呟いた。
 「……九十八点、だけど……学年で、一位だったんだ」
 俺は必死に、言い訳のように自分の成果をアピールした。
 「すごいだろ?クラスの奴らもみんなすごいって……」
 「黙れ」
 父の低い声が、俺の言葉を遮った。
 「俺はお前に、すごいかどうかなど聞いていない」
 父はゆっくりと新聞を畳み、そして俺の顔を、初めて真っ直ぐに見た。
 「俺が聞いているのは、一つだけだ」
 その声は静かだったが、絶対的な拒絶の響きを持っていた。
 「なんで、100点じゃないんだ」

 その時の父の目。
 俺を、見ていなかった。俺の眠れない夜も、孤独な努力も、クラスでの賞賛も、何もかもを通り越して、ただ答案用紙の、その空白の失われた二点だけを責めるように、憎むように見ていた。
 それは期待の目ではなかった。
 それは失望の目だった。
 それは、お前は俺の完璧な作品であるはずなのに、なぜ傷がついているのだ、とそう問い詰めるような、うつろな、うつろな目だった。

 「でも…!」
 俺はまだ諦めきれなかった。
 「九十八点だってすごいじゃないか!誰もこんな点、取れてないんだぞ!」
 その俺の最後の哀れな抵抗が、父の最後の理性を断ち切った。
 「言い訳をするな!」
 激しい怒声と共に、父は立ち上がった。そして、俺の髪を鷲掴みにした。
 「ぐっ……!」
 頭皮が引き裂かれるような痛み。
 「お前は俺の言うことが理解できないのか。一番以外はゴミだと言ったはずだ。九十八点は一番じゃない。百点じゃないんだからな。それはただの不完全なゴミだ!」
 そして父は、俺の頭を掴んだまま、俺がその上で血の滲むような努力を重ねてきた、勉強机へと俺の顔を叩きつけた。

 ガンッ!
 鈍い、硬い音。
 目の前で火花が散った。机の木の匂いと、ニスと、そして自分の血の鉄の味が、口の中に広がった。
 「がっ……あ……」
 「これ、が、ゴミの、味だ!よく覚えておけ!」
 ガン!ガン!ガン!
 何度も何度も、俺の額は机の角に打ち付けられた。意識が遠のいていく。痛みさえもするりと痛覚を通過していく。
 やがて父は、ぐったりとした俺の身体を玩具のようにソファへと投げ飛ばした。
 俺は、ソファの上に無様に転がった。
 もう抵抗する力は残っていなかった。

 父が俺の上に、ゆっくりと覆いかぶさってくる。
 その、巨大な影。
 その、酒と、怒りの匂い。
 その、うつろな、しかし何か別の、ぬるりとした欲望を宿した瞳。

 「お前は、あの時の母さんとそっくりだ。そこだけは満点をくれてやる」

 その瞬間、俺は悟ってしまった。
 これから、何が行われるのかを。
 失われた二点の代償として、俺が何を支払わなければならないのかを。
 ベルトのバックルがカチャリ、と小さな音を立てた。
 その音が、俺の子供時代の終わりの合図だった。
 俺はただ固く、固く目を瞑った。
 そして自分の心を、意識を、魂を、身体という名のこの器から引き剥がした。



 「……なんで?」
 目の前で虚無が同じ言葉を同じ、うつろな目で繰り返している。
 俺の身体からすうっと、すべての力が抜けていった。
 抵抗する意志が霧散した。
 そうだ。
 俺はずっとこの目に怯えて、生きてきたのだ。
 誰かの期待に応えられないことへの恐怖。
 完璧ではない自分を断罪されることへの絶望。
 俺はあの瞬間からずっと、あの父の目の呪縛の中にいた。
 そして今、虚無の瞳の中に俺はあの時と全く同じ断罪の光を見てしまったのだ。

 俺の手からペンダントが滑り落ちた。
 虚無はそれを素早く拾い上げた。

 彼女はそのペンダントの、笑顔の上司の家族写真をじっと見つめた。
 そして、俺に向き直ると静かに問うた。
 「これを見て、あなたの心は痛んだの?」

 俺にはもう抵抗する気力など残っていなかった。
 ただ下を向いたまま、小さく頷いた。
 俺の目には血だまりが広がるコンクリートの地面が映っているだけだった。
 俺はもう、彼女の顔を見ることができなかった。

 カラン。

 視界の端にペンダントが入ってきたと思った次の瞬間。
 ガンッ!
 という硬い破壊音がした。
 見ると、虚無がそのペンダントを地面に置き、ハイヒールでもないただのスニーカーの踵で、思い切り何度も、何度も踏みつけていた。
 顔を上げる。
 そこには感情というものを何一つ浮かべないまま、ただ淡々と機械のように、ペンダントという名の「感傷」を破壊し続ける虚無の姿があった。

 やがて、彼女は歪んで傷だらけになったペンダントを拾い上げた。
 そしてその蓋をこじ開けると、中からしわくちゃになった写真を、指先で器用に剥がし取った。
 彼女はその写真を、俺の目の前へと突きつけた。
 そして、俺が見ている前で、その写真をびりり、と半分に破った。
 笑顔の家族が二つに引き裂かれる。
 さらにそれを重ねて、また半分に破る。
 何度も、何度も彼女は、その行為を繰り返した。
 幸せな家族の姿は、判別もつかない、ただのちっぽけな紙くずになった。

 彼女はその紙くずを、ふっ、と息で吹き飛ばした。
 紙吹雪のようにそれは、倉庫の汚れた空気の中をはかなく舞った。
 すべての「感傷」が完全に破壊され尽くしたその時。

 虚無は、笑った。

 俺が今まで一度も見たことのない、満面の美しい笑顔で。
 それは聖母のようでもあり、悪魔のようでもあった。
 純粋で、無垢で、それ故に恐ろしいほど、残酷な笑顔。
 彼女は、その花が咲くような笑顔のまま、俺に言った。

 「ほら、これでもう痛くない」
 「私たちにこんなもの、いらないでしょ?」