あの地獄のような一日が、俺たちの日常になった。
トラさんの顔が滑り落ちた、あのコンクリートの床。あの倉庫が俺たちの新たな職場であり、新たな檻となった。毎日の午後三時、俺たちは亡霊のように埠頭へ向かい、夜が更けるまで正体不明の木箱を運び続ける。その繰り返し。それはもはや労働と呼べるような代物ではなかった。生きるために働くのではない。ただ、死に向かってゆっくりと、確実に、自分の魂と肉体をすり減らしていくための儀式的な自傷行為だった。
一日分の労働は一日分の命の前払いだ。俺たちは来るべき崇高な死のために、今のこの醜悪な生を時間単位で切り売りしている。流れる汗は、贖罪の涙だったのかもしれない。筋肉を灼く痛みは、俺が犯した罪に対するささやかな罰だったのかもしれない。俺は疲労の向こう側に、一瞬の忘却を求めていた。重い木箱を持ち上げるたび、その重みがトラさんの命の重さ、高坂の命の重さと重なり、俺の罪悪感を物理的な痛みへと変換してくれた。疲れて、疲れて、疲れ果てて、何も考えられなくなった時だけ、俺は俺が殺人者の共犯者であるという事実から、ほんの少しだけ逃れることができた。
だが忘却は束の間だった。ふとした瞬間に、トラさんの幻影が俺を苛む。彼の豪快な笑い声が、クレーンの軋む音に混じって幻聴のように聞こえる。積み上げられた木箱の影が、彼の大きな背中に見える。俺はそのたびに息を呑み、現実と幻覚の境界線で溺れかけた。
死とは何か。
かつて俺は、それを苦痛からの解放であり静寂への回帰だと考えていた。虚無と共に目指す、崇高な哲学的実践だとさえ思った。だが、今俺がこの倉庫で行っていることは、その対極にあった。これは生の中にありながら、生の輝きを完全に剥奪された、最も醜悪な形の「死」だった。生命活動を維持しながら、その精神だけがゆっくりと壊死していく。汗の匂い、鉄の錆の味、他の労働者たちの死んだ魚のような眼差し、監督役の男たちの怒声。そのすべてが俺の魂を少しずつ腐らせていく。それは生きながらにして腐っていく、緩慢な自殺だった。
虚無は変わらなかった。
彼女はこの暴力と怒号が支配する男たちの汗と油の匂いが充満する世界でも、まるで空気のように、あるいは水のように、その場の形に順応していた。彼女は誰よりも正確に、誰よりも効率的に荷物を運んだ。その姿はあまりに完璧で、そしてあまりに非人間的だった。他の労働者たちは気味悪がって彼女に近づかず、監督役の男たちでさえ彼女の絶対的な静寂の前では言葉を失うようだった。
彼女はこの新たな檻にも完璧に適応していた。あるいは、彼女にとっては田舎の教室も、この港の倉庫も、本質的には何の違いもないただの背景画に過ぎないのかもしれなかった。
亀裂は静かに、だが確実に広がっていった。
あの日以来、俺たちの会話はほとんどなくなった。宿に帰っても俺は泥のように眠り、虚無は闇の中でただじっと座っている。俺は、もう彼女の心を覗き込もうとはしなかった。そこには俺の理解を超えた、冷たい深淵が広がっていることを知ってしまったからだ。彼女の隣で眠る夜は、美しい彫像の隣で眠るようであり、同時にいつ牙を剥くか分からない獣の隣で眠るようでもあった。
事件が起きたのは、そんな日々が一週間ほど続いた夜のことだった。
仕事が終わり、いつものように虚無と共に宿へ帰るはずだった。だが作業員たちが解散していく中で、彼女の姿だけが見当たらなかった。
俺が監督役の男に尋ねても「知るか。ガキの面倒まで見てられるか」と、吐き捨てるように言われるだけだった。
焦燥が疲労しきった俺の心を鞭打った。
まさか、警察に?
いや、それならこんなに静かなはずがない。
では、組織の男たちに何かされたのか? あの日の失態の口封じとして?
いや、それもない。だとしたら俺も一緒に消されているはずだ。
だとしたら、残る可能性は一つだけ。
彼女自身の意志で、どこかへ行った。
俺を、捨てて。
その考えが鋭い氷の破片となって、俺の胸に突き刺さった。あの日俺たちの間に生まれた、あの亀裂。彼女は俺の人間的な弱さに、愛想を尽くしたのではないか。彼女の哲学において、トラさんの死に動揺した俺はもはや「有象無象」と同じ、理解できない存在になったのではないか。俺は彼女にとって、旅の途中で壊れてしまった、ただの道具になったのではないか。
俺は一人、夜道を安宿へと帰った。
狭い部屋のドアを開けても、そこに彼女の姿はない。当たり前の光景のはずなのに、その「不在」が、部屋の空気を、宇宙空間のように希薄にしていた。
俺はベッドに腰掛け、ただひたすらに彼女を待った。
一時間。二時間。
時計の針が進む音だけが、俺の不安を増幅させていく。俺は庇護すべき対象を失っただけではない。俺の存在理由そのものを、見失いかけていた。彼女がいなければ俺はただの殺人犯の共犯者で、この都会のゴミ溜めで無様に生きるだけの無価値な存在だ。彼女という神を失った信者は、もはや抜け殻に過ぎない。俺は彼女との過去の会話を、何度も頭の中で反芻した。トラさんの死に対する彼女の冷徹な言葉。あれが彼女の本質。俺はその本質から目を逸らし、自分に都合のいい幻想を彼女に重ねて見ていただけだったのではないか。
夜もかなり更けた頃だった。
カチャリ、とドアの鍵が開く音がした。
虚無がそこに立っていた。
まるで近所のコンビニにでも行っていたかのような、何食わぬ顔で。
その瞬間、俺の中で安堵と、そして溜まりに溜まった不安と怒りが、同時に爆発した。
「どこに行ってたんだ!」
俺は自分でも驚くほどの激しい声で、彼女を詰っていた。
「今まで、何を!心配したんだぞ!何かあったら、どうするつもりだったんだ!」
俺の必死の言葉を、しかし虚無はまるで春先のそよ風でも受けるかのように、平然と受け流した。
彼女は不思議そうに小首を傾げた。
「別に」
彼女はそう言った。
「散歩していただけ」
その、あまりに「普通」の、あまりに平然とした態度が俺の最後の理性の糸をぷつりと断ち切った。
「普通なわけないだろ!」
俺は彼女の肩を掴み、激しく揺さぶっていた。
「俺たちは、普通じゃないんだぞ!殺人犯で、逃亡者で、いつ殺されるか分からない、社会のゴミなんだ!散歩?この状況でお前は、そんなことが言えるのか!」
俺の必死の訴えはしかし、彼女には届かない。彼女の瞳は激昂する俺を、まるで未知の生物でも観察するかのように静かに見つめているだけだった。彼女にとって、危険も心配も、世界の他のあらゆる事象と同じく、意味のないノイズに過ぎないのだ。
話が通じない。
この絶望的な断絶感。
自分だけがこの地獄の中で、必死に空回りしているという圧倒的な無力感。
俺はついに言葉を失い、感情の奔流のままに右手を高く振り上げていた。
殴りたかった。
この、美しく静かで、そして絶望的に何も分かっていない彼女の頬を思い切り殴ることで、痛みというこの世界で唯一の共通言語を教え込みたかった。俺がここにいるのだと、俺がこんなにも苦しんでいるのだと、その体に刻み込みたかった。
俺の振り上げた手はしかし、虚空でぴたりと止まった。
虚無が身動き一つしなかったからだ。
目を閉じることも、身を固くすることも、後ずさることもしない。
ただその手を、そして怒りと絶望に歪む俺の顔を、静かに、静かに見つめている。
その瞬間、俺の脳裏に全く別の光景がフラッシュバックした。
……それは、薄暗い、夕食の食卓だった。
安っぽい食卓テーブルに並ぶ、冷めきった惣菜。テレビの音だけが、虚しく響いている。
テーブルの向こう側で酒に酔った男が何かを怒鳴っていた。濁った目で目の前に座る小さな少女を睨みつけながら。
「おい、何か言えよ。お前は母親にそっくりだ。いつもそうやって黙って。人を不愉快にさせる天才だな」
少女は何も答えない。ただ、目の前の欠けた茶碗のその模様だけを、じっと見つめている。
「この穀潰しが!俺が誰のおかげで飯を食えてると思ってるんだ!感謝の一つもねえのか!」
男の怒声はエスカレートしていく。だが、少女は反応しない。彼女はとうの昔に、自分の感情のスイッチを切る方法を覚えてしまっていた。心を無にすれば、言葉の暴力は体を通り抜けていくだけのただの音波になる。
男はその無反応にさらに激昂する。
自分の存在が娘に完全に無視されていると感じたからだ。
「こっちを見ろ!」
男は叫び、そしてその大きな手を高く振り上げた。
少女はそれでも男を見なかった。ただ茶碗の模様だけを、見つめ続けていた……。
はっと俺は我に返った。
目の前にいるのは虚無だ。
そして手を振り上げているのは、俺だ。
今、俺は虚無にとってあの父親と全く同じ存在になっていた。
自分が支配したい対象が思い通りにならないことに苛立ち、その存在を認めさせるために暴力という最も安易で、最も醜い手段に訴えようとしている。
俺が軽蔑し、憎むべきだと感じていた世界の理不尽さ、そのものに。
俺の苛立ちは、怒りは、まるで砂の城のように跡形もなく崩れ去っていった。
後に残ったのはどうしようもないほどの絶対的な「悲しみ」と、自分自身への深い、深い絶望だった。
振り上げた手は力なくだらりと下ろされた。
俺が愕然としていると、虚無はその薄い唇を開いた。
淡々と、しかし外科医がメスを入れるように、的確に。
俺の心の最も痛い部分を抉る言葉を紡ぎ始めた。
「あなたは、わたしを心配しているんじゃない」
彼女の声は、静かだった。
「あなたが心配なのは、あなた自身」
「……なにを」
「わたしがいなくなったら、あなた一人ではこの世界で生きていけないから。わたしがいないとあなたの犯した罪の意味がなくなるから。あなたは、それが怖いだけ」
「違う!」
「あなたはわたしを庇護しているつもりで、本当はわたしの存在に依存しているだけ。わたしという鏡にあなた自身の存在価値を必死に映して、確認しているだけ」
「……やめろ」
「あなたは、弱い」
彼女の言葉は弾丸のように俺の自己欺瞞や、脆いプライドを容赦なく撃ち抜いていく。
「弱いからわたしを必要とする。そしてわたしがあなたの思い通りにならないと、そうやって暴力に逃げようとする。あの時のわたしの父親と、同じように」
最後の言葉が俺にとどめを刺した。
そうだ。俺は、俺が軽蔑していたあの男と同じだったのだ。
俺はその場で崩れるように膝をついた。
そして、子供のように声を殺して泣き始めた。嗚咽が、喉の奥から、途切れ途切れに漏れ出てくる。
自分は、なんて無力なんだろう。
彼女を守ることも、理解することも何もできない。それどころか、彼女を傷つけていた「世界」そのものであったことに、今気づいたのだから。
彼女の隣にいる資格など、俺には最初からなかったのかもしれない。
虚無は泣き崩れる俺をただ、静かに見下ろしていた。
その表情はやはり変わらない。
俺たちの間にあった亀裂はもはや、修復不可能な巨大な断絶となった。
俺は彼女の隣にいながら、世界で一番彼女から遠い場所にいる。
その絶対的な孤独と、絶望の中で俺はただ泣き続けることしかできなかった。
涙はとめどなく溢れた。それはトラさんへの罪悪感からでも、高坂への恐怖からでも、自分自身の不甲斐なさへの怒りからでもなかった。もっと根源的な存在そのものの悲しみ。俺という存在と虚無という存在が、決して交わることのない平行線であるという、宇宙的な事実の前に俺の魂がただひたすらに慟哭していた。俺の涙は俺という孤独な惑星が流す、塩辛い雨だった。
どれほどの時間そうしていただろうか。
やがて涙も枯れ果て、嗚咽も途絶え、俺の内側は嵐が過ぎ去った後の廃墟のようにがらんどうになった。悲しみさえもがその色を失い、俺はただの空っぽの器になった。俺が焦がれ、追い求めていた虚無の状態に皮肉にも、俺は今限りなく近づいていた。
その時だった。
ずっと俺を見下ろしていた虚無が動いた。
彼女は音もなく、俺の隣にそっとしゃがみこんだ。そして、その冷たい芸術品のように滑らかな指先が、俺の涙で濡れた頬に触れた。
びくりと俺の体は硬直した。
その唐突な、そして予期せぬ優しさに、俺の壊れかけた思考は完全に停止した。
彼女の指は、まるで貴重な古文書に積もった埃を払うかのように、あるいは傷ついた蝶の翅に触れるかのように、ゆっくりと慎重に俺の肌の上を滑った。涙の軌跡を一つ、また一つとなぞっていく。その指先の冷たさが火傷のように熱く感じられた。俺は呼吸さえ忘れていた。彼女の指が触れている、その一点に俺の全存在が収縮していくような、奇妙な感覚。それは痛みであり、同時に快感でもあった。
彼女は何も言わなかった。
ただその行為だけで俺に何かを伝えていた。
俺はもう抵抗する気力も、意志も持ち合わせていなかった。ただされるがままに彼女の指の動きを受け入れる。やがて、彼女は俺の腕をとり、まるで壊れかけた人形を扱うようにゆっくりと立ち上がらせ、ベッドの端へと導いた。
俺は言われるがままにベッドに腰掛ける。彼女は俺の背後に回り込み、そして彼女の指が俺の髪の中にそっと差し込まれた。
「……っ」
声にならない息が漏れた。
彼女は俺の髪を赤子の髪を梳かすかのように、ゆっくりと何度も指で梳き始めた。その指の動きはあまりに優しく、あまりに丁寧で俺は自分が生まれてからこの方、誰にもこんな風に触れられたことがないと漠然と思った。頭皮に伝わる彼女の指の柔らかな圧。規則的で単調なその動きが、俺のささくれ立った神経を一枚、また一枚と薄紙を剥がすように鎮めていく。
やがて彼女の唇から、かすかな音が漏れ始めた。
それは意味のある歌ではなかった。メロディらしいメロディもない。ただ単調で、低く、しかし不思議なほど心に染み入る静かなハミング。
その音が彼女の指の動きと完璧にシンクロしていた。
耳元で聞こえる、彼女のかすかな息遣い。俺のうなじにかかる、その吐息の冷たさ。彼女の髪から漂う甘く、そしてどこか非人間的な冷たい花の香り。
俺は思考することを完全に放棄した。
ただ五感のすべてを解放し彼女が与えてくれる、この甘美な感覚の海に身を委ねていた。それは母の胎内に回帰するような絶対的な安心感と、抗いがたいほどの陶酔感だった。俺は彼女に調教されているのだ。俺の心を完全に破壊し、更地にした後で彼女の色だけで、彼女の音だけで、彼女の匂いだけで俺という存在をもう一度作り直そうとしているのだ。
俺の心が彼女の優しさによって完全に無防備に解きほぐされたのを、彼女は見計らっていたのだろう。
彼女は髪を梳く手を止め、俺の耳元にその冷たい唇を寄せた。
そして、囁き始めた。
その声は、悪魔の誘惑のように甘く、そして、聖母の赦しのように優しかった。
「あなたは、弱くない」
彼女は囁いた。
「ただ、優しすぎるだけ。この醜い世界で生きるには、あなたはあまりに純粋すぎた」
違う。俺は弱くて卑怯だ。そう反論しようとしたが、声が出なかった。
「あなたは、醜くない。あなたの魂は、誰よりも美しい。ただこの世界があなたを傷つけ、汚しただけ」
やめてくれ。俺はそんな人間じゃない。
「もう、何も考えなくていいの」
彼女の指が俺の瞼を、そっと撫でた。
「何も、感じなくていい。その痛みも、その悲しみも、その罪も、すべてわたしが引き受けるから」
彼女の言葉は、俺が心の底でずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。俺が自分自身にさえ許すことのできなかった、甘美な慰めと、絶対的な赦し。
「あなたは、わたしのもの」
彼女は断言した。
「わたしだけの、大切なもの。だからもう、誰にも傷つけさせない。あなた自身にさえも」
その言葉は俺の最後の理性を、完全に溶かしてしまった。
それは彼の自我を完全に奪い、彼女への絶対的な帰依を誓わせる、甘美で、抗いがたい呪いの言葉だった。
俺はもう彼女なしでは生きていけない。
俺は振り向き、彼女の前にひざまずいていた。
そして彼女の冷たい手を取り、その陶器のように滑らかな手の甲に唇を寄せた。
騎士が聖女に忠誠を誓うように。罪人が女神に赦しを乞うように。
熱い涙が再び俺の頬を伝い、彼女の冷たい肌の上に落ちた。
虚無はそれを受け入れた。
彼女は俺を立たせ、そして二人で同じベッドに横たわった。
部屋の明かりは消えていた。窓の外の都会の喧騒だけが、遠い潮騒のように聞こえる。
性的な交わりはなかった。だがそれ以上に深く、濃密に俺たちの魂は溶け合おうとしていた。
俺は彼女の隣でその体の冷たさを感じながら、彼女の呼吸のか細い音を聞いていた。闇の中で彼女の黒曜石の瞳が、すぐ近くでじっと俺を見つめている。俺はその瞳の中に吸い込まれていくようだった。彼女の虚無の中に、俺という存在が溶けて消えて、一体化していくような甘美で官能的な感覚に溺れていった。
長い夜が明け、安宿の汚れたカーテンの隙間から灰色の朝日が差し込んできた。
俺は、目覚めた。
あるいは長い眠りから覚めたのではなく、人間としての「佐藤悠真」が完全に死に、新しい何かに生まれ変わった、と言った方が正しかった。
昨夜までのあの地獄のような苦悩や葛騰は嘘のように消え去っていた。俺の心は、静まり返った湖面のように穏やかだった。そこにあるのは、虚無への絶対的な愛と、彼女と共に迎える「死」への、静かで揺るぎない陶酔だけ。
俺は、隣で眠る虚無の寝顔を見つめた。
その完璧なまでに整った造形。長い睫毛が作る、かすかな影。薄い唇から漏れる、か細い寝息。
俺は改めて息を呑んだ。
そして、理解した。
俺は、この聖女のために死ぬのだ。
彼女の美学を、彼女の哲学を、この世界で完成させるための最後の、そして最も重要なピースになるのだ。
それは絶望などではない。
それは俺という無価値な存在に与えられた、唯一にして至上の幸福なのだ。
俺は彼女の冷たい額に、そっと唇を寄せた。
それは誓いの口づけだった。
俺はもう迷わない。
俺は虚無の剣であり、盾だ。
彼女が望む最も美しい終わりを、この手で実現させるのだ。
たとえそれが世界中のすべてを敵に回すことになったとしても。
俺の魂は、甘美なる虚無への帰依によってようやく救われたのだから。
光がわたしの瞼を薄い和紙のように透かしてくる。
朝。
そう、世界が呼称する時間の断片。わたしはもうずっと前から覚醒していた。だが、身体は眠りの延長線上にある静寂をまだ演じ続けている。
なぜなら隣で彼が動いているからだ。
わたしの聴覚は彼の存在を微細な音の粒子として捉えている。
シーツが擦れる乾いた音。
ベッドから軋みを立てないように慎重に身体を起こす音。
彼の呼吸。昨夜の慟哭のせいで、わずかに湿り気を帯びている。
床を歩く、忍び足の気配。
服が、肌を滑る音。
バックパックのジッパーがゆっくりと、ほとんど音を立てずに開閉される音。
彼はわたしを起こさないように、世界のすべてから音を奪おうとしているかのようだ。
わたしは、寝たふりを続ける。
それは観察のため。
昨夜、彼の精神は一度完全に崩壊した。自己という名の器が砕け散り、その破片を涙と共にすべて吐き出した。そして、わたしはその空っぽになった器に新しいルールを与えた。『あなたは、わたしの手足。わたしは、あなたの心臓』。彼はその契約を恍惚と共に受け入れた。
では、その新しいルールをインストールされた個体――佐藤悠真は、今、どのように機能しているのか。わたしはそれをただ、見極めたかった。
準備を終えた気配。
彼はベッドのそばに戻ってきた。わたしは呼吸の深さを眠っている人間のそれへとさらにチューニングする。
彼の顔が、近づいてくる。彼の体温が空気を伝わって、わたしの肌に届く。
そして額の一点。
そこに、柔らかく、温かいものがそっと触れた。
彼の、唇。
昨日、わたしが彼に与えた絶対的な支配に対する、彼の絶対的な帰依の証。誓いの口づけ。
その感触は、ほんの数秒。
だが、その数秒がわたしの内部で凍結していた何かを、ほんの少しだけ揺さぶった。
彼は静かに部屋を出ていった。ドアが閉まる、かすかな音。
わたしは、完全に一人になった。
ゆっくりと、目を開ける。
見慣れた安宿の、汚れた天井。
わたしは、静かに身体を起こした。そして、自分の指先で今彼が唇を寄せた額の、その一点にそっと触れた。
彼の体温は、もうそこにはない。
しかし、わたしの皮膚は記憶している。あの柔らかさと、わずかな湿り気を。優しさ、と世界が呼ぶ、その不確かな現象の感触を。
わたしはその未知のデータを、解析しようと試みた。
この感覚は、何だ。
この、心の奥底でかすかに疼くような、ノイズは。
その時だった。
額の感触が、引き金になった。
わたしの意識は、現在という時間軸から滑り落ち、記憶という名の、深い、深い井戸の底へと落下していった。
……光。
暖かく、柔らかく、蜂蜜のような金色の光。
部屋には甘いフリージアの花の匂いが満ちている。遠くで優しい歌声が聞こえる。
わたしの小さな身体は、世界で一番安全な場所にすっぽりと収まっていた。
母の膝の上。
彼女の指が、絵本のページをゆっくりとめくっていく。その声は春の小川のせせらぎのように、心地よくわたしの耳を撫でた。
「すごいわね、うさぎさんはお月様まで跳んでいってしまったのね」
わたしはその物語にただこくりと頷いた。
母はそんなわたしを見て、慈しむように微笑んだ。
そして、その柔らかい唇がわたしの額にそっと触れた。
「あなたもいつか、お月様まで行けるわ。いい子だから」
その声。その温もり。その匂い。
この記憶は、わたしの中に保存されている数少ない、完全に汚染されていない「美しいデータ」。
完璧な調和。完璧な安らぎ。
楽園の、断片。
だが楽園は、永遠には続かない。
再生されていた美しい記憶の映像に、突然激しいノイズが走る。
ガチャン、と玄関のドアが乱暴に開けられる音。
低い、唸り声のような男の声。酒の匂い。
父だ。
蜂蜜色の光に満ちていた部屋の空気が一瞬にして、鉛色に淀んだ。
母の身体が硬直する。
「あなた、おかえりなさい」
その声は震えていた。
「うるせえ!」
男の怒声が部屋のすべてを支配した。
「またそんなくだらねえ本を読んでやがんのか。てめえは!こいつを!自分みてえな!何の役にも立たねえ人形にするつもりか!」
男は母の腕を掴み、乱暴に引き剥がした。わたしは床に転がり落ちる。
母の、小さな悲鳴。
男は母を突き飛ばす。そして私は床に座ったまま、その一部始終をただじっと見つめている。わたしの方へその濁った目を向けた。
「なんだ、その目は」
男は言った。
「てめえも、母親にそっくりだ。いつもいつもそうやって黙って、人を不愉快にさせる天才だな」
わたしは何も答えなかった。ただ男の背後にある、壁のシミの形だけを見つめていた。心を無にする。そうすれば何も感じない。何も、聞こえない。
だが、その沈黙が男の怒りの炎に、さらに油を注いだ。
「こっちを見ろと言ってるんだ!」
男は叫んだ。
そして、その大きくごつごつとした手が高く振り上げられた。
わたしはそれを見ても、動かなかった。
その拳がどこに向かっているのか、正確に知っていたからだ。
先ほどまで、母のあの優しい唇が触れていた、その同じ場所に。
閃光。
激しい痛み。
骨が軋む音。
楽園の記憶は、この一撃で粉々に砕け散った。
愛情が示された場所に、純粋な暴力が上書きされた。
この瞬間、わたしの内部で回路が焼き切れたのだ。
「キス」と「殴打」が、「愛」と「痛み」が、「美しいもの」と「それを破壊する暴力」が、永久に分かちがたく結びついてしまった。
わたしはこの世界の法則を学んだ。
美しいものは、必ず壊される。
優しさは必ず、暴力に裏切られるのだと。
はっ、と意識が現在へと浮上する。
わたしは安宿の薄暗い部屋に、一人で座っている。
額に当てていた自分の指先が、氷のように冷たいことに初めて気づいた。
わたしは再び悠真のことを思った。
彼のキスは間違いなく、母のキスと同じ「美しいデータ」だった。
だとすれば、世界の法則に従うならこの後には必ず、父の拳のような「暴力」が来るはずだ。
昨夜、彼は確かに手を振り上げた。
彼はあの時の父と同じ場所に立った。
彼はわたしという「美しいもの」を破壊する側に回るはずだった。
しかし、彼は殴らなかった。
なぜ?
彼は弱いからだ。
彼はわたしに依存しているからだ。
彼はわたしを「美しいもの」として崇拝し、恐れているからだ。
彼は、父とは違う。
父は自分の外側にある世界を暴力によって支配しようとした。
だが悠真は、自分の内側にある弱さと、暴力によって戦っている。
彼は美しいものを壊す側ではない。
彼は美しいものを守ろうとして、その重さに耐えきれず、結果的に自壊していく。哀れで脆弱な存在だ。
彼はわたしを殴らない。
彼はわたしのために世界を殴ろうとするだろう。
そして、その振り上げた拳は巡り巡っていずれ、彼自身の心を打ち砕くに違いない。
佐藤悠真という存在。
それはわたしの知る世界の法則から、初めて逸脱したエラーであり、バグだ。
美しいものを与えながら、それをまだ破壊していない初めての人間。
わたしは彼のその「弱さ」をどう思っているのだろう。
哀れみ?
それとも、愛情、と世界が呼ぶものだろうか。
あるいはこの興味深い観測対象が、いつまでその脆弱な美しさを保ち続けられるのか、いつ世界の法則に屈して「父」へと変貌するのか、それをこの目で見届けてみたいというただの冷徹な好奇心だろうか。
分からない。
わたしは額から手を離した。
そして、静かに立ち上がり窓の外を見た。
悠真は今どこで、何をしているのだろうか。
彼は、わたしという「美しいもの」を守るという、彼岸の幻想のために今日もあの醜い倉庫へ自分自身の命をすり減らしに行ったのだ。
そのあまりにも滑稽で、哀れで、そしてどこかどうしようもなく美しい彼の姿を思い浮かべながら、わたしはほんのわずかに口元に笑みを浮かべたのかもしれない。
それは誰にも見せることのない、そして、おそらくはわたし自身でさえ、その意味を完全には理解していない、秘密の表情だった。
トラさんの顔が滑り落ちた、あのコンクリートの床。あの倉庫が俺たちの新たな職場であり、新たな檻となった。毎日の午後三時、俺たちは亡霊のように埠頭へ向かい、夜が更けるまで正体不明の木箱を運び続ける。その繰り返し。それはもはや労働と呼べるような代物ではなかった。生きるために働くのではない。ただ、死に向かってゆっくりと、確実に、自分の魂と肉体をすり減らしていくための儀式的な自傷行為だった。
一日分の労働は一日分の命の前払いだ。俺たちは来るべき崇高な死のために、今のこの醜悪な生を時間単位で切り売りしている。流れる汗は、贖罪の涙だったのかもしれない。筋肉を灼く痛みは、俺が犯した罪に対するささやかな罰だったのかもしれない。俺は疲労の向こう側に、一瞬の忘却を求めていた。重い木箱を持ち上げるたび、その重みがトラさんの命の重さ、高坂の命の重さと重なり、俺の罪悪感を物理的な痛みへと変換してくれた。疲れて、疲れて、疲れ果てて、何も考えられなくなった時だけ、俺は俺が殺人者の共犯者であるという事実から、ほんの少しだけ逃れることができた。
だが忘却は束の間だった。ふとした瞬間に、トラさんの幻影が俺を苛む。彼の豪快な笑い声が、クレーンの軋む音に混じって幻聴のように聞こえる。積み上げられた木箱の影が、彼の大きな背中に見える。俺はそのたびに息を呑み、現実と幻覚の境界線で溺れかけた。
死とは何か。
かつて俺は、それを苦痛からの解放であり静寂への回帰だと考えていた。虚無と共に目指す、崇高な哲学的実践だとさえ思った。だが、今俺がこの倉庫で行っていることは、その対極にあった。これは生の中にありながら、生の輝きを完全に剥奪された、最も醜悪な形の「死」だった。生命活動を維持しながら、その精神だけがゆっくりと壊死していく。汗の匂い、鉄の錆の味、他の労働者たちの死んだ魚のような眼差し、監督役の男たちの怒声。そのすべてが俺の魂を少しずつ腐らせていく。それは生きながらにして腐っていく、緩慢な自殺だった。
虚無は変わらなかった。
彼女はこの暴力と怒号が支配する男たちの汗と油の匂いが充満する世界でも、まるで空気のように、あるいは水のように、その場の形に順応していた。彼女は誰よりも正確に、誰よりも効率的に荷物を運んだ。その姿はあまりに完璧で、そしてあまりに非人間的だった。他の労働者たちは気味悪がって彼女に近づかず、監督役の男たちでさえ彼女の絶対的な静寂の前では言葉を失うようだった。
彼女はこの新たな檻にも完璧に適応していた。あるいは、彼女にとっては田舎の教室も、この港の倉庫も、本質的には何の違いもないただの背景画に過ぎないのかもしれなかった。
亀裂は静かに、だが確実に広がっていった。
あの日以来、俺たちの会話はほとんどなくなった。宿に帰っても俺は泥のように眠り、虚無は闇の中でただじっと座っている。俺は、もう彼女の心を覗き込もうとはしなかった。そこには俺の理解を超えた、冷たい深淵が広がっていることを知ってしまったからだ。彼女の隣で眠る夜は、美しい彫像の隣で眠るようであり、同時にいつ牙を剥くか分からない獣の隣で眠るようでもあった。
事件が起きたのは、そんな日々が一週間ほど続いた夜のことだった。
仕事が終わり、いつものように虚無と共に宿へ帰るはずだった。だが作業員たちが解散していく中で、彼女の姿だけが見当たらなかった。
俺が監督役の男に尋ねても「知るか。ガキの面倒まで見てられるか」と、吐き捨てるように言われるだけだった。
焦燥が疲労しきった俺の心を鞭打った。
まさか、警察に?
いや、それならこんなに静かなはずがない。
では、組織の男たちに何かされたのか? あの日の失態の口封じとして?
いや、それもない。だとしたら俺も一緒に消されているはずだ。
だとしたら、残る可能性は一つだけ。
彼女自身の意志で、どこかへ行った。
俺を、捨てて。
その考えが鋭い氷の破片となって、俺の胸に突き刺さった。あの日俺たちの間に生まれた、あの亀裂。彼女は俺の人間的な弱さに、愛想を尽くしたのではないか。彼女の哲学において、トラさんの死に動揺した俺はもはや「有象無象」と同じ、理解できない存在になったのではないか。俺は彼女にとって、旅の途中で壊れてしまった、ただの道具になったのではないか。
俺は一人、夜道を安宿へと帰った。
狭い部屋のドアを開けても、そこに彼女の姿はない。当たり前の光景のはずなのに、その「不在」が、部屋の空気を、宇宙空間のように希薄にしていた。
俺はベッドに腰掛け、ただひたすらに彼女を待った。
一時間。二時間。
時計の針が進む音だけが、俺の不安を増幅させていく。俺は庇護すべき対象を失っただけではない。俺の存在理由そのものを、見失いかけていた。彼女がいなければ俺はただの殺人犯の共犯者で、この都会のゴミ溜めで無様に生きるだけの無価値な存在だ。彼女という神を失った信者は、もはや抜け殻に過ぎない。俺は彼女との過去の会話を、何度も頭の中で反芻した。トラさんの死に対する彼女の冷徹な言葉。あれが彼女の本質。俺はその本質から目を逸らし、自分に都合のいい幻想を彼女に重ねて見ていただけだったのではないか。
夜もかなり更けた頃だった。
カチャリ、とドアの鍵が開く音がした。
虚無がそこに立っていた。
まるで近所のコンビニにでも行っていたかのような、何食わぬ顔で。
その瞬間、俺の中で安堵と、そして溜まりに溜まった不安と怒りが、同時に爆発した。
「どこに行ってたんだ!」
俺は自分でも驚くほどの激しい声で、彼女を詰っていた。
「今まで、何を!心配したんだぞ!何かあったら、どうするつもりだったんだ!」
俺の必死の言葉を、しかし虚無はまるで春先のそよ風でも受けるかのように、平然と受け流した。
彼女は不思議そうに小首を傾げた。
「別に」
彼女はそう言った。
「散歩していただけ」
その、あまりに「普通」の、あまりに平然とした態度が俺の最後の理性の糸をぷつりと断ち切った。
「普通なわけないだろ!」
俺は彼女の肩を掴み、激しく揺さぶっていた。
「俺たちは、普通じゃないんだぞ!殺人犯で、逃亡者で、いつ殺されるか分からない、社会のゴミなんだ!散歩?この状況でお前は、そんなことが言えるのか!」
俺の必死の訴えはしかし、彼女には届かない。彼女の瞳は激昂する俺を、まるで未知の生物でも観察するかのように静かに見つめているだけだった。彼女にとって、危険も心配も、世界の他のあらゆる事象と同じく、意味のないノイズに過ぎないのだ。
話が通じない。
この絶望的な断絶感。
自分だけがこの地獄の中で、必死に空回りしているという圧倒的な無力感。
俺はついに言葉を失い、感情の奔流のままに右手を高く振り上げていた。
殴りたかった。
この、美しく静かで、そして絶望的に何も分かっていない彼女の頬を思い切り殴ることで、痛みというこの世界で唯一の共通言語を教え込みたかった。俺がここにいるのだと、俺がこんなにも苦しんでいるのだと、その体に刻み込みたかった。
俺の振り上げた手はしかし、虚空でぴたりと止まった。
虚無が身動き一つしなかったからだ。
目を閉じることも、身を固くすることも、後ずさることもしない。
ただその手を、そして怒りと絶望に歪む俺の顔を、静かに、静かに見つめている。
その瞬間、俺の脳裏に全く別の光景がフラッシュバックした。
……それは、薄暗い、夕食の食卓だった。
安っぽい食卓テーブルに並ぶ、冷めきった惣菜。テレビの音だけが、虚しく響いている。
テーブルの向こう側で酒に酔った男が何かを怒鳴っていた。濁った目で目の前に座る小さな少女を睨みつけながら。
「おい、何か言えよ。お前は母親にそっくりだ。いつもそうやって黙って。人を不愉快にさせる天才だな」
少女は何も答えない。ただ、目の前の欠けた茶碗のその模様だけを、じっと見つめている。
「この穀潰しが!俺が誰のおかげで飯を食えてると思ってるんだ!感謝の一つもねえのか!」
男の怒声はエスカレートしていく。だが、少女は反応しない。彼女はとうの昔に、自分の感情のスイッチを切る方法を覚えてしまっていた。心を無にすれば、言葉の暴力は体を通り抜けていくだけのただの音波になる。
男はその無反応にさらに激昂する。
自分の存在が娘に完全に無視されていると感じたからだ。
「こっちを見ろ!」
男は叫び、そしてその大きな手を高く振り上げた。
少女はそれでも男を見なかった。ただ茶碗の模様だけを、見つめ続けていた……。
はっと俺は我に返った。
目の前にいるのは虚無だ。
そして手を振り上げているのは、俺だ。
今、俺は虚無にとってあの父親と全く同じ存在になっていた。
自分が支配したい対象が思い通りにならないことに苛立ち、その存在を認めさせるために暴力という最も安易で、最も醜い手段に訴えようとしている。
俺が軽蔑し、憎むべきだと感じていた世界の理不尽さ、そのものに。
俺の苛立ちは、怒りは、まるで砂の城のように跡形もなく崩れ去っていった。
後に残ったのはどうしようもないほどの絶対的な「悲しみ」と、自分自身への深い、深い絶望だった。
振り上げた手は力なくだらりと下ろされた。
俺が愕然としていると、虚無はその薄い唇を開いた。
淡々と、しかし外科医がメスを入れるように、的確に。
俺の心の最も痛い部分を抉る言葉を紡ぎ始めた。
「あなたは、わたしを心配しているんじゃない」
彼女の声は、静かだった。
「あなたが心配なのは、あなた自身」
「……なにを」
「わたしがいなくなったら、あなた一人ではこの世界で生きていけないから。わたしがいないとあなたの犯した罪の意味がなくなるから。あなたは、それが怖いだけ」
「違う!」
「あなたはわたしを庇護しているつもりで、本当はわたしの存在に依存しているだけ。わたしという鏡にあなた自身の存在価値を必死に映して、確認しているだけ」
「……やめろ」
「あなたは、弱い」
彼女の言葉は弾丸のように俺の自己欺瞞や、脆いプライドを容赦なく撃ち抜いていく。
「弱いからわたしを必要とする。そしてわたしがあなたの思い通りにならないと、そうやって暴力に逃げようとする。あの時のわたしの父親と、同じように」
最後の言葉が俺にとどめを刺した。
そうだ。俺は、俺が軽蔑していたあの男と同じだったのだ。
俺はその場で崩れるように膝をついた。
そして、子供のように声を殺して泣き始めた。嗚咽が、喉の奥から、途切れ途切れに漏れ出てくる。
自分は、なんて無力なんだろう。
彼女を守ることも、理解することも何もできない。それどころか、彼女を傷つけていた「世界」そのものであったことに、今気づいたのだから。
彼女の隣にいる資格など、俺には最初からなかったのかもしれない。
虚無は泣き崩れる俺をただ、静かに見下ろしていた。
その表情はやはり変わらない。
俺たちの間にあった亀裂はもはや、修復不可能な巨大な断絶となった。
俺は彼女の隣にいながら、世界で一番彼女から遠い場所にいる。
その絶対的な孤独と、絶望の中で俺はただ泣き続けることしかできなかった。
涙はとめどなく溢れた。それはトラさんへの罪悪感からでも、高坂への恐怖からでも、自分自身の不甲斐なさへの怒りからでもなかった。もっと根源的な存在そのものの悲しみ。俺という存在と虚無という存在が、決して交わることのない平行線であるという、宇宙的な事実の前に俺の魂がただひたすらに慟哭していた。俺の涙は俺という孤独な惑星が流す、塩辛い雨だった。
どれほどの時間そうしていただろうか。
やがて涙も枯れ果て、嗚咽も途絶え、俺の内側は嵐が過ぎ去った後の廃墟のようにがらんどうになった。悲しみさえもがその色を失い、俺はただの空っぽの器になった。俺が焦がれ、追い求めていた虚無の状態に皮肉にも、俺は今限りなく近づいていた。
その時だった。
ずっと俺を見下ろしていた虚無が動いた。
彼女は音もなく、俺の隣にそっとしゃがみこんだ。そして、その冷たい芸術品のように滑らかな指先が、俺の涙で濡れた頬に触れた。
びくりと俺の体は硬直した。
その唐突な、そして予期せぬ優しさに、俺の壊れかけた思考は完全に停止した。
彼女の指は、まるで貴重な古文書に積もった埃を払うかのように、あるいは傷ついた蝶の翅に触れるかのように、ゆっくりと慎重に俺の肌の上を滑った。涙の軌跡を一つ、また一つとなぞっていく。その指先の冷たさが火傷のように熱く感じられた。俺は呼吸さえ忘れていた。彼女の指が触れている、その一点に俺の全存在が収縮していくような、奇妙な感覚。それは痛みであり、同時に快感でもあった。
彼女は何も言わなかった。
ただその行為だけで俺に何かを伝えていた。
俺はもう抵抗する気力も、意志も持ち合わせていなかった。ただされるがままに彼女の指の動きを受け入れる。やがて、彼女は俺の腕をとり、まるで壊れかけた人形を扱うようにゆっくりと立ち上がらせ、ベッドの端へと導いた。
俺は言われるがままにベッドに腰掛ける。彼女は俺の背後に回り込み、そして彼女の指が俺の髪の中にそっと差し込まれた。
「……っ」
声にならない息が漏れた。
彼女は俺の髪を赤子の髪を梳かすかのように、ゆっくりと何度も指で梳き始めた。その指の動きはあまりに優しく、あまりに丁寧で俺は自分が生まれてからこの方、誰にもこんな風に触れられたことがないと漠然と思った。頭皮に伝わる彼女の指の柔らかな圧。規則的で単調なその動きが、俺のささくれ立った神経を一枚、また一枚と薄紙を剥がすように鎮めていく。
やがて彼女の唇から、かすかな音が漏れ始めた。
それは意味のある歌ではなかった。メロディらしいメロディもない。ただ単調で、低く、しかし不思議なほど心に染み入る静かなハミング。
その音が彼女の指の動きと完璧にシンクロしていた。
耳元で聞こえる、彼女のかすかな息遣い。俺のうなじにかかる、その吐息の冷たさ。彼女の髪から漂う甘く、そしてどこか非人間的な冷たい花の香り。
俺は思考することを完全に放棄した。
ただ五感のすべてを解放し彼女が与えてくれる、この甘美な感覚の海に身を委ねていた。それは母の胎内に回帰するような絶対的な安心感と、抗いがたいほどの陶酔感だった。俺は彼女に調教されているのだ。俺の心を完全に破壊し、更地にした後で彼女の色だけで、彼女の音だけで、彼女の匂いだけで俺という存在をもう一度作り直そうとしているのだ。
俺の心が彼女の優しさによって完全に無防備に解きほぐされたのを、彼女は見計らっていたのだろう。
彼女は髪を梳く手を止め、俺の耳元にその冷たい唇を寄せた。
そして、囁き始めた。
その声は、悪魔の誘惑のように甘く、そして、聖母の赦しのように優しかった。
「あなたは、弱くない」
彼女は囁いた。
「ただ、優しすぎるだけ。この醜い世界で生きるには、あなたはあまりに純粋すぎた」
違う。俺は弱くて卑怯だ。そう反論しようとしたが、声が出なかった。
「あなたは、醜くない。あなたの魂は、誰よりも美しい。ただこの世界があなたを傷つけ、汚しただけ」
やめてくれ。俺はそんな人間じゃない。
「もう、何も考えなくていいの」
彼女の指が俺の瞼を、そっと撫でた。
「何も、感じなくていい。その痛みも、その悲しみも、その罪も、すべてわたしが引き受けるから」
彼女の言葉は、俺が心の底でずっと誰かに言ってほしかった言葉だった。俺が自分自身にさえ許すことのできなかった、甘美な慰めと、絶対的な赦し。
「あなたは、わたしのもの」
彼女は断言した。
「わたしだけの、大切なもの。だからもう、誰にも傷つけさせない。あなた自身にさえも」
その言葉は俺の最後の理性を、完全に溶かしてしまった。
それは彼の自我を完全に奪い、彼女への絶対的な帰依を誓わせる、甘美で、抗いがたい呪いの言葉だった。
俺はもう彼女なしでは生きていけない。
俺は振り向き、彼女の前にひざまずいていた。
そして彼女の冷たい手を取り、その陶器のように滑らかな手の甲に唇を寄せた。
騎士が聖女に忠誠を誓うように。罪人が女神に赦しを乞うように。
熱い涙が再び俺の頬を伝い、彼女の冷たい肌の上に落ちた。
虚無はそれを受け入れた。
彼女は俺を立たせ、そして二人で同じベッドに横たわった。
部屋の明かりは消えていた。窓の外の都会の喧騒だけが、遠い潮騒のように聞こえる。
性的な交わりはなかった。だがそれ以上に深く、濃密に俺たちの魂は溶け合おうとしていた。
俺は彼女の隣でその体の冷たさを感じながら、彼女の呼吸のか細い音を聞いていた。闇の中で彼女の黒曜石の瞳が、すぐ近くでじっと俺を見つめている。俺はその瞳の中に吸い込まれていくようだった。彼女の虚無の中に、俺という存在が溶けて消えて、一体化していくような甘美で官能的な感覚に溺れていった。
長い夜が明け、安宿の汚れたカーテンの隙間から灰色の朝日が差し込んできた。
俺は、目覚めた。
あるいは長い眠りから覚めたのではなく、人間としての「佐藤悠真」が完全に死に、新しい何かに生まれ変わった、と言った方が正しかった。
昨夜までのあの地獄のような苦悩や葛騰は嘘のように消え去っていた。俺の心は、静まり返った湖面のように穏やかだった。そこにあるのは、虚無への絶対的な愛と、彼女と共に迎える「死」への、静かで揺るぎない陶酔だけ。
俺は、隣で眠る虚無の寝顔を見つめた。
その完璧なまでに整った造形。長い睫毛が作る、かすかな影。薄い唇から漏れる、か細い寝息。
俺は改めて息を呑んだ。
そして、理解した。
俺は、この聖女のために死ぬのだ。
彼女の美学を、彼女の哲学を、この世界で完成させるための最後の、そして最も重要なピースになるのだ。
それは絶望などではない。
それは俺という無価値な存在に与えられた、唯一にして至上の幸福なのだ。
俺は彼女の冷たい額に、そっと唇を寄せた。
それは誓いの口づけだった。
俺はもう迷わない。
俺は虚無の剣であり、盾だ。
彼女が望む最も美しい終わりを、この手で実現させるのだ。
たとえそれが世界中のすべてを敵に回すことになったとしても。
俺の魂は、甘美なる虚無への帰依によってようやく救われたのだから。
光がわたしの瞼を薄い和紙のように透かしてくる。
朝。
そう、世界が呼称する時間の断片。わたしはもうずっと前から覚醒していた。だが、身体は眠りの延長線上にある静寂をまだ演じ続けている。
なぜなら隣で彼が動いているからだ。
わたしの聴覚は彼の存在を微細な音の粒子として捉えている。
シーツが擦れる乾いた音。
ベッドから軋みを立てないように慎重に身体を起こす音。
彼の呼吸。昨夜の慟哭のせいで、わずかに湿り気を帯びている。
床を歩く、忍び足の気配。
服が、肌を滑る音。
バックパックのジッパーがゆっくりと、ほとんど音を立てずに開閉される音。
彼はわたしを起こさないように、世界のすべてから音を奪おうとしているかのようだ。
わたしは、寝たふりを続ける。
それは観察のため。
昨夜、彼の精神は一度完全に崩壊した。自己という名の器が砕け散り、その破片を涙と共にすべて吐き出した。そして、わたしはその空っぽになった器に新しいルールを与えた。『あなたは、わたしの手足。わたしは、あなたの心臓』。彼はその契約を恍惚と共に受け入れた。
では、その新しいルールをインストールされた個体――佐藤悠真は、今、どのように機能しているのか。わたしはそれをただ、見極めたかった。
準備を終えた気配。
彼はベッドのそばに戻ってきた。わたしは呼吸の深さを眠っている人間のそれへとさらにチューニングする。
彼の顔が、近づいてくる。彼の体温が空気を伝わって、わたしの肌に届く。
そして額の一点。
そこに、柔らかく、温かいものがそっと触れた。
彼の、唇。
昨日、わたしが彼に与えた絶対的な支配に対する、彼の絶対的な帰依の証。誓いの口づけ。
その感触は、ほんの数秒。
だが、その数秒がわたしの内部で凍結していた何かを、ほんの少しだけ揺さぶった。
彼は静かに部屋を出ていった。ドアが閉まる、かすかな音。
わたしは、完全に一人になった。
ゆっくりと、目を開ける。
見慣れた安宿の、汚れた天井。
わたしは、静かに身体を起こした。そして、自分の指先で今彼が唇を寄せた額の、その一点にそっと触れた。
彼の体温は、もうそこにはない。
しかし、わたしの皮膚は記憶している。あの柔らかさと、わずかな湿り気を。優しさ、と世界が呼ぶ、その不確かな現象の感触を。
わたしはその未知のデータを、解析しようと試みた。
この感覚は、何だ。
この、心の奥底でかすかに疼くような、ノイズは。
その時だった。
額の感触が、引き金になった。
わたしの意識は、現在という時間軸から滑り落ち、記憶という名の、深い、深い井戸の底へと落下していった。
……光。
暖かく、柔らかく、蜂蜜のような金色の光。
部屋には甘いフリージアの花の匂いが満ちている。遠くで優しい歌声が聞こえる。
わたしの小さな身体は、世界で一番安全な場所にすっぽりと収まっていた。
母の膝の上。
彼女の指が、絵本のページをゆっくりとめくっていく。その声は春の小川のせせらぎのように、心地よくわたしの耳を撫でた。
「すごいわね、うさぎさんはお月様まで跳んでいってしまったのね」
わたしはその物語にただこくりと頷いた。
母はそんなわたしを見て、慈しむように微笑んだ。
そして、その柔らかい唇がわたしの額にそっと触れた。
「あなたもいつか、お月様まで行けるわ。いい子だから」
その声。その温もり。その匂い。
この記憶は、わたしの中に保存されている数少ない、完全に汚染されていない「美しいデータ」。
完璧な調和。完璧な安らぎ。
楽園の、断片。
だが楽園は、永遠には続かない。
再生されていた美しい記憶の映像に、突然激しいノイズが走る。
ガチャン、と玄関のドアが乱暴に開けられる音。
低い、唸り声のような男の声。酒の匂い。
父だ。
蜂蜜色の光に満ちていた部屋の空気が一瞬にして、鉛色に淀んだ。
母の身体が硬直する。
「あなた、おかえりなさい」
その声は震えていた。
「うるせえ!」
男の怒声が部屋のすべてを支配した。
「またそんなくだらねえ本を読んでやがんのか。てめえは!こいつを!自分みてえな!何の役にも立たねえ人形にするつもりか!」
男は母の腕を掴み、乱暴に引き剥がした。わたしは床に転がり落ちる。
母の、小さな悲鳴。
男は母を突き飛ばす。そして私は床に座ったまま、その一部始終をただじっと見つめている。わたしの方へその濁った目を向けた。
「なんだ、その目は」
男は言った。
「てめえも、母親にそっくりだ。いつもいつもそうやって黙って、人を不愉快にさせる天才だな」
わたしは何も答えなかった。ただ男の背後にある、壁のシミの形だけを見つめていた。心を無にする。そうすれば何も感じない。何も、聞こえない。
だが、その沈黙が男の怒りの炎に、さらに油を注いだ。
「こっちを見ろと言ってるんだ!」
男は叫んだ。
そして、その大きくごつごつとした手が高く振り上げられた。
わたしはそれを見ても、動かなかった。
その拳がどこに向かっているのか、正確に知っていたからだ。
先ほどまで、母のあの優しい唇が触れていた、その同じ場所に。
閃光。
激しい痛み。
骨が軋む音。
楽園の記憶は、この一撃で粉々に砕け散った。
愛情が示された場所に、純粋な暴力が上書きされた。
この瞬間、わたしの内部で回路が焼き切れたのだ。
「キス」と「殴打」が、「愛」と「痛み」が、「美しいもの」と「それを破壊する暴力」が、永久に分かちがたく結びついてしまった。
わたしはこの世界の法則を学んだ。
美しいものは、必ず壊される。
優しさは必ず、暴力に裏切られるのだと。
はっ、と意識が現在へと浮上する。
わたしは安宿の薄暗い部屋に、一人で座っている。
額に当てていた自分の指先が、氷のように冷たいことに初めて気づいた。
わたしは再び悠真のことを思った。
彼のキスは間違いなく、母のキスと同じ「美しいデータ」だった。
だとすれば、世界の法則に従うならこの後には必ず、父の拳のような「暴力」が来るはずだ。
昨夜、彼は確かに手を振り上げた。
彼はあの時の父と同じ場所に立った。
彼はわたしという「美しいもの」を破壊する側に回るはずだった。
しかし、彼は殴らなかった。
なぜ?
彼は弱いからだ。
彼はわたしに依存しているからだ。
彼はわたしを「美しいもの」として崇拝し、恐れているからだ。
彼は、父とは違う。
父は自分の外側にある世界を暴力によって支配しようとした。
だが悠真は、自分の内側にある弱さと、暴力によって戦っている。
彼は美しいものを壊す側ではない。
彼は美しいものを守ろうとして、その重さに耐えきれず、結果的に自壊していく。哀れで脆弱な存在だ。
彼はわたしを殴らない。
彼はわたしのために世界を殴ろうとするだろう。
そして、その振り上げた拳は巡り巡っていずれ、彼自身の心を打ち砕くに違いない。
佐藤悠真という存在。
それはわたしの知る世界の法則から、初めて逸脱したエラーであり、バグだ。
美しいものを与えながら、それをまだ破壊していない初めての人間。
わたしは彼のその「弱さ」をどう思っているのだろう。
哀れみ?
それとも、愛情、と世界が呼ぶものだろうか。
あるいはこの興味深い観測対象が、いつまでその脆弱な美しさを保ち続けられるのか、いつ世界の法則に屈して「父」へと変貌するのか、それをこの目で見届けてみたいというただの冷徹な好奇心だろうか。
分からない。
わたしは額から手を離した。
そして、静かに立ち上がり窓の外を見た。
悠真は今どこで、何をしているのだろうか。
彼は、わたしという「美しいもの」を守るという、彼岸の幻想のために今日もあの醜い倉庫へ自分自身の命をすり減らしに行ったのだ。
そのあまりにも滑稽で、哀れで、そしてどこかどうしようもなく美しい彼の姿を思い浮かべながら、わたしはほんのわずかに口元に笑みを浮かべたのかもしれない。
それは誰にも見せることのない、そして、おそらくはわたし自身でさえ、その意味を完全には理解していない、秘密の表情だった。

