トラックの狭い車内は、俺にとって世界の縮図となった。片側には、何も知らずに生命を謳歌する道化師。もう片側には、その生命を躊躇なく摘み取ろうとする、美しき獣。そして俺は、その間でかろうじて均衡を保つ、哀れな調教師。俺たちの旅は、もはや後戻りできないだけでなく、一瞬たりとも気を抜けない、細い細い、綱渡りのようなものになってしまったのだ。

 トラさんの演歌の熱唱は、夜が明けるまで続いた。
 俺は一睡もできなかった。アドレナリンと恐怖と、そして奇妙な使命感が、俺の意識を無理やり覚醒させ続けていた。

 虚無は時折こくりと舟を漕ぐことはあったが、深く眠っているようには見えなかった。彼女もまた、この異常な空間で意識の弦を張り詰めさせていたのかもしれない。彼女の穏やかに見える横顔は、昨夜の惨劇と殺意がすべて幻だったかのように静謐で、美しかった。そのギャップが、逆に俺の不安を掻き立てた。この静けさの下にどれほどの激情と破壊衝動が眠っているというのか。

 やがて高速道路の先に、巨大なビル群のシルエットが見え始めた。闇の中に浮かび上がる、無数の光の点。それは俺たちが目指していた場所。そして俺たちが死ぬべき場所。あの光の集合体そのものが、巨大な墓石のように見えた。
 「おう、見えてきたぜ、都会ってやつがな!」
 トラさんが興奮したように叫ぶ。
 俺は窓の外の光を見つめながら、これから始まる本当の地獄に身を震わせた。



 「達者でな!」
 トラさんのトラックが、雑踏の中へと消えていく。その大きな龍の絵が描かれた背中が、ビルの谷間に見えなくなるまで、俺たちはただ黙って見送っていた。
 トラさんは何も知らずに、自分の日常へと帰っていく。
 俺たちにはもう、帰る場所はない。
 俺たちが今立っているこの場所こそが、世界の果てなのだ。

 そして俺たちは、光の洪水に飲み込まれた。
 早朝の駅前。洪水はまだその勢いを増す前の、静かな渦の状態だった。だが、その光の粒子一つ一つが、俺の肌を刺した。
 巨大な駅ビルの壁面を覆うデジタルサイネージが、色鮮やかな広告を絶え間なく垂れ流している。ショーウィンドウの中では、値札さえ見えない高価な服やバッグが、スポットライトを浴びて「幸せ」の象徴のように鎮座している。カフェのテラス席では、朝の光を浴びながら、楽しそうに談笑するカップルがいる。制服姿の学生たちが、スマートフォンの画面を見せ合いながら、屈託なく笑っている。
 
 キラキラしている。
 すべてが、何もかもが、俺たちが田舎町で憎んでいた退屈とは正反対の眩い光に満ちていた。
 かつての俺なら、この光景に憧れたかもしれない。この光の中に自分の居場所を見つけたい、とそう願ったかもしれない。
 だが、今の俺にとってこの光は、ただただ暴力的だった。
 このキラキラした風景そのものが、俺たちの罪を告発している巨大な証拠品に見えた。ここにいる誰もが、俺たちが昨夜、森の闇の中で、一人の人間の未来を永遠に奪ったことなど知らない。この無関心さ、この無知こそが、俺たちをこの世界から完全に疎外し、透明な存在に変えていく。田舎での疎外は、他人の視線という檻に閉じ込められる息苦しさだった。だが、都会での疎外は違う。無数の人間がいるのに、誰の視界にも入らない。存在しているのに、存在していないのと同じ。それはより根源的で、残酷な孤独だった。

 俺は隣に立つ虚無を見た。
 彼女はこの光の洪水の中で、どうしているだろうか。
 彼女は興味も、嫌悪も、何の感情も浮かべずに、ただまっすぐに前を見つめていた。ネオンサインの光が彼女の黒曜石の瞳に反射して、無数の小さな星のようにきらめいている。その人工的な光の中で、彼女の美しさはより一層、この世のものならざる神聖さを帯びていた。まるでこの世界のあらゆる虚飾と欺瞞を、その瞳で見抜いているかのように。
 そうだ。この光も、この喧騒も、すべては虚構だ。
 俺の唯一の真実は隣にいる、この虚無だけだ。

 俺は、事前にスマートフォンで調べておいた、安宿を目指した。駅から少し離れた、路地裏にある古いビジネスホテル。
 ホテルの受付には、眠そうな顔をした老人が座っているだけだった。俺はできるだけ落ち着いて、しかし声が震えないように、一泊分の料金を支払った。
 ドアに鍵をかけ、チェーンを掛けた瞬間。俺の全身から、一気に力が抜けた。張り詰めていた糸が、すべて切れてしまったようだった。俺その場に崩れるように座り込み、動けなくなった。
 虚無はそんな俺を、静かに見下ろしていた。

 部屋の静寂の中、俺は床に座り込んだまま、か細い声で彼女に尋ねた。
 「……怖く、ないのか」
 高坂を殺したこと。トラさんを殺そうとしたこと。そして、あのキラキラした都会の真ん中で追われる身になったこと。
 そのすべてが、怖くないのか、と。

 虚無は初めて、少しだけ考えるような素振りを見せた。そして静かに答えた。
 「悠真がいるから」
 その言葉がどんな意味を持つのか。俺には、正確には分からなかった。
 俺は答えを見つけられないまま、目の前にいる、この美しく、恐ろしく、そして自分なしでは生きていけない少女を、衝動的に抱きしめていた。
 「俺が、守る」
 俺は彼女の耳元で、自分に言い聞かせるように何度も呟いた。
 「俺が、お前を守るから。あの汚れた光から。世界のすべてから。だからもう、お前は何もしなくていい」


 安宿での生活が三日続いた頃だった。
 俺たちの財布はその薄っぺらい腹を完全に見せ、空っぽになった。俺が最後にコンビニで買ってきた、一個のあんパン。それを分け、虚無と二人で食べた。それが、俺たちの最後の晩餐になるかもしれなかった。
 哲学としての「死」は美しい。だが、空腹に苛まれ、宿を追い出され、都会の路上で惨めに餓死するのは、あまりに醜い。俺たちの美学が、それを許さなかった。
 「……金が尽きた」
 俺はベッドに座り、壁の一点を見つめる虚無に、その絶望的な事実を告げた。
 「このままじゃ、宿代も払えない。追い出される」

 虚無は、ゆっくりと俺に視線を向けた。その瞳には、焦りも、絶望も、何の感情も浮かんでいない。まるで、俺が「明日の朝に太陽が昇るらしい」とでも言ったかのように、平然としていた。
 そして、彼女は当然のことのように言った。
 「盗ればいい」
 その言葉は、あまりに純粋で、それ故に、あまりに暴力的だった。
 彼女の中では、世界のルールはとうに崩壊している。他人の所有物という概念など存在しない。道端の石を拾うことと、コンビニのレジから金を奪うことの間に、彼女の中では倫理的な差異は存在しないのだ。

 だが、俺は違った。
 俺の中にはまだ、この腐った世界の、くだらないルールが、呪いのようにこびりついていた。
 「……だめだ」
 俺は、強く首を横に振った。
 「それだけは、できない」
 「なぜ」
 虚無は、純粋な疑問として、そう尋ねた。
 「非効率だよ」
 「効率の問題じゃない!」
 俺は、思わず声を荒らげていた。
 「これは、美学の問題だ!俺たちは、殺人者だ。それはもう取り返しのつかない事実だ。でも、だからこそ、泥棒にだけはなっちゃいけないんだ。俺たちの行為は、逃げるためでも、生きるためでもない。証明するためなんだろ?だったら、その手段も美しくなくちゃ意味がない。盗むなんて、醜いだけだ」

 我ながら支離滅裂な論理だと思った。人を殺しておいて窃盗は醜いとは、一体何様のつもりだ。だがそれが、俺が人間として、あるいは「佐藤悠真」として最後にしがみついている、脆いプライドだった。

 虚無は俺のその歪んだ美学を理解したのか、あるいはただ受け入れたのか。彼女は、それ以上何も言わなかった。
 だが、現実は変わらない。金がない。
 俺は、虚無に啖呵を切った手前、代案を探し出す責任があった。
 「……働くよ。俺が、金を稼ぐ」

 その日から、俺の彷徨が始まった。
 虚無を安宿に残し俺は一人、夜の街へと出た。身分を明かせない、追われる身の高校生。そんな人間に、まともな働き口などあるはずもなかった。
 俺は、この街の光に再び焼かれながら、その裏側にこびりついた闇を探した。電柱、公衆電話ボックス、薄汚れた雑居ビルの壁。そこに社会の表層から剥がれ落ちた者たちを誘う、禁断の扉があった。
 『高収入!即日現金!』
 『ワケあり歓迎!秘密厳守!』
 『必要なのは、あなたの“覚悟”だけ』
 そんな扇情的な文句が並んだ、怪しげなチラシ。俺はその紙切れを、奈落への片道切符のように感じながら、一枚、また一枚と剥がしていった。

 公衆電話の、冷たい受話器を握りしめる。十円玉が、吸い込まれていく。
 一つ目の電話。呂律の回らない男が出て、一方的に風俗の仕事内容を話し始めた。俺は、無言で電話を切った。
 二つ目の電話。優しい女性の声が、「あなたの夢を叶えます」と言った。うまい話には裏がある。特殊詐欺の勧誘だろう。
 三つ目、四つ目……。罵声を浴びせられ、気味悪がられ、電話を切られる。そのたびに俺の心はすり減っていき、自分がどんどん醜い存在になっていくのを感じた。

 もう、諦めようか。
 虚無の言う通り、盗んだ方がずっと簡単で、ずっと「綺麗」だったのかもしれない。
 そう思った十数回目の電話だった。
 コール音が、三回。
 「……もしもし」
 電話口から聞こえてきたのは、感情というものが一切抜け落ちた、機械のような男の声だった。
 「……あの、チラシを見て、お電話したんですけど」
 「そうか」
 男はそれだけ言った。
 「働きたいです。金が、必要なんです」
 「……身分証は」
 「ありません」
 「そうか」
 沈黙。もうだめか、と思ったその時。
 「明日、午後三時。××埠頭、第七倉庫に来い」
 男は一方的に言った。
 「仕事内容は」
 「来てから話す。荷物運びだ」
 「給料は…」
 「仕事が終われば、払う。文句があるか」
 「いえ……」
 「じゃあな」
 ガチャン、と電話は切れた。
 俺は汗ばんだ受話器を、しばらく握りしめていた。
 一筋の光。いや、それは奈落の底から差し込む、地獄の光かもしれない。
 だが俺たちにはもう、それしか選択肢はなかった。



 翌日の午後三時。
 俺は、指定された××埠頭、第七倉庫の前に立っていた。横には興味につられて、勝手についてきた虚無もいた。
 潮風が錆と油の匂いを運んでくる。周りには俺たちと同じように、どんよりとした目をし、事情を抱えていそうな男たちが十数人、壁に寄りかかるようにして立っていた。誰も口を開かない。
 やがて、倉庫の巨大なシャッターがガラガラと音を立てて開いた。中から昨日電話で話した、あの機械のような声の男が現れた。サングラスをかけ、筋肉質な体をしている。
 「全員、入れ」
 男は、短く命じた。

 倉庫の中は薄暗く、ひんやりとしていた。
 天井まで届きそうなほど、無数の木箱が積み上げられている。
 「今からこの荷物を、あそこのトラックに積み込んでもらう。一つ残らずだ。いいな」
 男が指差した先には、大型のトラックが二台、口を開けて待っていた。
 「中身には触れるな。質問もするな。ただ、運べ。作業が終われば、一人三万、現金で払う」
 三万。今の俺たちにとって、それは命を繋ぐ大金だった。
 「だが、しくじったり、余計なことを考えたりした奴はどうなるか……分かってるな?」
 男の目がサングラスの奥で、鋭く光った。暴力の匂いが、倉庫の空気を満たす。
 誰もが黙って頷いた。俺たちに、否はない。

 作業が始まった。
 木箱は見た目以上に重かった。俺は必死にそれを持ち上げ、よろよろとトラックまで運ぶ。周りの男たちも、黙々と作業をこなしている。時折、監督役の男たちの怒声が飛ぶ。
 俺はこの危険な場所に虚無を連れてきてしまったことを、後悔し始めていた。彼女の白い肌、細い腕。こんな場所には、あまりに不釣り合いだ。
 だが、俺の心配をよそに、虚無は誰よりも正確に、そして淡々と作業をこなしていた。彼女は木箱の重さを感じていないかのように、軽々と持ち上げ、寸分の狂いもなくトラックへと運んでいく。その姿は、まるで精巧に作られた、労働用のアンドロイドのようだった。その無感動な様が逆に、周りの荒くれ男たちを気味悪がらせ、誰も彼女に近づこうとはしなかった。

 作業が始まって数時間。俺の体力は、もう限界に近かった。
 汗で、手が滑る。
 その時だった。
 俺が運んでいた木箱が手元から滑り落ち、ガシャン、と大きな音を立てて、コンクリートの床に叩きつけられた。
 木箱の角が割れ、蓋が少しだけ開いてしまった。
 やばい。
 俺の全身から、血の気が引いた。
 俺は恐る恐る、その隙間から、中を覗き見た。

 そこにあったのは、緩衝材に包まれた、何かだった。
 いや、違う。
 緩衝材に、黒く、長い、何かが、絡みついていた。
 それは、人間の、髪の毛だった。
 そして、木箱の底には、赤い液体が、べっとりと染み込んでいた。

 「てめぇ!何やってんだ!」
 鬼の形相をした監督役の男が、俺に駆け寄ってきた。
 男の暴力的な気配に、虚無が俺の前に立ちはだかる。倉庫の空気が凍りついた。
 しかし、監督役の男は、虚無の異常な気迫に気圧されつつも、ここで騒ぎを大きくしたくないという判断が働いたようだ。彼は忌々しげに舌打ちをすると、俺に向かって唾を吐きかけるように言った。
 「…もういい。そいつは、そのまま放置しろ」

 その声には、何の感情もなかった。だが、その無感情さこそが、何よりも雄弁に、俺への死の宣告を告げていた。「放置しろ」。それはつまり、中身を見られてしまったお前も、この荷物も、もはや同じ「処理」対象だ、という意味に他ならない。
 「てめえもだ」
 男はそう付け加え、俺に背を向けた。まるで、俺の存在などもうこの世界にないものとして扱うかのように。
 その瞬間、俺の頭の中で警報が鳴り響いた。
 パニック。
 恐怖が、脳の芯を焼き尽くす。
 このままでは殺される。間違いなく、殺される。この仕事が終わった後、俺たちは「口封じ」のために、この倉庫のどこかで、物言わぬ荷物に変えられるのだ。

 なんとかしなければ。
 この失態を取り返さなければ。
 そうすれば、あるいは。

 いや、違う。恐怖だけじゃない。
 俺の目の前には、無造作に転がった木箱がある。その隙間からは、黒い髪の毛のようなものが覗いている。
 それを、放置しろ、だと?
 こんな、汚いコンクリートの床の上に?
 俺のせいで、俺の犯した失態のせいで、こんなことになっているのに?

 駄目だ。それだけはできない。
 それに、俺が何もしなければ、虚無が動いてしまう。彼女は俺を守るためなら、躊躇なく、ここにいる全員を殺しかねない。そうなれば、今度こそ、本当に逃げ場はなくなる。
 俺が、なんとかしなければ。
 俺が。

 恐怖と、罪悪感と、そして虚無への怯え。その三つの感情が俺の中でぐちゃぐちゃに混ざり合い、俺を最も非合理的で、最も自殺的な行動へと駆り立てた。
 監督の命令を無視する、という行動へ。

 「すみません!すぐに、すぐに直しますから!」

 俺はほとんど叫ぶようにそう言うと、男の制止も聞かずに、震える手で木箱へと駆け寄った。
 そして、床にへたり込んだまま、必死に割れた木箱の蓋を閉じようとした。中から少しはみ出ていた、髪の毛のようなものを見ないようにして、箱の中へと押し込もうとする。
 「おいてめえ、触るなと言ったのが聞こえなかったのか!」
 背後で、監督の怒声が響く。だが、もう俺の耳には届かなかった。

 しかし、焦りはさらなる、そして、決定的な失態を生んだ。
 俺の手が滑り、中途半端に持ち上げていた木箱が、バランスを崩して大きく傾いた。
 ゴトリ、と、重く、湿った音がした。
 中身が、緩衝材として詰め込まれていた古新聞やビニールシートごと、コンクリートの床に滑り落ちた。

 やめてくれ。
 見るな。
 見たくない。
 俺の祈りは、届かなかった。
 緩衝材がはだけて、その下から、生気のない、蝋のような色の、人間の顔が現れた。

 その顔を見た瞬間、俺の世界から、音が消えた。
 時間が止まった。
 それは地面に転がっていた。血の海に沈むようにして、静かに、あまりにも静かに横たわっていた。
 首から下がないという事実は、最初に目に飛び込むのではなかった。不自然な角度で傾いた顎の下、切断面が露わになっているのを見た瞬間、脳がようやく現実を理解した。まるで鉛筆を鋭く削ったかのように肉はめくれ、筋繊維が乾いた海藻のようにほつれていた。断面は赤黒く、ところどころ黄色い脂肪がのぞき、白濁した軟骨がざくざくと割れた跡を晒していた。まるで何かに噛み千切られたようだった。
 目は開いたままだった。剥き出しの眼球は充血し、硝子玉のように濁っている。見ているはずもないのに、こちらを睨みつけているように思えた。口は半開きで、舌がねじれるように飛び出している。その舌の表面には、乾きかけた唾液と血液がまだらに付着し、まるで生煮えの内臓のような異様な光沢を放っていた。

 髪は血で固まり、まるで濡れた獣の毛皮のように頭皮に貼りついていた。鼻の孔には土が詰まり、耳には血が流れ込んでいた。そのすべてが、今ここに「人間の顔」が存在しているということを拒んでいた。それはもはや顔ではなかった。誰かだった何か。生者だった残骸。

 そして、最もおぞましいのはその表情だった。

 驚愕とも苦悶ともつかぬその顔は、死の直前に何を見たのかを永遠に物語っていた。叫びたかったのか、許しを乞いたかったのか、それともただ、痛かっただけなのか。その感情の断末魔が、肉の奥から匂い立つように漂っていた。
 乱雑に切られたまばらな金色の髪。日焼けした肌には、もう血の気は通っていない。間違いない。俺の脳が、理解することを拒絶している。だが、間違えるはずがなかった。
 数日前、俺たちを助けてくれた、あの陽気な道化師。
 トラさんだった。

 「あ……あ……」
 声にならない声が、喉から漏れる。
 脳裏に、トラさんの姿が、声が、勝手に再生される。
 『心中旅行かい?それとも駆け落ちかい!ガッハッハ!』
 『嬢ちゃんも、たまには笑えよ!』
 『餞別だ!これで美味いもんでも食え!』
 『達者でな!』

 なぜ。どうして。
 まさか。
 俺たちを乗せたからか?
 あのサービスエリアで、俺たちが何かを話しているのを、誰かに見られていたのか?
 俺たちのせいで?
 俺たちの、せいなのか?

 罪悪感。
 恐怖。
 絶望。
 混乱。
 後悔。
 あらゆる負の感情が巨大な津波となって俺の精神を飲み込み、破壊していく。視界がぐにゃりと歪み、立っていることさえできなくなった。俺はその場に崩れ落ち、腰を抜かしたまま、ただ、動かなくなったかつての恩人の顔を見つめることしかできなかった。

 俺が絶望の淵で子供のように喘いでいる間も、虚無はただ、そこに立っていた。
 彼女は床に転がったトラさんの遺体を、まるで道端に落ちている石ころでも見るかのように、何の表情も変えずに、ただ見下ろしていた。
 その瞳には驚きも、悲しみも、同情も、何一つ映っていなかった。
 その、あまりの無感動な様に、俺は絶望の底から新たな感情を、すなわち、理解不能なものへの「怒り」を引きずり出された。

 俺は信じられないという思いで、虚無の顔を見上げた。
 そして、床を伝うかすれた声で、問いかけた。
 「……なんで」
 「なんで、お前は、平気なんだ」
 「悲しくないのか?トラさんだぞ!俺たちを……俺たちを、助けてくれた人なんだぞ!」

 俺の問いは、感情的で、人間的で、そして、あまりに無力だった。
 虚無はそんな俺の問いを、まるで解剖するように、冷徹な論理で、一つ一つ解体していった。
 彼女はゆっくりと俺に視線を落とした。その瞳は、なぜ俺がそんな当然のことで取り乱しているのか、不思議でたまらない、とでも言いたげだった。

 「血も繋がっていない」
 彼女は静かに、しかし、はっきりとそう言った。
 「赤の他人」
 その言葉は、鋭利なガラスの破片のように、俺の心を切り裂いた。
 「でも!助けてもらっただろ!恩があるだろ!」
 俺は、人間社会をかろうじて成り立たせる、その基本的な倫理観に必死に訴えかけた。
 だが、虚無は静かに首を横に振った。

 「助けられた?それは、あなたの解釈」
 彼女の声は、どこまでも平坦だった。
 「彼は、彼自身の気まぐれと、自己満足のために、私たちをトラックに乗せただけ。そこに、私たちのための純粋な意志はない。もしあの時、私たちの隣に別のかわいそうな家出人がいたら、彼はその人たちを乗せていた。それは、善意じゃない。ただの、偶然」

 「そんなことは…!」
 「違うの?」
 虚無は、俺の反論を遮った。
 「見ず知らずの人が作った道路を、私たちはここまで歩いてきた。見ず知らずの人が作った電気で、昨夜、私たちは宿の明かりを得た。見ず知らずの人が作ったパンを、私たちは今朝食べた。世界は、無数の人間の、無数の無意識な行動の連鎖で成り立っている。トラさんの行為も、それと何が違うの?」
 彼女は続けた。
 「彼が、パンを焼いた人や、道路を舗装した人よりも特別であるという根拠は、どこにあるの?顔を知っているから?言葉を交わしたから?それはあなたの感傷に過ぎない。本質的には何も変わらない。彼は私たちを取り巻く、無数の有象無象の、原因と結果の一つ。ただ、それだけ」

 俺は言葉を失った。
 彼女のその思考は、正しく、そして、あまりに残酷だった。
 俺がほのかに信じていた、人間的な繋がり、温かい情愛、感謝すべき恩義、そういった人間を人間たらしめているはずのものが、彼女の絶対的な論理の前では、すべて意味のない感傷として、無価値なものとして、剥ぎ取られていく。
 トラさんのあの豪快な笑い声も、優しさも、すべてはただの物理現象の一つに過ぎなかったとでも言うように。
 俺は、ついに理解した。
 俺と虚無の間にある、決して埋めることのできない、光年単位の深淵を。
 俺はまだ、人間だった。人間的な感情や、社会的な倫理観に、雁字搦めに縛られているちっぽけな人間だった。
 しかし虚無は違う。
 彼女はとっくに、その向こう側へ行ってしまっている。人間という、不完全な存在を超越した、何か別のものに。

 「おい!てめえら!何をもたもたしてやがる!さっさとそれを箱に戻せ!」
 監督役の男の怒声が、俺を現実へと引き戻した。
 俺はもう、床に転がったトラさんの顔を、まともに見ることができなかった。
 ただ、虚無が何の感情も見せずに、慣れた手つきで彼の遺体を緩衝材で手際よく包み直す。割れた木箱の中へとまるで物をしまうかのように収めていくのを、呆然と見ていることしかできなかった。

 俺はこの少女の隣にいて、本当に良かったのだろうか。
 俺が求めていたのは、本当にこれだったのだろうか。
 俺が愛したのは、この美しい少女ではなかったのか。
 この、人間の心を持たない、何か別の、恐ろしいほどに純粋な何かではなかったか。

 初めて俺の心に、虚無そのものに対するかすかな、しかし確かな「恐怖」と「疑念」が芽生えてしまった。
 俺たちの共犯関係に、見えない亀裂が入った瞬間だった。
 俺はその亀裂の冷たい感触に、ただ震えていた。