サイレンの音が遠くに聞こえる。幻聴ではない、現実の音だ。俺たちがこの世界に刻みつけた、取り返しのつかない罪の残響。その音が地を這う蛇のように、俺たちの背中を追い立てる。
 俺はただ彼女に引かれるまま足を動かした。高坂の顔が、血の匂いが脳裏に焼き付いて離れない。罪悪感と恐怖が胃の底からせり上がってくる。だがそれと同時に、俺の心にはこれまで感じたことのない種類の、暗く背徳的な高揚感が渦巻いていた。
 虚無が俺のために人を殺した。
 俺たちの間にあったどんな言葉よりも、どんな約束よりもこの「殺人」という行為が、俺たちを絶対的に結びつけた。俺は彼女の罪を背負い、彼女は俺の魂を所有する。俺たちはもはや二人で一つの、新しい生き物に変容してしまったのだ。

 どれくらいの時間、闇の中を彷徨っただろうか。
 やがて木々の隙間から差し込む光の色が星の鋭い白からインクを滲ませたような、淡い藍色へと変わっていった。夜が終わる。
 俺たちは森を抜けた。
 目の前に緩やかな丘が広がっていた。その向こう。東の空が燃えるようなオレンジ色に染まり始めている。
 夜明けだ。

 地平線から太陽がその圧倒的な存在感を現す。光の洪水が闇に覆われていた世界を一つ、また一つとその姿を暴いていく。
 それは俺が今まで見てきたどんな朝日とも違っていた。
 逃亡者として迎える、最初の朝日。
 血の儀式を終えた俺たちを祝福するかのように、世界は残酷なまでに美しかった。


 俺たちは再び歩き出した。
 森を抜け、農道を抜け、やがて国道に出た。
 アスファルトの上を巨大なトラックや、家族を乗せた乗用車が猛スピードで走り抜けていく。現実世界の音が、暴力的に俺たちの静寂を破る。
 計画では、ここからヒッチハイクをするはずだった。
 だが、いざ国道脇に立ってみると俺の足は動かなかった。親指を立てる勇気が出ない。
 人を殺した、この手で。止めることができなかった俺は人を殺したも同然だ。そんな俺が見ず知らずの他人の善意に、どうやって縋ればいいというんだ。俺に、そんな資格はない。

 俺が立ち尽くしていると、虚無が動いた。
 彼女は俺の前に立ち、国道に向かってただじっとそこに佇んだ。
 助けを求める仕草ではない。物乞いをするわけでもない。まるで、そこに立つことが当然であるかのように、あるいは自分の存在に気づけ、と世界に命じているかのように。
 その異様な存在感。黒い服を纏い、朝日を背にした彼女の姿はこの殺伐とした国道の風景の中であまりに異質で、そして美しかった。

 一台、また一台と車が通り過ぎていく。
 その時だった。けたたましい演歌と派手なエアブラシで龍の絵が描かれた巨大なデコトラが、地響きを立てて近づいてきた。そして、まるで俺たちを待ち構えていたかのように、急ブレーキで目の前に停まった。
 運転席のドアが開き、サングラスをかけた金髪頭に派手なアロハシャツを着た中年男が身を乗り出した。
 「おーい、そこの若いお二人さん!こんな朝っぱらから、心中旅行かい?それとも駆け落ちかい?どっちにしても行き先は天国か地獄か、この俺、トラさんのトラックの中かだ!ガッハッハ!」
 そのデリカシーのない、しかし不思議と悪意の感じられない大声が、辺り一面に響き渡った。

 トラさんと名乗った男は、俺と虚無を交互に見て、さらに続けた。
 「なんだい、兄ちゃん、幽霊でも見たような顔しやがって。こんないい女連れてるってのに、シャキッとしねえな!で、どこまで行くんだい?俺ぁ、とりあえず西へ西へと流れ流れる流れ者よ!」
 俺はしどろもどろに「……都会の方まで」と答えるのが精一杯だった。
 「都会ね!よしきた!俺の人生みてえに行き当たりばったりだが、ちょうどそっち方面だ!乗ってけ!金は要らねえが、面白い話の一つでも聞かせろよな!」
 トラさんはそう言って助手席のドアを内側から開けた。

 俺たちはその男の圧倒的な陽気さに押し切られるように、トラックに乗り込んだ。
 「俺はトラだ!みんなそう呼ぶ!兄ちゃんは?」
 「……悠真です」
 「悠真な!で、こっちの黙して語らぬ観音様みてえな別嬪さんは?」
 俺が虚無の方を見ると、彼女はただ窓の外を眺めている。俺が代わりに「……虚無です」と答えると、トラさんは「うろむ?変わった名前だな!だがいい!美人には謎めいた名前がよく似合う!」と一人で納得していた。

 トラックが走り出すと、トラさんのマシンガントークが始まった。
 「いやー、若いってのはいいよな!俺も昔はよぉ、悠真みてえにウジウジ悩んでる暇があったらとりあえず女のケツ追いかけ回してたもんだ!振られてよぉ、泣いてよぉ、酒飲んでよぉ、そんでまた次のケツ追いかける!人生はその繰り返しよ!」
 俺はどう反応していいか分からず、ただ曖昧に笑うしかなかった。
 「嬢ちゃん」
 トラさんは、バックミラー越しに虚無に話しかけた。
 「そんな仏頂面してっと、いい男も逃げちまうぜ。人生、笑ってなんぼだ!なんなら俺がとっておきのギャグでもかましてやろうか?パンツ食うパンダってなーんだ!…答えは、パンツだ!ガッハッハ!」
 車内に、彼の豪快な笑い声だけが響き渡る。
 俺は虚無の横顔を盗み見た。彼女の眉が、ほんのわずかにピクリと動いたのを俺は見逃さなかった。

 トラさんは俺たちの事情などお構いなしに、自分の武勇伝やトラック野郎としてのあれこれを延々と語り続けた。彼の話す世界は、汗と、人情と、下ネタと、そしてどうしようもない楽天主義で満ち溢れていた。それは俺たちが捨ててきた世界であり、俺たちが決して理解できない世界だった。この男の陽気な俗物性が、俺たちの抱える罪の重さと、研ぎ澄まされた虚無感を、皮肉なほどに際立たせていた。

 音楽が途切れ、ラジオのニュースが始まった。
 俺は、身を硬くした。
 『……では、次のニュースです。本日未明、○○町の山林で、若い女性の遺体が発見されました。女性は、町内に住む学生…』
 来た。
 『警察では、事件に巻き込まれた可能性が高いとみて、殺人事件として捜査本部を設置。現場の状況などから、犯人は……』

 トラさんがラジオをブチリと消した。
 「けっ!朝から気分悪ぃニュース聞かせやがって!」
 彼はハンドルに唾を吐きかける勢いで言った。
 「物騒な世の中になったもんだぜ!こんな可愛い盛りだろう嬢ちゃんが殺されるなんてよぉ!犯人はとんでもねえ野郎だ!俺が捕まえてケツの穴からスイカ一玉丸ごと突っ込んでやんのによぉ!ガッハッハ!」
 不謹慎極まりないジョーク。だが、その言葉が鋭い刃物となって俺の心臓に突き刺さる。
 俺は息を呑み、虚無を見た。
 彼女はニュースを聞いても、トラさんの暴言を聞いても、全く表情を変えない。
 ただ、流れる景色を見つめている。
 だが俺には分かった。
 シートの下で彼女が俺の手をさらに強く、強く握りしめたのを。

 その力は俺に言っていた。
 この陽気で無神経で生命力に溢れた道化のいる世界から、俺たち二人だけの静かで、罪深い世界へと俺を引き戻すために。
 『俺たちは、共犯者だ』
 『こいつらとは違う』
 『もう、戻れない』

 俺たちの罪は今、この瞬間、「事件」として世界に認識された。
 俺たちは、ただの家出ではない。
 殺人犯だ。


 サービスエリアに入り、トラさんが両手に缶コーヒーを抱えて戻ってきた。
 「おう、お待たせ!ブラックでよかったか?甘ったるい恋みてえなコーヒーは、俺の性に合わねえんでな!ガッハッハ!」
 彼は運転席に乗り込み、俺と虚無に熱い缶コーヒーを手渡した。
 車内が自販機の強い照明で白く照らし出された、その瞬間だった。
 トラさんの動きが、ぴたりと止まった。彼のサングラスの奥の目が、虚無の袖口に注がれているのが分かった。
 「おっと、嬢ちゃん」
 トラさんの声のトーンが、少しだけ変わった。
 「どうした、そのシミは?ケチャップでも飛ばしたか?にしては、ちいと黒っぺえじゃねえか。ガハハ!」
 彼は無理に笑い飛ばそうとしたが、その声には困惑の色が混じっていた。

 その無神経な指摘に、俺の全身の血が凍りついた。
 俺はトラさんの視線を追う。虚無の黒い服の袖口。そこには黒ずんで見える直径一センチほどの、小さな染みが確かに付着していた。
 血だ。
 高坂の、血だ。
 なぜ今まで気づかなかった。いや、気づかないふりをしていたのだ。俺の脳が、この決定的な物証を認識することを拒絶していたのだ。
 俺の心臓が、氷の爪で鷲掴みにされたように激しく痛んだ。

 「あ、ああ、それは…」
 俺は必死に頭を回転させ、しどろもどろに言い訳を口にした。
 「さっき、森で転んじまって…その時に、泥が…」
 「転んだ?」
 トラさんは、俺の顔をじろりと見た。「こんな夜中に、森で?兄ちゃん、ずいぶんアクティブな散歩だなあ」
 「いや、その、ペンキが…」
 「ペンキ?何のペンキだよ!さてはてめえら、どっかの壁に『愛羅武勇』とか落書きでもしてきたんじゃねえか!それならそれで、俺は好きだぜ、そういう心意気はよ!」
 トラさんは、俺の慌てぶりを面白がり始めたようだった。彼の目が、子供のようないたずらっぽい光を宿す。まずい。この男の、好奇心のエンジンがかかってしまった。

 「待てよ…」
 トラさんは、大げさに顎に手をやった。まるで三文芝居の探偵のように。
 「この黒っぺえシミ…深夜の森…そして、さっきラジオでやってた、あの物騒な殺人事件…」
 彼は、俺と虚無の顔を、芝居がかった仕草で交互に見比べた。
 「まさかな!ガッハッハッハ!」
 トラさんは、自分の突拍子もない連想に、腹を抱えて大笑いした。
 「いやー、俺もヤキが回ったな!こんな可愛い嬢ちゃんが人殺しなわけねえってのによ!」

 俺は、彼のその冗談に、乾いた笑いを返すことしかできなかった。心臓は破裂しそうなくらい速く脈打ち、背中には冷たい汗が流れている。
 だがこの道化師は、一度回り始めたおもちゃの汽車のようにもう止まらない。
 「よし、この名探偵トラさんが、事件の真相を解き明かしてやろう!」
 彼は、運転席でふんぞり返り、暴走推理劇の幕を開けた。
 「いいか、兄ちゃん。まず、おめえのその慌てっぷりが怪しい!明らかに何か隠してる男の顔だ!嬢ちゃんを無理やり連れ回して、何かヤベえこと企んでるんじゃねえか?」
 彼の推理はすべて的外れで、コミカルで、しかしその言葉の一つ一つが、真実を知る俺の心をじわじわと削り取っていく。
 俺は、このおしゃべりな男をどうやって黙らせればいいのか、そればかりを考えていた。

 トラさんの矛先は、やがて、沈黙を守る虚無へと向かった。
 「なあ、嬢ちゃん」
 彼は、急に真面目な声色になった。
 「正直に言ってみな。こいつに、何か無理やりやらされてんじゃねえのか?もしそうなら、心配すんな。このトラさんが、そのひょろっとした兄ちゃんをぶん殴って、おめえを助けてやっからよ!」
 トラさんは、完全に自分を正義の味方だと思い込んでいる。彼は、俺を「加害者」とし、虚無を「か弱き被害者」とする、ありふれた物語を脳内で作り上げていた。

 その瞬間だった。
 虚無の纏う空気が、完全に変わった。
 これまで俺が感じていた、彼女の底なしの虚無。それがまるでブラックホールのように、一点へと収縮していく。
 引き金はトラさんの「正義感」だった。
 彼のその言葉は、俺と虚無の、あの血で結ばれた神聖な共犯関係を、チンケな「無理やり」という言葉で汚した。俺たちの絶対的な繋がりを、この男は理解せず、否定しようとした。

 隣に座る虚無の瞳から、すっと光が消える。
 それは嫉妬の炎ではない。
 それよりももっと冷たく、もっと純粋な、聖域を冒涜されたことに対する、神の怒りのようなものだった。
 彼女の中でトラさんは、もはや人間ではなく、ただ排除すべき「異物」として認識された。

 「おい、聞いてんのか嬢ちゃん!大丈夫だ、俺が助けてやっからな!」
 トラさんが励ますように、虚無の肩にその無神経な手を置こうとした、その時。

 虚無の体が、音もなく、滑るように動いた。
 もう、俺には止められない。
 俺が「やばい」と認識するよりも速く、彼女の手は、一直線に、自分のリュックへと伸びていた。
 中にある、血の痕跡が生々しい、あのナイフを取り出すために。
 彼女は、一度人を殺めている。
 もう、そこに躊躇という名のブレーキは存在しない。
 二人目の殺人は、一度目よりも、ずっと、ずっと、簡単だ。

 彼女は、まだ「正義の味方」を気取っているトラさんの、がら空きの首筋、その太い頸動脈の位置を正確に見定めていた。
 ナイフを振り上げる。
 その殺意に満ちた動きが、スローモーションのように俺の目に映った。
 サービスエリアの照明を受けて、銀色の光が再び、そして今度はもっとおぞましい輝きを放とうとしていた。

 「やめろ!虚無!」

 俺は絶叫していた。
 彼女の細い腕をありったけの力で掴み、その動きを止める。
 トラックの狭い車内で俺の悲鳴と、虚無の冷たい殺意、そして「なんだい兄ちゃん、急に大声出しやがって」という、何も知らない道化師の間の抜けた声が、破滅的な不協和音となって、交錯した。
 物語は二度目の惨劇の、まさにその寸前で軋みを上げて停止した。


 俺の絶叫に、虚無の動きがコンマ数秒確かに止まった。振り上げられようとしていたナイフを持つ彼女の腕を、俺は掴み、押さえつける。ひやりとした肌の感触。その細い腕に、これほどの殺意を宿すことができるという事実に、俺は改めて戦慄した。
 虚無は動きを止めたまま俺の顔を見た。その瞳は、まだトラさんの首筋に向けられた殺意の残滓を宿し、冷たく燃えている。なぜ邪魔をするのか、とその瞳は雄弁に問いかけていた。

 この一触即発の事態に、全く気づいていない男が一人。
 「なんだなんだ、痴話喧喧かい?若いねえ!ガハハ!」
 トラさんは俺の悲鳴を新たなジョークだと解釈したらしい。彼は、俺たちがシートの下で繰り広げている、致死的な攻防に気づくことなく、陽気に笑いながらトラックのエンジンをかけた。
 「まあいいや、小便も済んだし、そろそろ出発すっか!」

 トラックが、再びゆっくりと動き始める。まずい。このままでは、トラさんが運転に集中した隙に、虚無が再び行動を起こすかもしれない。
 俺はトラさんに聞こえないよう、必死の形相で虚無に向かって囁いた。
 「やめろ……だめだ、虚無……」
 口パクで、懇願するように繰り返す。「だめだ」と。
 彼女の瞳は、まだ俺の意図を測りかねているようだった。俺は彼女の腕を掴む力を緩めず、もう片方の手で彼女が握りしめているナイフの柄にそっと触れた。そして、まるで壊れ物を扱うかのように一本、また一本と、彼女の指をゆっくりと解いていく。驚くほどに、彼女は抵抗しなかった。ただその瞳で、俺の行動のすべてを観察している。

 俺は彼女の手からナイフを抜き取ると、トラさんの死角になるようにして、素早く自分のバックパックの最も深い場所へと押し込んだ。これでひとまずは安心だ。いや、安心などできるはずもない。

 トラックはサービスエリアを出て、再び夜の高速道路へと合流した。
 しかし、走り出した車内の空気は、以前とは全く違うものになっていた。俺は、虚無から一瞬たりとも目が離せなかった。彼女という、美しく、そしてあまりにも危険な獣が、またいつ牙を剥くか分からない。俺は虚無とトラさんの間に、自分の体を無意識に割り込ませるように座り直し、常に彼女の気配を探っていた。
 共犯者から、監視者へ。俺の役割はこの数分間で、決定的に変わってしまったのだ。

 トラさんは相変わらず陽気に喋り続ける。しかし、彼の言葉の一つ一つが、俺にとっては虚無を刺激しかねない地雷のように聞こえる。「正義」「警察」「悪い奴は許せねえ」といった類の言葉が出るたびに、俺は心臓が縮む思いをする。
 俺は、虚無をコントロールしなければならない。
 彼女の純粋さは、彼女の世界のルールを乱すものを躊躇なく排除しようとする。そして、今の彼女にとっての世界とは俺そのものだ。彼女は、俺を守るために、俺たちの聖域を守るために、トラさんを殺そうとした。その動機は歪んでいるかもしれないが、純粋だ。だからこそ、危険なのだ。
 俺は、彼女を守らなければならない。
 この世界から。
 そしてこの世界を、彼女の純粋すぎる暴力から、守らなければならない。
 俺は虚無という名の核爆弾の、唯一の制御スイッチを握ってしまったのだと自覚した。それは誇らしくもあり、絶望的なほどの重圧でもあった。

 トラさんの熱唱が続く、その喧騒の中だった。
 虚無が俺の耳元に、その冷たい唇を寄せた。
 そして、吐息のような小さな声で、ぽつりと尋ねた。

 「なぜ、止めたの」

 その問いは、非難の色も、純粋な疑問の色も帯びていなかった。ただ、プログラムがエラーの原因を問い合わせるかのような、無機質な事実確認。
 俺は答えに窮した。「人を殺しちゃダメだから」というこの世界の常識は、彼女に通用しない。そんな言葉を口にすれば、彼女は俺に失望し、俺たちの共犯関係には修復不可能な亀裂が入るだろう。
 俺は必死に、彼女だけに通用する論理を探した。彼女の「美学」に訴えかけるための、唯一の正解を。

 「……今じゃない」
 俺は、同じように囁き返した。
 「あんな場所じゃだめだ。あんな、汚いサービスエリアの、アスファルトの上じゃ」
 俺は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて、言葉を続けた。
 「それに、トラさんは……違う。あの男は、俺たちの旅を汚すほどの価値もない。ただの道化だ。俺たちの祭りの生贄になるには、あまりにも醜すぎる」
 俺は必死だった。彼女の神聖な儀式に、ケチな役者はふさわしくないと、そう説得しようとしていた。
 「俺たちの終わりは、もっと静かじゃないと。もっと、美しくないと。そうだろ?」

 それは俺が虚無の論理を内面化し、彼女を「説得」しようとする初めての試みだった。俺が彼女の危険な獣性と共存するために、彼女の「調教師」になろうと決意した瞬間だった。

 俺の言葉を聞いた虚無は、しばらくの間何も言わなかった。ただ、その黒曜石の瞳で俺の心の奥底を見透かすように、じっと見つめていた。
 やがて彼女は、ほんのわずかにこくり、と頷いた。
 「……わかった」

 その一言に、俺は全身から力が抜けるような、深い安堵を覚えた。彼女は俺の論理を「理解」したのか、それともただ、俺の言うことだから「受け入れた」のか。それは分からない。だが、ひとまず彼女の殺意の刃は、鞘に収まったようだった。
 しかし、安堵と同時に、俺は底知れない恐怖を感じていた。
 俺の一言で、彼女は人を殺すことも、殺さないことも決める。
 俺は、彼女の神にでもなってしまったというのか?
 それとも、危険な獣の首輪を、かろうじて握っているだけの哀れな飼い主なのか。

 俺は虚無の手を、再び強く握った。
 単なる共犯者の確認ではない。
 この、美しくも危険な獣を決して手放さない、という飼い主としての誓い。あるいは、彼女という神の意志を、自分が代行する、という神官としての覚悟。その、歪でどこまでも共依存的な繋がりの、再確認だった。

 トラさんは二人の間で交わされた、この生死を賭けたやり取りに全く気づかず、気持ちよさそうに演歌のサビを熱唱し続けている。
 トラックは夜の高速道路をひた走る。
  次の街へ。
 俺はもう眠ることはできないだろう。
 この、美しき獣の隣で。
 俺たちの旅はもはや後戻りできないだけでなく、一瞬たりとも気を抜けない、細い細い綱渡りのようなものになってしまったのだ。
 俺は虚無を守り、世界から守り、そして、世界を、この愛すべき虚無から守り抜かなければならない。
 その呪いを俺は、喜んで受け入れるつもりだった。