新月まであと一日。
学校は狂騒の頂点に達していた。明日に迫った文化祭を前に、誰もが最後の仕上げに追われ、熱に浮かされたように走り回っている。
そして俺たちは除け者だった。
それは暗黙の了解などという生易しいものではなく、もっとあからさまで悪意に満ちた形をとって現れた。
「あー佐藤と空見さん!」
クラスの中心で仕切っている高坂が、俺たちを見つけて声を張り上げた。その声には隠す気もない侮蔑が滲んでいる。
「あんたたちどうせ暇でしょ?悪いけどこのダンボール全部体育館裏の倉庫まで運んでくれる?あと、ペンキの後片付けもお願いね」
それは命令だった。拒否権などない。周囲のクラスメイトたちがぎこちなく笑う。どうせ何にも参加してないんだから雑用ぐらいやれよ。そんな視線が突き刺さる。
俺は反発したかった。そのふざけた口を塞いでやりたかった。だがそれをすればどうなる。面倒なことになるだけだ。この腐った共同体の中で波風を立てればさらに厄介な仕打ちが待っている。俺は唇を噛み締め黙って頷いた。
隣で虚無は表情一つ変えなかった。まるで、自分に向けられた言葉だという認識すらないかのように、静かにそこに立っている。その無反応さが俺の苛立ちをさらに掻き立てた。
俺たちは誰もいなくなった放課後の教室で二人きりになった。
山のようになったダンボールの山。床に飛び散った色とりどりのペンキの染み。めちゃくちゃに散らかった道具類。狂宴の後の残骸。それを片付けるのが、俺たちに与えられた役割だった。
西日が教室をオレンジ色に染めている。俺たちは言葉もなく黙々と作業を始めた。ダンボールを紐で縛りペンキのついた刷毛を水で洗い流す。その単純作業の繰り返し。
だが不思議と苦痛ではなかった。
この静寂が俺にとっては救いだった。あの欺瞞に満ちた喧騒よりもずっと心地よかった。二人きりのこの空間では、俺たちは除け者ではなく、ただの世界の住人だった。
作業を始めて一時間ほど経った頃だった。
教室のドアがガラリと開き、高坂とその取り巻きの女子たちが戻ってきた。
「おーおーやってるやってる」
高坂がにやにやしながら言った。
「お似合いの二人で作業ご苦労さん。青春だねぇ」
取り巻きたちが下品な笑い声を上げる。
「ねえ、空見さんってさマジで何考えてんの?不気味だよね」
「悠真くんも物好きだよねー。こんなのと一緒にいて」
嘲笑の言葉が次々と投げつけられる。それは石つぶてのように俺たちの静寂を乱した。
俺は作業の手を止め、そいつらを睨みつけた。拳が怒りで震える。だが俺に何ができる。ここで騒ぎを起こしたところで、俺が悪者になるだけだ。この世界のルールは多数派に都合よくできている。
「文化祭終わったら二人でどこ行くの?やっぱ心中でもすんの?」
その言葉が聞こえた瞬間、俺の中の何かが切れた。
俺は立ち上がり、そいつらに掴みかかろうとした。
それにいち早く気づいた高坂は後ろへと一歩下がった。まるで、俺が起こす行動をあらかじめ知らされていたかのように。
その時だった。
虚無が俺の腕をそっと掴んだ。
彼女は俺を見ていた。やめろとでも言うように。あるいは気にするなとでも言うように。その黒曜石の瞳は凪いだ水面のように静かだった。
彼女は嘲笑を浴びせられても全く反応しなかった。まるで遠い国の言葉を聞いているかのように。あるいは風の音を聞いているかのように。その完璧な無関心が逆に連中を気味悪がらせた。
「…ちっ、やっぱ不気味。行こ行こ」
高坂たちは捨て台詞を残しバタバタと教室から出ていった。
後に残されたのは、再びの静寂と俺の荒い息遣いだけだった。
俺の中で溜まりに溜まった怒りと無力感が一気に爆発した。
「クソッ!」
俺は近くにあった机を思い切り蹴りつけた。ガシャンと大きな音がして机が倒れる。
「なんでだよ!なんで何も言わないんだ!悔しくないのか!」
俺は虚無に詰め寄っていた。彼女のその静けさが俺には理解できなかった。なぜ抵抗しない。なぜ傷つかない。
虚無は俺の激昂を目の当たりにしても、動じなかった。
彼女は倒れた机を一瞥し、それからゆっくりと俺の震える拳に自分の手を重ねた。
ひやりと冷たい。その感触が俺の怒りの炎に冷水を浴びせかけるようだった。
彼女は言った。
その声はどこまでも平坦で感情がなかった。
「もうすぐ終わる」
その一言。
その一言が俺を現実へと引き戻した。
そうだ。もうすぐ終わるんだ。
明日この文化祭とかいう馬鹿騒ぎが終わる。そしてその夜が来れば俺たちはこの町を出る。こいつらもこの教室もこの息苦しい世界もすべて過去になる。永遠に手の届かない場所へ行く。
「……ああ」
俺は頷いた。「そうだな。終わる」
俺の怒りは急速に冷めていき、代わりに冷たく澄み切った決意が心を支配していった。
俺たちは黙って作業を再開した。
倒れた机を起こし、散らかった道具を片付ける。それはまるで祭りの後片付けではなく、俺たちがこれから捨てる世界の葬送の儀式のようだった。
すべての作業を終えた頃には、窓の外は完全な闇に包まれていた。
学校にはもう誰もいない。俺たち二人だけ。
校舎を出て二人並んで歩く。
明日は文化祭当日。そしてその夜は新月、俺たちの決行の夜。
いつものバス停。俺たちは最後の夜の聖域に並んで座った。
もう話すことは何もなかった。計画も覚悟もすべては固まった。
学校での出来事が最後の躊躇いを消し去ってくれた。
俺の心にあるのは、この穢れた世界から彼女という至上の美を連れて脱出する、というただ一つの目的だけだった。
沈黙が心地よかった。
夜風が俺たちの髪を揺らす。遠くで虫の音が聞こえる。それがこの世界で聞く最後の音になるのかもしれない。
しばらくして俺は立ち上がった。
「じゃあ」俺は言った。
「また今夜」
虚無は顔を上げ俺を見つめた。そして静かに頷いた。
「うん」
それが昼の世界で交わす最後の言葉だった。
俺は彼女に背を向け自分の家へと歩き出す。一度も振り返らなかった。
振り返る必要などなかったからだ。
数時間後俺たちは再びここで会う。
そして二度と離れることはない。
決行の夜はすぐそこまで迫っていた。
世界が終わる前の静けさが俺たち二人を優しく包んでいた。
時計の針が午前二時を指していた。
秒針の刻む音だけがやけに大きく部屋に響く。俺はベッドから音もなく起き上がり息を殺して最後の準備を始めた。家の中は深い沈黙に包まれている。両親は隣の部屋で寝静まっているだろう。もう俺には関係のないことだ。俺の世界から彼らはすでに消去されている。
バックパックを背負う。ずしりと重い。これから始まる旅の重みそのものだ。
俺は音を立てないよう慎重に家を抜け出した。
外は息を呑むほどの闇だった。
いつものバス停。
闇の中に一つの影があった。
虚無はすでにそこに座っていた。彼女もまた黒を基調とした動きやすい服装に小さなリュックを背負っている。旅立つ者の覚悟を決めた姿。
俺たちは儀式のように互いの装備を確認した。俺のナイフ。彼女の睡眠薬。
「行こう」
俺は囁いた。
虚無は頷いた。
俺たちの脱獄が今始まったのだ。
森の中は完全な闇と沈黙が支配する異世界だった。
俺たちはライトを使わずただひたすらに目を凝らし、闇に溶け込もうとしながら進んだ。
五感が研ぎ澄まされていく。一歩進むごとに俗世の汚れが剥がれ落ちていく。俺たちは社会的な記号をすべて剥ぎ取られ、ただの悠真と虚無という剥き出しの魂になっていく。
どれほどの時間歩き続けたのか。
虚無が指差した森の奥深く。そこに巨大な影があった。廃墟だ。
俺たちの最初の聖域。俗世から完全に隔絶された二人だけの城。
俺たちは廃墟の中へと足を踏み入れた。世界が終わった後の新しい世界の始まりだった。
崩れた壁が俺たちを俗世から守る城壁となり、割れた窓ガラスは夜空の星を映すための歪んだ額縁となった。埃と黴とそして乾いた時間の匂い。俺はこの場所に永遠といられるとさえ思った。
俺たちは短い休息をとった。バックパックからカロリーメイトを取り出し、半分に割って虚無に渡す。彼女は無言でそれを受け取り、小さな口でまるで薬を飲むかのようにゆっくりと咀嚼した。
だがここはまだ通過点に過ぎない。俺たちの目指す場所はあの光と音の洪水、都会という名の墓標だ。
「……行こうか」
俺が言うと虚無は最後の欠片を飲み込んでから静かに頷いた。
俺たちは再びバックパックを背負い、俺たちの城となった廃墟に別れを告げた。そしてさらに深い森の闇へと再び足を踏み出したのだ。
森の小道を進み始めて、どれくらい経っただろうか。
廃墟での静寂に慣れた耳が不意に異質な音を捉えた。俺たちの足音ではない第三者の気配。小枝を踏む不規則な音。
俺は立ち止まり虚無を手で制した。息を殺し闇に目を凝らす。
「……誰かいるの?」
その声は悪夢の中から響いてくるようだった。粘りつくような甘ったるい声。
闇の中からぬるりと人影が現れた。
高坂だった。
彼女はにやにやと笑っていた。
「文化祭の打ち上げでさーちょっと飲みすぎちゃって。気分悪いから散歩してたんだよね。そしたらあんたたち見かけちゃって」
嘘だ。その目は少しも酔ってなどいない。あるのは獲物を見つけた肉食獣のような冷たい目だけだ。
いつもの高坂と比べ、その姿は大きく感じた。
最悪だ。
男の暴力的な悪意よりも、女のこうした陰湿で粘着質な悪意の方がはるかに厄介だ。
俺の隣で虚無の纏う空気が絶対零度まで下がっていくのが分かった。
「へえすごい荷物じゃん。こんな真夜中に二人でどこ行くの?」
高坂は心配するふりをしながら、その言葉に毒を滲ませる。
「家出?やばくない?先生に言わなきゃ。悠真くん真面目だと思ってたのに。がっかりだなあ」
彼女の言葉は、正論という名のナイフだ。俺たちの儀式を陳腐な「非行」というカテゴリに押し込めその価値を貶めようとしている。
「ていうかさ悠真くん」
高坂は一歩近づき、俺の顔を覗き込んだ。
「空見さんみたいなのと一緒にいて楽しいの?この子全然喋んないし、何考えてるか分かんなくて不気味じゃん」
彼女は虚無を意図的に無視し、俺だけに話しかけることで俺たちの間に楔を打ち込もうとしていた。
俺は高坂を無視し、虚無の手を引いて先へ進もうとした。
「行こう」
だが高坂は俺の行く手を阻むように立ち塞がった。そして、馴れ馴れしく俺の腕に触れてきた。
「ちょっと待ちなよ。話聞くだけじゃん。相談乗ってあげるって」
その指先から伝わる感触に、俺は全身の血が逆流するような不快感を覚えた。振り払いたい。だが振り払えない。女に対して強く出られないという長年染み付いた枷。それは優しさなどという綺麗なものではなく、ただの弱さであり臆病さだ。高坂はそれを知っていた。俺が決して女である自分に手を上げないと。だから彼女は安全な場所から、俺たちの聖域を蹂躙していく。
「やめろ」
俺は絞り出すように言った。
「俺たちに関わるな」
「やだーこわーい」
高坂はわざとらしく肩をすくめた。
「でもさ、悠真くんがそんなに言うなら警察に連絡しちゃおっかなー。未成年がこんな時間にうろついてるって。そしたらあんたたちの計画もぜーんぶおしまいだね」
彼女は勝ち誇ったように笑う。彼女の手が俺の腕を撫でる。その瞬間だった。
背後にいた虚無が動いた。
これまで彼女はただの影だった。俺と高坂のやり取りを感情なく見つめるだけの、背景の一部。
だが高坂の手が俺に触れた瞬間、彼女という名の影に確かな質量とそして恐ろしいほどの意志が宿った。
俺は見た。
虚無の瞳の奥で黒い炎が燃え上がるのを。
それは怒りではなかった。
それは嫉妬だった。
俺という彼女にとっての唯一の世界、唯一の所有物。それに汚らわしい何かが触れたことに対する絶対的な拒絶。原始的で暴力的でそしてあまりにも純粋な独占欲。
『わたしのもの』
『それに触るな』
彼女の瞳がそう叫んでいた。
それはきっと自惚れなんかではない。
高坂は俺に気を取られていた。彼女の背後に死が忍び寄っていることに、全く気づいていなかった。
虚無は滑るような音のしない動作で、背負っていたリュックに手を差し入れた。
そして何の躊躇もなく、俺たちが計画のために準備したあの小型ナイフを抜き放った。
星明かりが銀色の刃に吸い込まれ、冷たい光を放つ。
「え、なにその…」
高坂が虚無のただならぬ気配に気づき言葉を詰まらせた。
だが遅い。
虚無は高坂の背後に回り込んでいた。
そしてその細い腕がしなった。
ナイフの切っ先が高坂の背中心臓の真裏あたりに深々と突き刺さる。
そしてその刺さったナイフを高坂の顔のほうまで上げる。ザクリという鈍い音。
高坂の体が大きく跳ねた。
彼女の口から「あ」という声にならない声が漏れる。
信じられないという顔で、彼女はゆっくりと振り返った。そして自分の背中に突き刺さったナイフの柄を握る虚無の顔を見た。
「なん…で…」
それが彼女の最後の言葉だった。
虚無は突き刺したナイフを、冷徹な動きで引き抜いた。
高坂の体から、血がゆっくりとあふれ出した。死を徐々に受け入れるようにゆっくりと。彼女は何かを掴もうとするように宙に手を彷徨わせ、そして前のめりに地面へと崩れ落ちた。
ピクリとも動かない。
森の闇があっけなく一つの命を飲み込んだ。
圧倒的な沈黙。
むせ返るような鉄の匂い。俺は目の前で起きたことが、まだ現実だと受け止めきれずにいた。
虚無が人を殺した。
俺への嫉妬のために。
虚無は血に濡れたナイフを、高坂の服で念入りに拭った。その仕草はまるで食卓の汚れを拭き取る主婦のように手慣れていて、日常的ですらあった。
そして彼女は俺に向き直った。その瞳はもう嫉妬の炎には燃えていない。ただいつもの底なしの虚無が広がっているだけだ。
彼女は俺の腕にまだ残っていた高坂の感触を振り払うかのように、自分のハンカチで俺の腕を拭った。
「汚い」
ぽつりとそう呟いた。
俺は恐怖と同時に身勝手な歓喜が湧き上がるのを感じていた。
彼女は俺のために人を殺したのだ。
彼女にとって、俺はそれほどの価値がある存在だったのだ。
この殺人によって俺たちの関係はもはや誰にも引き裂くことのできない絶対的なものになった。彼女の罪は俺への歪んだ愛の究極の証明だった。
俺は震える手でスマートフォンを取り出し119番をダイヤルした。
もう声は震えなかった。
「人が…倒れています。森の中で。場所は……」
きちんと脈などをはかってから通報するべきであろうがそれはせず、自分が知る限りの情報を淡々とオペレーターに告げた。これは高坂への情けではない。これは虚無の犯した罪を俺がすべて引き受けるという決意の表明だった。俺たちは共犯者だ。
通話を終えると遠くでサイレンの音が聞こえ始めた気がした。
虚無が俺の手を引いた。
「行くよ、悠真」
彼女が初めて俺の名前を呼んだ。
その声は悪魔の誘いのようであり、同時に天使の福音のようにも聞こえた。
俺は彼女の手を強く、強く握り返した。
もう迷いはない。
ただの逃避行ではない。
彼女の罪を彼女の嫉妬を彼女のすべてを受け入れて、俺たちは二人どこまでも堕ちていく。
真の「共犯者」が誕生した瞬間。
血の祝福を受けて、俺たちの魂は今本当の意味で一つになったのだ。
森の闇がそんな俺たちを隠すようにさらに深くなっていく。
俺はもう二度と振り返らなかった。
振り返れなかった。

