その日を境に、俺と空見虚無のバス停での沈黙の意味は変わった。
以前の沈黙が、互いの傷を舐め合い、世界の理不尽さをただ共有するためのものだったとすれば、今の沈黙は共謀者のそれだった。一つの目的のために言葉を研ぎ澄まし、思考を同期させるための濃密な時間。
俺はスマートフォンの画面を彼女に見せた。地図アプリに表示された、この町から都会へと続く幾筋もの線。俺はこの地図を、来る日も来る日も眺めていた。眠れない夜、布団の中で画面の光だけを頼りに、指で何度も何度もルートをなぞる。それは祈りに似た行為だった。この線だけが、俺たちをここではないどこかへ連れて行ってくれる、唯一の蜘蛛の糸。
「……この国道を使えばヒッチハイクできるかもしれない」
俺が指でなぞった赤い線。幹線道路。多くの車が行き交う生と欲望の川。それはさながら三途の川だ。
「でも最初は歩いた方がいい。町を出るまでは、人目につかないように」
虚無は俺の指の動きを黒曜石の瞳でじっと追っていた。そして俺が示した山間の細い道の方へ、彼女自身の白い指をそっと置いた。肯定。彼女も同じことを考えていた。その指先の冷たさが画面越しに伝わってくるような錯覚。俺たちは、思考の最も深い部分で繋がっている。
彼女は学生鞄から、古びて色褪せた小さな巾着袋を取り出した。神社の御守りのような、赤い紐で口が結ばれている。彼女はその紐を解き、中身を俺の掌に載せた。数枚の一万円札と、たくさんの小銭。それは彼女がこの窮屈な世界で、来る日も来る日も息をするように貯めてきた、逃亡のための軍資金のようだった。その紙幣の皺一つ一つ、硬貨の傷の一つ一つが彼女の静かな絶望の歴史を物語っているようで、俺は胸が締め付けられた。彼女はこの日のために、ずっと準備をしていたのだ。俺と出会うずっと前からたった一人で、この脱獄計画を練っていたのかもしれない。
「……ああ。これで行けるな」
俺がそう言うと、彼女はまたこくりと頷いた。その瞳の奥に、ほんの一瞬揺らめく炎のようなものが見えた気がした。それは、俺という共犯者を得て彼女の計画が初めて現実味を帯びた瞬間の魂の点火だったのかもしれない。
計画が具体性を帯びるにつれ、俺の目に映る世界の解像度が変わっていった。
これまで憎悪の対象でしかなかったこの町の風景。通学路に咲く名も知らぬ花。古びた商店街の錆びついたシャッター。教室の窓から見えるいつも同じ角度の山の稜線。それらすべてがもうすぐ失われる「過去」なのだと思うと奇妙な愛惜の念が湧き上がってくる。
この感情はなんだ。
死を前にした生への未練か。それとも、牢獄の壁の一つ一つの染みを記憶に刻み込むような復讐心の一種なのか。分からない。ただ俺はこの風景を目に焼き付けなければならないと思った。この退屈で、醜く、そして俺たちを追い詰めた世界の姿を忘れてはならない。俺たちが何を捨てて何から逃げようとしているのか。その原点を決して。
ある日の放課後。バス停で別れる際、虚無が俺の制服の袖をそっと引いた。
そして小さな四つ折りにされたメモ用紙を、俺の手に握らせた。彼女が自分から何かを渡してきたのは初めてのことだった。
俺は彼女が見えなくなってから、ゆっくりとそれを開いた。
そこには彼女のものとは思えないほど、か細く震えるような文字でこう書かれていた。
『次の、新月の夜に』
新月。
俺は空を見上げた。今はまだ丸みを帯びた月が淡い光を放っている。スマートフォンのアプリで調べると、次の新月は九日後だった。
なぜ新月なんだろう。
光が完全に消え世界が闇に沈む夜。あらゆるものが姿をくらまし影と一体になる夜。それはこの世界から俺たちの存在を消し去り新たな旅、あるいは終わりを始めるのに、これ以上なくふさわしい舞台のように思えた。彼女は逃亡劇の幕開けを、月の満ち欠けという宇宙の摂理に委ねようとしている。そのあまりに詩的でそして根源的な感覚に、俺は震えるほどの共感を覚えた。
決行の日まであと五日と迫った日のことだった。
俺は一つの決意を胸に、虚無の家の近くまで来ていた。彼女の父親に一度だけでも会っておくべきではないか。いや違う。会うのではなく、ただ知っておきたかったのだ。彼女がどんな檻の中で生きているのかを、この目で。
彼女の家は町の中心から少し離れた、古い住宅街にあった。黒い瓦屋根のどこにでもあるような一軒家。だがその家だけが周囲から切り離されたように、どんよりとよどんだ空気を纏っていた。庭の木々は伸び放題で、生命力の向かう先を見失っている。窓には分厚いカーテンが引かれ、中の様子を窺い知ることはできない。まるで家そのものが巨大な秘密を抱え、息を潜めているかのようだった。
俺が道の向こうからその家を眺めていた、その時だった。
一台の軽トラックが乱暴に家の前に停まった。ブレーキの軋む音が、静かな住宅街に響き渡る。運転席から降りてきたのは、酒に焼けたような赤い顔をした、体格のいい中年男だった。虚無の父親だろうか。男は何かを怒鳴りながら、玄関のドアを蹴破るようにして家の中へ入っていった。その背中からどす黒い怒りのオーラが立ち上っているのが遠目にも分かった。
直後家の中からガラスが割れるような甲高い音と、男の怒声がくぐもって聞こえてきた。
「てめぇいつまでそうしてやがるんだ!」
「返事ぐらいしやがれ!この穀潰しが!」
「お前のその澄ました顔が気に入らねえんだよ!」
言葉の一つ一つが汚泥のように俺の耳に流れ込んでくる。
俺はその場に凍りついた。足が地面に根を生やしたように動かない。壁の向こうで何が行われているのか。虚無は今どうしている? あの人形のように動かない彼女が、その罵声をその暴力をどうやって受け止めているというんだ。押し殺したような息を呑む気配だけが、俺のいる場所まで届いてくるようだった。
何もできない。
助けに入ることも、警察を呼ぶことも。俺にはその権利も勇気もなかった。ただ無力な傍観者として彼女が閉じ込められた檻のその外側で震えることしか。俺の心臓が肋骨を激しく打ち付ける。この無力感こそが俺をこの世界で最も苛むものだった。
どれくらいの時間が経ったのか。その無力でどうしようもないその時間は永遠のようにも感じられた。男は再び家から出てくると忌々しげに地面に痰を吐きトラックに乗って去っていった。俺の目にはシートベルトをしていないように見えた。
その夜、バス停で会った虚無はいつもと何も変わらないように見えた。
ただ夕闇の中でも分かるほど彼女の頬に微かな青黒い痣が浮かんでいた。
俺はそれを見てしまった。見てしまった以上もう後戻りはできない。
「空見、今すぐ行こう」
俺の声は自分でも焦っているのが分かるほど、うわずっていた。ポケットの中で握りしめた彼女のメモが汗で湿る。
「新月なんて待ってられない。またあいつが来たらどうするんだ。俺の家に今からでも……」
そこまで一気にまくしたてた時、虚無が静かに俺の言葉を遮った。
彼女はただゆっくりと首を横に振った。
そのあまりに穏やかで静謐な拒絶の仕草に、俺の言葉は行き場を失う。
「……なんでだよ」
絞り出した声は情けないほどに震えていた。
「なんでだめなんだ。危ないんだぞ。分かってるのか」
虚無は俺の目を真っ直ぐに見つめ返した。いつもと同じ感情の読めない黒曜石の瞳。だがその奥で、何かが頑なに決して譲らないと主張しているのが分かった。
そして彼女の薄い唇がほとんど音にならないくらいかすかに動いた。
「……まだだめ」
その言葉が俺の頭を鈍器で殴りつけた。
混乱と苛立ちが一気にこみ上げてくる。
「意味が分からない! また殴られるかもしれないんだぞ! それでもいいって言うのか!」
俺の荒げた声が夜の静寂を切り裂く。虚無はそれでも表情一つ変えなかった。彼女はまるで嵐の中で微動だにしない一輪の花のようだった。
彼女はまたぽつりと言葉をこぼした。
「あれは……いつものことだから」
いつものこと。
その一言が持つ絶望的な重み。俺がたまたま目撃したあの地獄は、彼女にとって繰り返し再生される日常の風景に過ぎなかったのだ。俺の焦りも義憤も彼女が幾年もかけて積み上げてきた諦めと、忍耐の前ではあまりに浅はかで自己満足な感傷に過ぎなかった。俺が「救い出したい」と願う彼女は、とっくにその地獄を生き抜く術を、あるいは何も感じなくなる術を身につけてしまっていた。
俺が言葉を失っていると、虚無はさらに続けた。
その声は水底から響いてくるように静かだった。
「汚いのはいや」
汚い?
何がだ。あの男の暴力か。この町の空気か。それとも……。
俺ははっとした。彼女が言っているのは俺たちの「計画」のことだ。
俺にとってこの逃避行は、彼女を救うための緊急避難になりつつあった。泥にまみれても、傷ついてもとにかく彼女を安全な場所へ。その一心だった。
だが彼女にとっては違ったのだ。
この計画は彼女にとって、人生という不完全で醜い作品を完璧な「死」によって完成させるための、最後の芸術活動だった。それは美しくなければならなかった。静かで気高く世界の摂理と調和した一点の曇りもない儀式でなければならなかった。暴力から逃げ惑うような、みっともなく泥臭い「逃亡」では駄目なのだ。それは彼女の美学に反する「汚い」行為だった。
「……そうか」
俺は崩れ落ちそうになる膝を叱咤しなんとかその一言を口にした。
「そうだったな……。俺は分かっていなかった」
俺は彼女の共犯者なんかじゃなかった。ただ彼女の美しさに心酔し、自分の感傷を「救済」という大義名分にすり替えて自己満足に浸っていただけの間抜けな観客だ。
彼女は救われることなど、望んでいない。
彼女が望むのはただ一つ。自らが定めた方法と自らが定めた時での完璧な「終わり」だけ。
俺は彼女の意思を受け入れるしかなかった。俺にそれを拒む権利などない。俺は彼女の騎士などではなく、彼女という芸術家が選んだ、ただの助手に過ぎないのだから。
「……分かった。新月を待とう」
俺の言葉に虚無の纏う空気がほんの少しだけ和らいだように感じた。彼女は小さく頷いた。
決行の日まであと数日。
俺たちはあの夜以来、この件について何も話さなかった。家庭内で何が起きているのか、彼女の頬の痣がどうなったのか俺はもう聞かない。ただ学校が終わり、バス停で会い、日が暮れるまでまた以前のように言葉もなく座っているだけ。
嵐の前の奇妙な日常。時限爆弾の針の音だけが耳の奥で鳴り響いている。
俺は彼女の横顔を見つめる。その完璧な造形を汚されたくない。彼女の望む、完璧な終わりを俺の手で実現させてやりたい。
そのために俺はただ待つ。
すべてが闇に溶ける新月の夜を。
彼女の頬を撫でる風になりたい、と願いながら俺は、無力な俺はただひたすら、祈るようにしてその時を待ち続ける。
そんな俺たちを露知らずといった具合に、学校は祭りの熱に浮かされていた。
文化祭という、陳腐な儀式が数日後に迫り、校内は安い高揚感で満ちていた。ペンキの匂い、ベニヤ板を打ち付ける金槌の音、クラスTシャツのデザインをめぐる男女の嬌声。そのすべてが俺には耐え難い騒音だった。連中は生きている。生きていることを疑わず、生を全力で謳歌している。その無邪気な輝きが、俺の内に広がる巨大な空洞をただただ抉るだけだった。
教室の隅で俺は、死んだ魚の目でその光景を眺めていた。模擬店の準備だとかいう共同作業から巧みに逃れ、壁に背を預けただ時が過ぎるのを待つ。誰も俺に声をかけない。俺も誰にも声をかけない。それが俺のクラスでの立ち位置であり、俺自身が望んだ完璧な孤立だった。連中の笑い声が遠い。まるで厚いガラスの向こう側、繰り広げられるパントマイムのようだ。俺はここにいるのにここにいない。この教室の風景の一部でしかない俺という名の染み。
うんざりだった。
この欺瞞に満ちた生の祝祭が。
俺は乱暴に音を立て、席を立った。しかし、誰一人としてこちらに振り向きもしない。たとえこの場で叫びだしたとて、だれも気付いてくれない。俺は喧騒から逃れるように廊下へ出た。下駄箱へ向かうふりをして、そのまま逆方向へ歩き出す。一階、二階と階段を上るごとに、馬鹿騒ぎの音量は少しずつ減衰していく。三階建ての校舎の最上階。そこは音楽室や美術室といった、特別教室が並ぶだけの静かな場所だった。ほとんどの生徒は準備で下の階にいる。このフロアには俺以外誰もいないはずだった。
俺は突き当たりを目指した。
そこにはある。誰も知らない俺たちだけの場所が。
古びた鉄製の扉。ペンキは剥がれ赤錆が涙の痕のように浮かんでいる。扉には太い鎖が巻かれ巨大な南京錠がその口を固く閉ざしていた。『立入禁止』と書かれた色褪せたプレート。屋上へと続くその扉は、もう何年も開かれたことがない。忘れ去られた場所。
その扉の前に彼女はいた。
空見虚無。
まるで最初からそこにいたかのように、壁に寄りかかり静かに立っていた。彼女もまた、あの祝祭の騒音から逃れてきたのだろう。俺がここに来ることを知っていたのか、それともただ同じ種類の魂が、同じ静寂に引き寄せられただけなのか。多分後者だ。俺たちは言葉を尽くさずとも、互いの居場所を嗅ぎ分けることができる。
「よ」
俺は短く声をかけた。
彼女はゆっくりと顔を上げた。その黒曜石の瞳が俺を捉える。頷きもしない。ただ俺の存在を認識し受け入れた。それだけで十分だった。
ここはバス停よりもさらに純度が高い聖域だった。階下から微かに届く喧騒が、この場所の絶対的な静寂を逆に際立たせる。西日が廊下の窓から斜めに差し込み空気中を舞う無数の埃を黄金色の粒子に変えていた。それはまるで時間が止まった聖堂の中にいるような錯覚を俺に与えた。埃と光と沈黙、そして俺と彼女。世界はそれだけで構成されていた。
俺は彼女の隣に腰を下ろした。冷たいコンクリートの床が制服越しに体温を奪っていく。
新月まであと三日。
最後の打ち合わせをするために俺たちはここに来たのだ。
俺は鞄からくたびれたノートを取り出した。コンビニで買った安物だ。そのページに俺は走り書きで計画のすべてを記していた。
虚無が俺の手元を覗き込む。彼女の髪からシャンプーの匂いが微かに香った。それは、この非現実的な空間で唯一、生を感じさせるものだった。
ノートの最初のページには持ち物リストがあった。
『現金』『着替え三日分』『水筒』『カロリーメイト2箱』『地図』『方位磁針』『ライター』『小型ナイフ』『睡眠薬』
俺が一つ一つ指で示していく。虚無は黙ってそれを見つめていた。
彼女は不意に細く白い指を伸ばし『睡眠薬』の文字をトンと叩いた。
「これは?」と俺は聞いた。
「多めに」と彼女は囁いた。
「分かった」
俺は頷いた。
次に彼女の指は『小型ナイフ』の文字の上を滑った。その動きにはためらいがなかった。まるでそれが当然そこにあるべきものだ、とでも言うように。俺は息を呑んだ。このナイフが護身用以上の意味を持つことを、彼女も理解している。
そして彼女の指はリストの一番下、俺がさっき書き加えた『古いお守り』という文字の上で止まった。それは、俺が幼い頃母親に持たされたどうでもいいものだった。感傷的なお守り。
彼女は静かに首を横に振った。
「いらない」
その声は冷たく響いた。
「こういうのは」
俺は一瞬反論しようとしてやめた。彼女の言う通りだ。俺たちの旅に感傷は不要だ。過去との繋がりを匂わせるものはすべて、断ち切らなければならない。俺はペンを取り『古いお守り』の文字を黒く塗りつぶした。彼女の美学は徹底している。この旅は純粋でなければならない。死以外のあらゆる不純物から守られなければならない。
次に俺はスマートフォンの地図アプリを開いた。
航空写真モードで表示された俺たちの町。緑の山々に囲まれたちっぽけな模型。
「ここから出る」
俺は町を抜ける山道を指でなぞる。
「最初の夜はここで明かす」
俺が示したのは山の中腹にある廃れた神社のマークだった。鳥居だけが残る打ち捨てられた場所。夜露をしのげる小さな社があるはずだ。
虚無は地図を食い入るように見つめていた。そして俺が示した神社よりもさらに奥深く森の心臓部にある空白地帯を指した。
「こっち」
彼女は言った。
「何があるんだ」
「廃墟」
「知ってるのか」
彼女は頷いた。「昔、探検した」
その言葉に俺は少し驚いた。彼女にもそんな過去があったのか。この静謐な人形のような少女が、森の廃墟を探検する姿。想像がつかなかった。その廃墟で彼女は一人何を思っていたのだろう。
「分かった。じゃあそこを最初のキャンプ地にする」
彼女の選択は常に正しい。より静かでより孤立し、より死に近い場所。彼女こそがこの旅の羅針盤だった。
「役割分担も決めよう」
俺は言った。
「荷物は俺が持つ。ルート管理も俺がやる。ヒッチハイクの時も俺が話す」
虚無は黙って聞いている。
「お前は」
俺は言葉に詰まった。彼女の役割。それはなんだ。
「お前はただ、そこにいてくれればいい」
そう言うのが精一杯だった。
「お前がいる。それがこの旅の全部だ」
虚無は俺の目を見つめ返した。その瞳の奥で何かが揺れた。それは肯定か、あるいは憐憫か。俺には分からない。
だが、彼女はまたこくりと小さく頷いた。
俺たちの間の契約。役割分担。それは今ここで完了した。俺は実行者。彼女は指導者。俺は肉体で彼女は魂。二人で一つの不完全な人間。
階下から音楽が聞こえてきた。
文化祭で演奏するのだろう。軽音楽部のバンドが練習している音だった。
俺たちのいるこの静寂の世界とはあまりにかけ離れていた。
「うるさいな」
俺は呟いた。
虚無は何も言わなかった。ただ扉の向こうの喧騒に、耳を澄ましているようだった。その横顔は相変わらず美しく、まるでこの世のどんな音も届かない遠い場所を見つめているようだった。
俺たちはしばらく、その不協和音を黙って聞いていた。
生の音楽と死の沈黙。
その奇妙なコントラストの中で俺は考えていた。
この計画は完璧だろうか。どこかに穴はないか。本当に俺たちはこの町から抜け出せるのか。そしてその先にある約束された終わりへとたどり着けるのか。不安が黒い霧のように心を覆い始める。
その時だった。
虚無がぽつりと呟いたのは。
「都会の音は」
彼女は言った。
「どんな音」
その問いはあまりに唐突で、俺は一瞬言葉に詰まった。
彼女が都会について何かを尋ねたのは、これが初めてだった。彼女にとって都会はただの死に場所ではなかったのか。そこには未知の世界への、ほんのかすかな好奇心が残っていたのだろうか。
俺はありのままを話すことにした。
「うるさいよ」
俺は答えた。
「一日中音が鳴り止まない。車の走る音、電車の走る音、工事の音店の呼び込みの声、人々の話し声、笑い声怒鳴り声。それと、どこからともなく聞こえてくるサイレンの音。絶え間なく流れてくる流行りの音楽。全部の音が混ざり合って巨大なうねりになって、街全体を包んでる」
俺は言葉を続けた。
「それは命の音だ。たくさんの人間が生きてる証拠だ。でも同時に、たくさんの孤独がぶつかり合って軋む音でもあるんだ。誰もが誰かの隣にいるのに誰もが一人なんだ。そういう音がする」
虚無は黙って俺の話を聞いていた。
その表情から何を考えているのかは読み取れない。
俺は彼女の瞳を見ながら思った。
俺たちは死ぬために都会へ行く。
だが、その死へ向かう旅の過程で俺たちは皮肉にも初めて本当に「生きる」のかもしれない。
この息苦しい町を抜け出し、自分の足で歩き見知らぬ空の下で眠り、朝日を見て空腹を感じる。ヒッチハイクした車の運転手とどうでもいい話をする。雨に降られて二人で震える。道に迷って途方に暮れる。その一つ一つがこれまで俺たちが経験したことのない、鮮烈な生の感触を俺たちに与えるだろう。
この腐った日常の中では決して味わえなかった本物の痛みと、本物の喜びを。
死に向かう旅が、最も生の輝きを放つ時間になる。
その矛盾した真実に俺は眩暈のような感覚を覚えた。
そうか。これは俺と空見虚無の魂が最後に燃え尽きるための壮大な祭りなんだ。俺たちのための、俺たちだけの文化祭なんだ。これが青春なんだ。
そう思った瞬間階下から聞こえてくる音楽がもう気にならなくなった。
あれは連中の祭りだ。そしてこれは俺たちの祭りだ。形は違えど同じように、愚かで切実で、そして美しいのかもしれない。
俺の心にあった霧が少しだけ晴れた気がした。
不安が消えたわけじゃない。恐怖がなくなったわけでもない。
だが俺は、この旅の意味を確かに掴んだ気がした。
俺は虚無を救うわけじゃない。虚無が俺を救うわけでもない。
俺たちは二人で俺たちの終わりを創造するんだ。世界で最も静かで美しい終末を。
西日が廊下を深く染め始めていた。
俺たちの影が壁に長く伸びている。二つの影は寄り添うように一つに重なっていく。
話し合うべきことはもう何もない。
ノートもスマートフォンも鞄にしまった。
あとはただ、新月の夜を待つだけだ。
俺たちは言葉もなく錆びついた扉を並んで見つめていた。
固く閉ざされた屋上への扉。
それは、俺たちがこれから越えようとしている社会との境界線であり、生と死を隔てる結界のようにも見えた。俺たちはこの扉の向こう側へ行く。もう二度とこちら側へは戻らない。
不意に虚無が、俺の手に自分の手をそっと重ねた。
冷たい指。だがその冷たさには確かな意志が宿っていた。
これはもうただの共感じゃない。
計画の完了と旅立ちの誓いを意味する、共犯者の儀式だ。
俺は彼女の手に自分の手を強く重ね返した。

