高坂さんの涙も、遥さんの悲しみも、私にとっては必要なインクだった。物語を完成させるための最後の彩色。彼女たちのありふれた人間的な感情が私の創造した世界の非人間的な美しさを際立たせてくれる。
遥さんは哀れだった。彼女は「青春」という名の青く未熟な春を生きている。傷つき、絶望しながらもそれでも陽だまりのような温かい場所があると信じ、人と人との繋がりの中に救いがあると信じている。
そのあまりに陳腐で甘ったるい幻想。
雪がやがて溶け、泥水になることを知らない子供の戯言。
高坂さんはまだ理解者だった。彼女はこの世界が芝居でできていることを知っていたから。彼女は、自ら道化を演じることで世界の虚無性に抵抗しようとしていた。だからこそ彼女は私の共犯者たり得たのだ。そして同時に、私の友人でもあった。
私は一人、夜の都会を歩く。
人々は私を気にも留めない。私もまた、人々を気にも留めない。私たちは互いにとって意味のない風景の一部だ。それでいい。それが世界の正しい形だ。
やがて私はその場所にたどり着いた。
あの駅のホーム。
悠真の物語が終わった場所。
そして私の物語が始まろうとしている場所。
数年の歳月が流れても、ホームの風景はほとんど変わっていなかった。人々がスマホの画面を眺め、イヤホンで耳を塞ぎ、それぞれの孤独な世界に閉じこもっている。彼らは皆、青い春の熱病から覚めた後の、退屈な「人生」という名の長い長い余生を生きているのだ。
私はホームの縁に立った。
悠真を突き落とした、まさにその場所に。
足元の黄色い点字ブロック。その向こう側は奈落だ。
私は線路を見下ろした。二本の鉄のレールが闇の奥へとどこまでも続いている。それはまるで人生という名の定められた軌道のようだった。誰もがこのレールの上を走りやがてはターミナルという名の死へとたどり着く。
だがほとんどの人間は自分がどこへ向かっているのかも知らず、ただ揺られているだけだ。
悠真もそうなりかけていた。
彼は私と同じ、静かで美しい冬の世界にいたはずだった。この世界のどうしようもない空っぽさを知っていたはずだった。
だが彼は汚されてしまったのだ。
青春という名の最も甘美で最も悪質な青い春の毒に。
陽だまりのような喫茶店。
家族ごっこのような温もり。
遥という名の少女が与える、安っぽい優しさ。
彼はその偽物の光に目を眩まされ、醜く生き永らえようとしていた。
かつて彼があれほど憎んでいたはずの「普通」の幸福という名の檻の中へ、自ら帰ろうとしていた。
彼の完璧な雪景色がその生温かい陽の光で溶け始め、汚い泥水になろうとしていた。
私は彼のその裏切りが許せなかったのではない。
彼がその陳腐な物語の登場人物に成り下がってしまうことが耐えられなかったのだ。
傷ついた少年が優しい少女と出会い、人の温かさに触れ過去を乗り越え生きていく。
なんと吐き気のするような、ありふれた青い春のシナリオだろう。
私は彼をそんな醜い物語から救い出してあげなければならなかった。
彼を永遠の冬の中へと連れ戻さなければならなかった。
私は懐からあの原稿用紙の束を取り出した。
『あなたのれきし』
人の歴史とは、その終わり方によって初めて意味を持つ。
人生とは最終章が書かれるまでは、ただの無意味な出来事の羅列に過ぎない。
悠真の歴史は形のないものだった。苦悩と混乱、そして中途半端な優しさだけでできた曖昧な物語だった。
その物語は緩慢な自殺か、あるいは誰かとの陳腐な幸福という、あまりに醜い結末へと向かっていた。
だから私が彼に本当の終わりを与えた。
彼の人生に永遠の意味を与えた。
彼のちっぽけな人生の物語を「駅のホームで愛した女に突き落とされて死ぬ」という劇的で美しい悲劇へと昇華させたのだ。
彼のありふれた青い春の歴史を、完璧な私たちの「赤冬」の芸術へと変えたのだ。
一面の銀世界に広がる一点の赤。その血溜まりこそが、彼の存在した何よりの証。
彼の歴史はその死によって完成した。
彼の歴史は、彼の轢死そのものなのだ。
『貴方の轢死』
これが私の書いた物語。
そして私が悠真に捧げた最大で最高の愛の形。
愛とは共に生きることではない。
愛とは愛する者を陳腐な「生」の物語から救い出し、最も美しい「死」の物語を完成させてやることだ。
それが私の哲学であり、私にとっての青春だった。
遠くから電車の接近を告げる音が聞こえてくる。
最終章の幕開けを告げるカーテンコールだ。
私は空を見上げた。
雲の切れ間から星が一つだけ見えた。
悠真の魂だろうか。
そんな感傷的な考えが頭をよぎり、私は小さく笑みをこぼした。
彼は待っている。
物語が完成し、作者である私が迎えに来るのを。
約束だから。
私たちは二人で一つの存在なのだから。
轟音と共に二つの眩しい光が闇の奥から現れた。
通過する特急列車。この駅には停まらない。
完璧な舞台装置。
私は目を閉じた。
悠真の顔を思い浮かべる。
最後に見た彼の驚愕の表情。そしてその奥にあったかすかな安堵の色。
彼も分かっていたのだ。これが救いであることを。
醜い青い春の続きから解放される、唯一の救済であることを。
大好きだよ悠真。
今から行くよ。
あなたのいないこの陳腐な世界は、やはりひどく退屈だった。
私は一歩前に足を踏み出した。
身体が宙に浮く感覚。
風が全身を撫でる。
轟音が私を包み込む。
閃光が私のすべてを焼き尽くす。
そして、佐藤静香もまた終わった。
完璧な轢死という結末によって。
これでようやく私たちは永遠に一つになったのだから。
誰にも汚されることのない美しい悲劇の中で。
私たちの完璧な「赤冬」はここに完成した。
遥さんは哀れだった。彼女は「青春」という名の青く未熟な春を生きている。傷つき、絶望しながらもそれでも陽だまりのような温かい場所があると信じ、人と人との繋がりの中に救いがあると信じている。
そのあまりに陳腐で甘ったるい幻想。
雪がやがて溶け、泥水になることを知らない子供の戯言。
高坂さんはまだ理解者だった。彼女はこの世界が芝居でできていることを知っていたから。彼女は、自ら道化を演じることで世界の虚無性に抵抗しようとしていた。だからこそ彼女は私の共犯者たり得たのだ。そして同時に、私の友人でもあった。
私は一人、夜の都会を歩く。
人々は私を気にも留めない。私もまた、人々を気にも留めない。私たちは互いにとって意味のない風景の一部だ。それでいい。それが世界の正しい形だ。
やがて私はその場所にたどり着いた。
あの駅のホーム。
悠真の物語が終わった場所。
そして私の物語が始まろうとしている場所。
数年の歳月が流れても、ホームの風景はほとんど変わっていなかった。人々がスマホの画面を眺め、イヤホンで耳を塞ぎ、それぞれの孤独な世界に閉じこもっている。彼らは皆、青い春の熱病から覚めた後の、退屈な「人生」という名の長い長い余生を生きているのだ。
私はホームの縁に立った。
悠真を突き落とした、まさにその場所に。
足元の黄色い点字ブロック。その向こう側は奈落だ。
私は線路を見下ろした。二本の鉄のレールが闇の奥へとどこまでも続いている。それはまるで人生という名の定められた軌道のようだった。誰もがこのレールの上を走りやがてはターミナルという名の死へとたどり着く。
だがほとんどの人間は自分がどこへ向かっているのかも知らず、ただ揺られているだけだ。
悠真もそうなりかけていた。
彼は私と同じ、静かで美しい冬の世界にいたはずだった。この世界のどうしようもない空っぽさを知っていたはずだった。
だが彼は汚されてしまったのだ。
青春という名の最も甘美で最も悪質な青い春の毒に。
陽だまりのような喫茶店。
家族ごっこのような温もり。
遥という名の少女が与える、安っぽい優しさ。
彼はその偽物の光に目を眩まされ、醜く生き永らえようとしていた。
かつて彼があれほど憎んでいたはずの「普通」の幸福という名の檻の中へ、自ら帰ろうとしていた。
彼の完璧な雪景色がその生温かい陽の光で溶け始め、汚い泥水になろうとしていた。
私は彼のその裏切りが許せなかったのではない。
彼がその陳腐な物語の登場人物に成り下がってしまうことが耐えられなかったのだ。
傷ついた少年が優しい少女と出会い、人の温かさに触れ過去を乗り越え生きていく。
なんと吐き気のするような、ありふれた青い春のシナリオだろう。
私は彼をそんな醜い物語から救い出してあげなければならなかった。
彼を永遠の冬の中へと連れ戻さなければならなかった。
私は懐からあの原稿用紙の束を取り出した。
『あなたのれきし』
人の歴史とは、その終わり方によって初めて意味を持つ。
人生とは最終章が書かれるまでは、ただの無意味な出来事の羅列に過ぎない。
悠真の歴史は形のないものだった。苦悩と混乱、そして中途半端な優しさだけでできた曖昧な物語だった。
その物語は緩慢な自殺か、あるいは誰かとの陳腐な幸福という、あまりに醜い結末へと向かっていた。
だから私が彼に本当の終わりを与えた。
彼の人生に永遠の意味を与えた。
彼のちっぽけな人生の物語を「駅のホームで愛した女に突き落とされて死ぬ」という劇的で美しい悲劇へと昇華させたのだ。
彼のありふれた青い春の歴史を、完璧な私たちの「赤冬」の芸術へと変えたのだ。
一面の銀世界に広がる一点の赤。その血溜まりこそが、彼の存在した何よりの証。
彼の歴史はその死によって完成した。
彼の歴史は、彼の轢死そのものなのだ。
『貴方の轢死』
これが私の書いた物語。
そして私が悠真に捧げた最大で最高の愛の形。
愛とは共に生きることではない。
愛とは愛する者を陳腐な「生」の物語から救い出し、最も美しい「死」の物語を完成させてやることだ。
それが私の哲学であり、私にとっての青春だった。
遠くから電車の接近を告げる音が聞こえてくる。
最終章の幕開けを告げるカーテンコールだ。
私は空を見上げた。
雲の切れ間から星が一つだけ見えた。
悠真の魂だろうか。
そんな感傷的な考えが頭をよぎり、私は小さく笑みをこぼした。
彼は待っている。
物語が完成し、作者である私が迎えに来るのを。
約束だから。
私たちは二人で一つの存在なのだから。
轟音と共に二つの眩しい光が闇の奥から現れた。
通過する特急列車。この駅には停まらない。
完璧な舞台装置。
私は目を閉じた。
悠真の顔を思い浮かべる。
最後に見た彼の驚愕の表情。そしてその奥にあったかすかな安堵の色。
彼も分かっていたのだ。これが救いであることを。
醜い青い春の続きから解放される、唯一の救済であることを。
大好きだよ悠真。
今から行くよ。
あなたのいないこの陳腐な世界は、やはりひどく退屈だった。
私は一歩前に足を踏み出した。
身体が宙に浮く感覚。
風が全身を撫でる。
轟音が私を包み込む。
閃光が私のすべてを焼き尽くす。
そして、佐藤静香もまた終わった。
完璧な轢死という結末によって。
これでようやく私たちは永遠に一つになったのだから。
誰にも汚されることのない美しい悲劇の中で。
私たちの完璧な「赤冬」はここに完成した。

