喫茶エデンという名の偽りの楽園を出る。
佐藤静香が残していった、冷たい虚無の感触だけが私の魂にべったりと張り付いていた。
私は降りしきる雨の中を、あてもなく歩いた。
頭の中で冷静になろうと、必死に自分に言い聞かせていた。
大丈夫。
大丈夫だ。
もう何年も経ったじゃないか。
悠真くんのいない生活にはもう、とっくに慣れたはずじゃないか。
彼のいない朝を何度も迎え、彼のいない夜を何度も越えてきた。
そうだ。
悲しむことはない。
これから先も、ただそれが続いていくだけだ。
今までと何も変わらない。
ただそれだけのことなのだから。
理性はそう囁く。
だが私の身体は、私の魂は、それを頑なに拒絶した。
目からは涙が止まらなかった。
一度溢れ出してしまったこの熱い液体は、もう私の意志ではどうすることもできなかった。
ああそうか。
人間とはこんなにもどうしようもなく感情的な生き物だったんだ。
頭でどれだけ分かったつもりになっても。
心はそれを許してはくれない。
悠真くんが死んでしまったというたった一つの変えようのない事実が、数年の時を経て再び生々しい痛みとなって私の全身を苛んでいた。
泣いているのを誰にも見られたくなかった。
この巨大な無関心な都会の雑踏の中で、一人泣いている哀れな女だと思われたくなかった。
通行人たちの好奇の視線が、私の肌に突き刺さるような気がした。
怖い。
見られるのが怖い。
私は衝動的に持っていた傘を閉じた。
雨が直接私の顔と身体を叩きつける。
冷たい。
だがこの冷たさが今は必要だった。
この空から降ってくる無数の水の粒が、私のこの醜い涙を隠してくれるかもしれない。誤魔化してくれるかもしれない。
傘を閉じる方がよっぽど、奇異な視線を集めることなど分かっていた。
分かっていながら私はそうせずにはいられなかった。
私は保護を拒絶したのだ。
この悲しみという名の嵐から身を守るための、最後の屋根さえも自らの手で捨て去ったのだ。
雨粒が私の頬を伝う。
それは涙なのか雨なのかもう分からない。
ねえ悠真くん。
あなたもこんな風に雨に打たれたことがあったのかな。
あなたがまだ一人であの田舎町のバス停で座っていた頃。
あなたが佐藤静香という名の少女と出会い、二人で雨に濡れていたあの日。
あなたは何を思っていたの。
このどうしようもない世界を絶望していたの。
それとも、隣にいる少女との絆にほんの少しだけ救われていたの。
私の恋は陽だまりの中で始まった。
それは喫茶店のカウンター越しに交わす、他愛のない会話だった。
珈琲の淹れ方を教える時の、あなたの真剣な横顔だった。
私が作った誕生日のチョコを照れくさそうに頬張る、あなたの笑顔だった。
一日一つずつ知らない言葉を覚えるように、私はあなたという存在を少しずつ学んでいった。
私の心の中に、あなたという名前の温かい辞書が作られていく。そのページがめくられるたび、世界は少しだけ優しくなった。
なのに今、その辞書は雨に濡れ、インクは滲みすべての文字が意味をなさず、ただの黒い染みとなって広がっていく。
私はあなたに溺れている。
この街は、あなたの不在という名の、広大な海だ。
すれ違う恋人たちの楽しげな笑い声は、私たちがなれたかもしれない未来の亡霊。
夜の街に響く電車の走行音はあなたの最期を告げる弔いの鐘。
この恋は病だ。
治ることのない熱病だ。
私の身体の奥で、ずっとあなたという熱が燃え続けている。この冷たい雨でさえも、その熱を冷ますことはできない。
この恋は幻肢痛だ。
切り落とされたはずの腕がそこにあるかのように痛む。
隣にいるはずのあなたがいない。そう分かっているのに私の心はまだあなたの姿を探している。振り向けばあなたがそこに立っているような気がして。その痛みがあなたが存在した唯一の証明だから私はこの痛みさえも手放すことができない。
私はどうしようもなくあなたに溺れている。
救いようがない。
誰にも助けることはできない。
私はこの甘美で、そして絶望的な雨の中で永遠に溺れ続けていくのだ。
その時だった。
冷たい雨に打たれ続け、麻痺しかけていた私の頭の中で。
一本の糸が繋がった。
閃光が走った。
それはあまりに唐突な、しかしあまりに明晰な気づきだった。
佐藤静香の書いたあの小説。
『あなたのれきし』
あれは悠真くんの日記を元に書いた、と彼女は言った。
確かにその内容は恐ろしいほどに鮮明で、ノンフィクションと言っても過言ではないリアリティがあった。
彼の心の揺らぎ。
私の戸惑い。
喫茶店での他愛のない会話。
そのすべてがまるでそこに神の目があったかのように正確に記述されていた。
しかし。
たった一つおかしい。
どう考えてもありえない記述がある。
それは彼が死んだあの日のこと。
私が駅のホームへと向かった理由。
悠真くんが喫茶店にスマートフォンを忘れていったということ。
あの小説には確かにそう書かれていた。
だが佐藤静香はその情報を一体、どうやって知り得たのだろう?
悠真くんが彼女に伝えた?
ありえない。
彼は滅多にスマホを使わなかった。それはあの小説の彼自身の行動描写の少なさからも明らかだ。
加えて、彼はいつもスマホを宿に置いてきていた。
だからこそあの日彼は店にスマホを忘れていったのだ。
彼自身が自分がスマホを失くしたことに気づいていたとは、到底思えない。
ましてやそれを日記に書き記す時間などあるはずもなかった。
彼は店を出て、宿に帰り、そしてすぐに佐藤静香に連れ出されたのだから。
じゃあどうして。
どうして静香はその情報を知り得たのか。
あの日、あの時。
喫茶ハルキで悠真くんがスマホを忘れたという事実を知っていた人間はこの世界にたった二人しかいない。
閉店作業をしていた私と。
そして。
……おじいちゃん。
その結論にたどり着いた瞬間。
私の全身から血の気が引いた。
嘘だ。
そんなはずない。
あの優しかったおじいちゃんが?
だが、そうだとしたらすべての辻褄が合う。
おじいちゃんが彼女にその情報を渡していたとすれば。
彼女があの小説をあれほど完璧に書けたことも納得がいく。
なぜ。
なぜそんなことを。
分からない。
恐らくは佐藤静香に何か弱みを握られていたのだろうか。
店の経営のことか。
それとも亡くなったおばあちゃんの何か秘密でも。
分からない。分からない。分からない。
いや、まだだ。
まだそうと決まったわけじゃない。
もしかしたら悠真くんが本当にただ佐藤静香に言っただけなのかもしれない。
そうだ。きっとそうだ。
そうに違いない。
そうであってくれ。
その藁にもすがるような淡い、淡い希望を胸に抱き。
私は走り出していた。
雨の中を水飛沫を上げながら。
一生懸命に。
喫茶ハルキへと。
あの陽だまりのような、私の最後の聖域へと。
走る。
走る。
一生懸命に。
私の疑念が、ただの馬鹿げた妄想でありますように、と祈りながら。
商店街の角を曲がる。
見慣れた緑色の庇が見えるはずだった。
だがそこに見えたのは。
黒い煙。
そして空を焦がす赫い炎。
「……あ」
声が出なかった。
私の最後の聖域が。
陽だまりの記憶がすべて詰まったあの大切な場所が。
火に溺れていた。
私はその場に立ち尽くした。
周りから野次馬たちのざわめきや、消防車のサイレンの音が聞こえてくる。
だが私の耳には何も届かなかった。
ただ目の前で炎が木造の古い建物を崩壊させていく、その現実離れした光景を見つめていた。
私は地面に崩れていた。
おじいちゃんは。
おじいちゃんはどこに。
その時私は気づいた。
いつの間にか雨が止んでいることに。
そしてふと空を見上げる。
そこには信じられない光景が広がっていた。
街のほとんどはまだ分厚い雨雲に覆われているのに。
この燃え盛る喫茶ハルキのその真上だけ。
まるで神がそこに巨大な穴を開けたかのように。
雲がなくなり、祝福するような晴天が広がっていた。
神は私を嫌っているのだろうか。
私からすべてを奪い去ったその残酷な結末を、よく見えるようにとわざわざ空のカーテンを開けてくれたとでもいうのだろうか。
ああ、悠真くん。
私はまた一人になってしまったよ。
私たちの陽だまりはもう灰になってしまった。
あなたの言う通りだった。
この世界はやはりどうしようもなく虚しい。
そのあまりに完璧な絶望の中で私の意識は静かに遠のいていった。
佐藤静香が残していった、冷たい虚無の感触だけが私の魂にべったりと張り付いていた。
私は降りしきる雨の中を、あてもなく歩いた。
頭の中で冷静になろうと、必死に自分に言い聞かせていた。
大丈夫。
大丈夫だ。
もう何年も経ったじゃないか。
悠真くんのいない生活にはもう、とっくに慣れたはずじゃないか。
彼のいない朝を何度も迎え、彼のいない夜を何度も越えてきた。
そうだ。
悲しむことはない。
これから先も、ただそれが続いていくだけだ。
今までと何も変わらない。
ただそれだけのことなのだから。
理性はそう囁く。
だが私の身体は、私の魂は、それを頑なに拒絶した。
目からは涙が止まらなかった。
一度溢れ出してしまったこの熱い液体は、もう私の意志ではどうすることもできなかった。
ああそうか。
人間とはこんなにもどうしようもなく感情的な生き物だったんだ。
頭でどれだけ分かったつもりになっても。
心はそれを許してはくれない。
悠真くんが死んでしまったというたった一つの変えようのない事実が、数年の時を経て再び生々しい痛みとなって私の全身を苛んでいた。
泣いているのを誰にも見られたくなかった。
この巨大な無関心な都会の雑踏の中で、一人泣いている哀れな女だと思われたくなかった。
通行人たちの好奇の視線が、私の肌に突き刺さるような気がした。
怖い。
見られるのが怖い。
私は衝動的に持っていた傘を閉じた。
雨が直接私の顔と身体を叩きつける。
冷たい。
だがこの冷たさが今は必要だった。
この空から降ってくる無数の水の粒が、私のこの醜い涙を隠してくれるかもしれない。誤魔化してくれるかもしれない。
傘を閉じる方がよっぽど、奇異な視線を集めることなど分かっていた。
分かっていながら私はそうせずにはいられなかった。
私は保護を拒絶したのだ。
この悲しみという名の嵐から身を守るための、最後の屋根さえも自らの手で捨て去ったのだ。
雨粒が私の頬を伝う。
それは涙なのか雨なのかもう分からない。
ねえ悠真くん。
あなたもこんな風に雨に打たれたことがあったのかな。
あなたがまだ一人であの田舎町のバス停で座っていた頃。
あなたが佐藤静香という名の少女と出会い、二人で雨に濡れていたあの日。
あなたは何を思っていたの。
このどうしようもない世界を絶望していたの。
それとも、隣にいる少女との絆にほんの少しだけ救われていたの。
私の恋は陽だまりの中で始まった。
それは喫茶店のカウンター越しに交わす、他愛のない会話だった。
珈琲の淹れ方を教える時の、あなたの真剣な横顔だった。
私が作った誕生日のチョコを照れくさそうに頬張る、あなたの笑顔だった。
一日一つずつ知らない言葉を覚えるように、私はあなたという存在を少しずつ学んでいった。
私の心の中に、あなたという名前の温かい辞書が作られていく。そのページがめくられるたび、世界は少しだけ優しくなった。
なのに今、その辞書は雨に濡れ、インクは滲みすべての文字が意味をなさず、ただの黒い染みとなって広がっていく。
私はあなたに溺れている。
この街は、あなたの不在という名の、広大な海だ。
すれ違う恋人たちの楽しげな笑い声は、私たちがなれたかもしれない未来の亡霊。
夜の街に響く電車の走行音はあなたの最期を告げる弔いの鐘。
この恋は病だ。
治ることのない熱病だ。
私の身体の奥で、ずっとあなたという熱が燃え続けている。この冷たい雨でさえも、その熱を冷ますことはできない。
この恋は幻肢痛だ。
切り落とされたはずの腕がそこにあるかのように痛む。
隣にいるはずのあなたがいない。そう分かっているのに私の心はまだあなたの姿を探している。振り向けばあなたがそこに立っているような気がして。その痛みがあなたが存在した唯一の証明だから私はこの痛みさえも手放すことができない。
私はどうしようもなくあなたに溺れている。
救いようがない。
誰にも助けることはできない。
私はこの甘美で、そして絶望的な雨の中で永遠に溺れ続けていくのだ。
その時だった。
冷たい雨に打たれ続け、麻痺しかけていた私の頭の中で。
一本の糸が繋がった。
閃光が走った。
それはあまりに唐突な、しかしあまりに明晰な気づきだった。
佐藤静香の書いたあの小説。
『あなたのれきし』
あれは悠真くんの日記を元に書いた、と彼女は言った。
確かにその内容は恐ろしいほどに鮮明で、ノンフィクションと言っても過言ではないリアリティがあった。
彼の心の揺らぎ。
私の戸惑い。
喫茶店での他愛のない会話。
そのすべてがまるでそこに神の目があったかのように正確に記述されていた。
しかし。
たった一つおかしい。
どう考えてもありえない記述がある。
それは彼が死んだあの日のこと。
私が駅のホームへと向かった理由。
悠真くんが喫茶店にスマートフォンを忘れていったということ。
あの小説には確かにそう書かれていた。
だが佐藤静香はその情報を一体、どうやって知り得たのだろう?
悠真くんが彼女に伝えた?
ありえない。
彼は滅多にスマホを使わなかった。それはあの小説の彼自身の行動描写の少なさからも明らかだ。
加えて、彼はいつもスマホを宿に置いてきていた。
だからこそあの日彼は店にスマホを忘れていったのだ。
彼自身が自分がスマホを失くしたことに気づいていたとは、到底思えない。
ましてやそれを日記に書き記す時間などあるはずもなかった。
彼は店を出て、宿に帰り、そしてすぐに佐藤静香に連れ出されたのだから。
じゃあどうして。
どうして静香はその情報を知り得たのか。
あの日、あの時。
喫茶ハルキで悠真くんがスマホを忘れたという事実を知っていた人間はこの世界にたった二人しかいない。
閉店作業をしていた私と。
そして。
……おじいちゃん。
その結論にたどり着いた瞬間。
私の全身から血の気が引いた。
嘘だ。
そんなはずない。
あの優しかったおじいちゃんが?
だが、そうだとしたらすべての辻褄が合う。
おじいちゃんが彼女にその情報を渡していたとすれば。
彼女があの小説をあれほど完璧に書けたことも納得がいく。
なぜ。
なぜそんなことを。
分からない。
恐らくは佐藤静香に何か弱みを握られていたのだろうか。
店の経営のことか。
それとも亡くなったおばあちゃんの何か秘密でも。
分からない。分からない。分からない。
いや、まだだ。
まだそうと決まったわけじゃない。
もしかしたら悠真くんが本当にただ佐藤静香に言っただけなのかもしれない。
そうだ。きっとそうだ。
そうに違いない。
そうであってくれ。
その藁にもすがるような淡い、淡い希望を胸に抱き。
私は走り出していた。
雨の中を水飛沫を上げながら。
一生懸命に。
喫茶ハルキへと。
あの陽だまりのような、私の最後の聖域へと。
走る。
走る。
一生懸命に。
私の疑念が、ただの馬鹿げた妄想でありますように、と祈りながら。
商店街の角を曲がる。
見慣れた緑色の庇が見えるはずだった。
だがそこに見えたのは。
黒い煙。
そして空を焦がす赫い炎。
「……あ」
声が出なかった。
私の最後の聖域が。
陽だまりの記憶がすべて詰まったあの大切な場所が。
火に溺れていた。
私はその場に立ち尽くした。
周りから野次馬たちのざわめきや、消防車のサイレンの音が聞こえてくる。
だが私の耳には何も届かなかった。
ただ目の前で炎が木造の古い建物を崩壊させていく、その現実離れした光景を見つめていた。
私は地面に崩れていた。
おじいちゃんは。
おじいちゃんはどこに。
その時私は気づいた。
いつの間にか雨が止んでいることに。
そしてふと空を見上げる。
そこには信じられない光景が広がっていた。
街のほとんどはまだ分厚い雨雲に覆われているのに。
この燃え盛る喫茶ハルキのその真上だけ。
まるで神がそこに巨大な穴を開けたかのように。
雲がなくなり、祝福するような晴天が広がっていた。
神は私を嫌っているのだろうか。
私からすべてを奪い去ったその残酷な結末を、よく見えるようにとわざわざ空のカーテンを開けてくれたとでもいうのだろうか。
ああ、悠真くん。
私はまた一人になってしまったよ。
私たちの陽だまりはもう灰になってしまった。
あなたの言う通りだった。
この世界はやはりどうしようもなく虚しい。
そのあまりに完璧な絶望の中で私の意識は静かに遠のいていった。

