私の悠真くんへの気持ちを、あなたの創作で汚さないで。
泣きながらそう言い残し少女、遥さんは店を出て行った。
カラン、というベルの音がやけに大きく響き、そして店内には再び完全な静寂が戻る。
テーブルの上には、彼女が叩きつけるように置いていったアイスコーヒーの代金だろうか、数枚の湿った硬貨と、そして私が書いた物語の原稿だけが残されている。
私の白いシャツは彼女がぶっかけたアイスコーヒーで醜く汚れていた。冷たい液体が肌に張り付き、不快だった。だが、私はそれを拭おうとはしなかった。
「……お客様」
心配そうな顔をしたこの店のマスターが、布巾を持ってこちらへとやってくる。
私は彼を片手で制した。
「いえ大丈夫です」
そしてこう続けた。
「エスプレッソのお代わりをいただけますか」
マスターは戸惑ったような顔をしたが、やがて黙って頷くと、カウンターの奥へと消えていった。
私はこの汚れを甘んじて受け入れなければならない。
これは、遥さんという名の読者が私の物語に対して与えてくれた、唯一の感想であり、批評なのだ。
そして何よりこれは儀式だった。
あの人のいない世界で、これからたった一人で最後のページを綴るための。
このくらいの罰を受けなければ、満足に悠真に顔向けできない。
数分後。
再び店のドアがカランと音を立てた。
新しい客。
私は顔を上げなかった。ただ耳だけをその足音へと向ける。
その軽やかな足音はまっすぐに私のテーブルへと向かってきて、そして目の前の椅子に腰を下ろした。
ようやく私はゆっくりと顔を上げた。
そこに座っていたのは高坂さんだった。
彼女は数年前と何も変わらない快活な笑みを浮かべていた。
「やっほ静香。息災そうで何より」
彼女は私の珈琲まみれの姿を見て、くすくすと笑った。
「っていうか何それ。こてんぱんだね」
「遥さんにやられました」
「あー、あの子ね。ご愁傷様」
高坂さんは楽しそうに言うと、自分のカバンからハンカチを取り出しテーブルを拭き始めた。
私は言った。
「このくらいしてもらわないと。悠真に顔向けできないから」
その言葉に、高坂さんの動きが一瞬だけ止まった。そしてまたすぐに何事もなかったかのように手を動かし始めた。
「演技するのもさ結構大変なんだから」
彼女は不意にそう呟いた。その声はいつもの明るいトーンとは違う、少しだけ疲れたような色を帯びていた。
「……演技といえば」
高坂さんの声が次第に小さくなっていく。彼女の視線はテーブルの上の一点を彷徨っていた。
「あの時も大変だったんだからね。文化祭の準備の時」
彼女は、過去を振り返るように目を細めた。
「悠真くんはともかく虚無にあんなヒドいこと言うの、本当は、すごく嫌だった」
彼女の声はもう囁きのようだった。
「みんなの前で『暗いカップル』だとか『心中でもすんの?』だとか。ああいう言葉をあなたの前で吐かなきゃいけなかった私の気持ちわかる?あなたのあの傷ついたような顔を横目で見ながら、平然と笑ってなきゃいけなかったの。あれはあなたの書いた脚本だったけど、最高の役者だったでしょ私」
そうだ。あれはすべて演技だった。
高坂さんは私の計画のためにわざと悠真と私をクラスで孤立させ、追い詰めるための悪役を演じてくれていたのだ。
「でも」
彼女の声はさらに小さくなる。
「一番怖かったのはやっぱり森の中の夜だったな」
彼女は自分の腕をさすった。鳥肌が立っているのかもしれない。
「あの夜のこと思い出すと、今でも眠れなくなることがあるよ。暗くて、寒くて、いつ悠真くんが来るかも分からなくて。心臓の音がうるさくて、自分の耳がおかしくなりそうだった」
彼女はあの夜の恐怖をありありと思い出していた。
「あなたが合図と共に茂みから出てきた時、本当にホッとした。でも次の瞬間にはもう悠真くんが来てて。あなたの脚本通りに彼に絡んで。そしてあなたがナイフを抜いたあの瞬間」
彼女はごくりと喉を鳴らした。
「怖かった。静香がじゃないよ。悠真くんが。彼の目が。あの人が本当に信じちゃったらどうしようって。プロップナイフだってバレたらどうしようって。演技だって見抜かれたら、あなたの物語が台無しになっちゃうって。そればっかり考えてた」
「それにしてもさあ」
彼女は少しだけ苦い顔をした。
「あの血糊もうちょっと勢いよく出なかったもんかね。ナイフ抜いた直後なのにたらー、って感じでしょぼかったじゃん」
「そうでしたか」
「そうだよ。本当は死んだ直後にナイフを抜くとさ、心臓の圧力ですごい勢いで血が出るはずなのに。ゆっくり出てきたから悠真くんに疑われるかと思ったよ」
「では、もっと強く刺せばよかったですかね。そうすれば血糊の袋がもっと勢いよく破裂したかもしれない」
私は冗談めかして言った。
「いやいやいや、それはやめてよ!」
高坂さんは大げさに手を振って否定した。
「あれ以上強く刺されてたら普通に痛いから!プロップナイフでも!」
彼女は続ける。
「それに脈を確認されなくて、本当によかった」
彼女は心底安堵したように言った。
「あの時心臓バクバクだったんだから。ほんの少しでも首筋に触られようものなら一発で演技だってバレてたよ」
そう。すべては芝居だった。
高坂さんは死んでいない。
あの夜、森の中で悠真が目撃したすべては私と高坂さんが作り上げた一つの舞台だったのだ。悠真が「死」に対するハードルを下げるために。
何時間も過去の話をし、これからのことに移る。
「静香はこれからどうするの」
高坂さんは尋ねた。その声はもういつもの明るさに戻っていた。無理をしているのが分かる。
「悠真の後を追います」
私は簡潔に答えた。
「……そっか」
高坂さんはそれ以上何も言わなかった。ただ、少しだけ寂しそうな顔をした。
私は少し意外に思って言った。
「止められるかと思いました」
私はその表情を寂しい、としか感じられなかったが、もしここに悠真がいたのなら。彼は一体どんな感情を彼女の顔に形容するのだろう。
「最初はね」
高坂さんは言った。
「最初は止めようと思ってたよ。当たり前じゃん。でもさ」
彼女は少しだけ意地悪な笑みを浮かべた。
「私の親戚の命を奪った女を許すほど、私はお人好しじゃないんでね」
悠真のことだ。悠真は知らないが遠い親戚にあたるのだと彼女は言っていた。だからこそ、悠真が女子に手を出せないことを知っていた。きっと彼女のほうが悠真のことを知っている。好きな食べ物とか、好きなテレビ番組とか、好きな映画とか。私は悠真の事で知らない事の方が多いだろう。
「だから勝手にいなくなって。せいせいするよ」
それは彼女なりの愛情表現であり、そして最大の餞の言葉だった。
「……高坂さんらしいですね」
私は思わず笑みをこぼした。
しばらくの無言の時間。
エスプレッソを飲み干し、私は席を立った。
行くためだ。
高坂さんは先ほどの冷たさとは打って変わって、涙ぐんだ瞳で私を見上げていた。
その瞳には「行かないで」という言葉が浮かんでいた。
でも彼女はそれを口にはしない。
それが彼女の愛の形だからだ。
「また来世で」
私は言った。
「うん」
高坂さんは涙を堪えて笑顔で答えた。
「また来世で!」
私は彼女に背を向け、店のドアへと向かった。
ドアノブに手をかけた時だった。
「静香!」
高坂さんの声がした。
「最期の質問、いい?」
私は頷いた。
彼女は震える声で尋ねた。
彼女がずっと知りたかったであろう、ただ一つの問い。
「なんで悠真を殺す必要があったの?」
その問いに答えるため私は、一度だけ彼女の方を振り返った。
そして私のすべての行動の根源にあるたった一つの真実を告げた。
それが世間一般の愛の形から、どれほど逸脱し、どれほど歪んでいたとしても。
「大好きだからだよ」
悠真のことが大好きだった。
彼がバス停で私を見つけたあの日から。
彼は私と同じ虚無を、その瞳に宿していた。
だが彼の虚無は私のように完成されてはいなかった。
それは傷つきやすく、揺らぎやすく、そして誰かの温もりを求めていた。
だから私は彼の虚無を完成させてあげようと思った。
私と同じ絶対的な虚無の世界へ彼を導いてあげようと。
それが私の愛だった。
だが、彼は途中で変わってしまった。
陽だまりのような場所を見つけ、生きることに執着し始めた。
彼の瞳から虚無の色が消え、くだらない幸福の色が宿り始めた。
彼は汚されてしまったのだ。
この醜い世界のくだらない感傷によって。
私は彼を許せなかったのではない。
彼を汚した、この世界が許せなかったのだ。
彼というあまりに美しい存在が、この世界の醜さに染まっていくのを見ていられなかったのだ。
だから私は彼を救わなければならなかった。
彼が完全に汚され、手遅れになる前に。
彼がただの「普通」の人間になってしまう前に。
彼を永遠に美しいまま保存しなければならなかった。
あの駅のホーム。
遥さんという名の陽だまりに向かって彼が浮かべた、あの幸福そうな笑顔。
あれが最後の引き金だった。
あれ以上彼をこの世界に放置しておけば、彼は完全にそちら側の人間になってしまう。
だから私は彼の笑顔を奪った。
彼の時間を止めた。
彼を物語にした。
彼がこれ以上醜い現実に傷つけられることのないよう、私と彼だけの永遠の物語の中に閉じ込めたのだ。
彼を突き落としたあの瞬間。
私は確かに彼と一つになった。
彼の驚愕も、苦痛も、そして最後の安堵さえもすべてが私のものになった。
彼は永遠に私のものになったのだ。
もう誰にも奪われることはない。
これが私の愛。
あまりに身勝手で独善的で、そして狂っていると世界は言うだろう。
だが構わない。
私は私のやり方で悠真を愛し、そして救ったのだから。
私は店を出た。
外はもうすっかり暗くなっている。
私は空を見上げる。
星も月も見えない。ただ分厚い雲が垂れ込めているだけ。
それでいい。
私は歩き出す。
悠真が待つ場所へ。
物語の最後のページを、私の手で閉じるために。
大好きだよ悠真。
今からそっちへ行くからね。
私たちの本当の心中はこれから始まるのだ。
泣きながらそう言い残し少女、遥さんは店を出て行った。
カラン、というベルの音がやけに大きく響き、そして店内には再び完全な静寂が戻る。
テーブルの上には、彼女が叩きつけるように置いていったアイスコーヒーの代金だろうか、数枚の湿った硬貨と、そして私が書いた物語の原稿だけが残されている。
私の白いシャツは彼女がぶっかけたアイスコーヒーで醜く汚れていた。冷たい液体が肌に張り付き、不快だった。だが、私はそれを拭おうとはしなかった。
「……お客様」
心配そうな顔をしたこの店のマスターが、布巾を持ってこちらへとやってくる。
私は彼を片手で制した。
「いえ大丈夫です」
そしてこう続けた。
「エスプレッソのお代わりをいただけますか」
マスターは戸惑ったような顔をしたが、やがて黙って頷くと、カウンターの奥へと消えていった。
私はこの汚れを甘んじて受け入れなければならない。
これは、遥さんという名の読者が私の物語に対して与えてくれた、唯一の感想であり、批評なのだ。
そして何よりこれは儀式だった。
あの人のいない世界で、これからたった一人で最後のページを綴るための。
このくらいの罰を受けなければ、満足に悠真に顔向けできない。
数分後。
再び店のドアがカランと音を立てた。
新しい客。
私は顔を上げなかった。ただ耳だけをその足音へと向ける。
その軽やかな足音はまっすぐに私のテーブルへと向かってきて、そして目の前の椅子に腰を下ろした。
ようやく私はゆっくりと顔を上げた。
そこに座っていたのは高坂さんだった。
彼女は数年前と何も変わらない快活な笑みを浮かべていた。
「やっほ静香。息災そうで何より」
彼女は私の珈琲まみれの姿を見て、くすくすと笑った。
「っていうか何それ。こてんぱんだね」
「遥さんにやられました」
「あー、あの子ね。ご愁傷様」
高坂さんは楽しそうに言うと、自分のカバンからハンカチを取り出しテーブルを拭き始めた。
私は言った。
「このくらいしてもらわないと。悠真に顔向けできないから」
その言葉に、高坂さんの動きが一瞬だけ止まった。そしてまたすぐに何事もなかったかのように手を動かし始めた。
「演技するのもさ結構大変なんだから」
彼女は不意にそう呟いた。その声はいつもの明るいトーンとは違う、少しだけ疲れたような色を帯びていた。
「……演技といえば」
高坂さんの声が次第に小さくなっていく。彼女の視線はテーブルの上の一点を彷徨っていた。
「あの時も大変だったんだからね。文化祭の準備の時」
彼女は、過去を振り返るように目を細めた。
「悠真くんはともかく虚無にあんなヒドいこと言うの、本当は、すごく嫌だった」
彼女の声はもう囁きのようだった。
「みんなの前で『暗いカップル』だとか『心中でもすんの?』だとか。ああいう言葉をあなたの前で吐かなきゃいけなかった私の気持ちわかる?あなたのあの傷ついたような顔を横目で見ながら、平然と笑ってなきゃいけなかったの。あれはあなたの書いた脚本だったけど、最高の役者だったでしょ私」
そうだ。あれはすべて演技だった。
高坂さんは私の計画のためにわざと悠真と私をクラスで孤立させ、追い詰めるための悪役を演じてくれていたのだ。
「でも」
彼女の声はさらに小さくなる。
「一番怖かったのはやっぱり森の中の夜だったな」
彼女は自分の腕をさすった。鳥肌が立っているのかもしれない。
「あの夜のこと思い出すと、今でも眠れなくなることがあるよ。暗くて、寒くて、いつ悠真くんが来るかも分からなくて。心臓の音がうるさくて、自分の耳がおかしくなりそうだった」
彼女はあの夜の恐怖をありありと思い出していた。
「あなたが合図と共に茂みから出てきた時、本当にホッとした。でも次の瞬間にはもう悠真くんが来てて。あなたの脚本通りに彼に絡んで。そしてあなたがナイフを抜いたあの瞬間」
彼女はごくりと喉を鳴らした。
「怖かった。静香がじゃないよ。悠真くんが。彼の目が。あの人が本当に信じちゃったらどうしようって。プロップナイフだってバレたらどうしようって。演技だって見抜かれたら、あなたの物語が台無しになっちゃうって。そればっかり考えてた」
「それにしてもさあ」
彼女は少しだけ苦い顔をした。
「あの血糊もうちょっと勢いよく出なかったもんかね。ナイフ抜いた直後なのにたらー、って感じでしょぼかったじゃん」
「そうでしたか」
「そうだよ。本当は死んだ直後にナイフを抜くとさ、心臓の圧力ですごい勢いで血が出るはずなのに。ゆっくり出てきたから悠真くんに疑われるかと思ったよ」
「では、もっと強く刺せばよかったですかね。そうすれば血糊の袋がもっと勢いよく破裂したかもしれない」
私は冗談めかして言った。
「いやいやいや、それはやめてよ!」
高坂さんは大げさに手を振って否定した。
「あれ以上強く刺されてたら普通に痛いから!プロップナイフでも!」
彼女は続ける。
「それに脈を確認されなくて、本当によかった」
彼女は心底安堵したように言った。
「あの時心臓バクバクだったんだから。ほんの少しでも首筋に触られようものなら一発で演技だってバレてたよ」
そう。すべては芝居だった。
高坂さんは死んでいない。
あの夜、森の中で悠真が目撃したすべては私と高坂さんが作り上げた一つの舞台だったのだ。悠真が「死」に対するハードルを下げるために。
何時間も過去の話をし、これからのことに移る。
「静香はこれからどうするの」
高坂さんは尋ねた。その声はもういつもの明るさに戻っていた。無理をしているのが分かる。
「悠真の後を追います」
私は簡潔に答えた。
「……そっか」
高坂さんはそれ以上何も言わなかった。ただ、少しだけ寂しそうな顔をした。
私は少し意外に思って言った。
「止められるかと思いました」
私はその表情を寂しい、としか感じられなかったが、もしここに悠真がいたのなら。彼は一体どんな感情を彼女の顔に形容するのだろう。
「最初はね」
高坂さんは言った。
「最初は止めようと思ってたよ。当たり前じゃん。でもさ」
彼女は少しだけ意地悪な笑みを浮かべた。
「私の親戚の命を奪った女を許すほど、私はお人好しじゃないんでね」
悠真のことだ。悠真は知らないが遠い親戚にあたるのだと彼女は言っていた。だからこそ、悠真が女子に手を出せないことを知っていた。きっと彼女のほうが悠真のことを知っている。好きな食べ物とか、好きなテレビ番組とか、好きな映画とか。私は悠真の事で知らない事の方が多いだろう。
「だから勝手にいなくなって。せいせいするよ」
それは彼女なりの愛情表現であり、そして最大の餞の言葉だった。
「……高坂さんらしいですね」
私は思わず笑みをこぼした。
しばらくの無言の時間。
エスプレッソを飲み干し、私は席を立った。
行くためだ。
高坂さんは先ほどの冷たさとは打って変わって、涙ぐんだ瞳で私を見上げていた。
その瞳には「行かないで」という言葉が浮かんでいた。
でも彼女はそれを口にはしない。
それが彼女の愛の形だからだ。
「また来世で」
私は言った。
「うん」
高坂さんは涙を堪えて笑顔で答えた。
「また来世で!」
私は彼女に背を向け、店のドアへと向かった。
ドアノブに手をかけた時だった。
「静香!」
高坂さんの声がした。
「最期の質問、いい?」
私は頷いた。
彼女は震える声で尋ねた。
彼女がずっと知りたかったであろう、ただ一つの問い。
「なんで悠真を殺す必要があったの?」
その問いに答えるため私は、一度だけ彼女の方を振り返った。
そして私のすべての行動の根源にあるたった一つの真実を告げた。
それが世間一般の愛の形から、どれほど逸脱し、どれほど歪んでいたとしても。
「大好きだからだよ」
悠真のことが大好きだった。
彼がバス停で私を見つけたあの日から。
彼は私と同じ虚無を、その瞳に宿していた。
だが彼の虚無は私のように完成されてはいなかった。
それは傷つきやすく、揺らぎやすく、そして誰かの温もりを求めていた。
だから私は彼の虚無を完成させてあげようと思った。
私と同じ絶対的な虚無の世界へ彼を導いてあげようと。
それが私の愛だった。
だが、彼は途中で変わってしまった。
陽だまりのような場所を見つけ、生きることに執着し始めた。
彼の瞳から虚無の色が消え、くだらない幸福の色が宿り始めた。
彼は汚されてしまったのだ。
この醜い世界のくだらない感傷によって。
私は彼を許せなかったのではない。
彼を汚した、この世界が許せなかったのだ。
彼というあまりに美しい存在が、この世界の醜さに染まっていくのを見ていられなかったのだ。
だから私は彼を救わなければならなかった。
彼が完全に汚され、手遅れになる前に。
彼がただの「普通」の人間になってしまう前に。
彼を永遠に美しいまま保存しなければならなかった。
あの駅のホーム。
遥さんという名の陽だまりに向かって彼が浮かべた、あの幸福そうな笑顔。
あれが最後の引き金だった。
あれ以上彼をこの世界に放置しておけば、彼は完全にそちら側の人間になってしまう。
だから私は彼の笑顔を奪った。
彼の時間を止めた。
彼を物語にした。
彼がこれ以上醜い現実に傷つけられることのないよう、私と彼だけの永遠の物語の中に閉じ込めたのだ。
彼を突き落としたあの瞬間。
私は確かに彼と一つになった。
彼の驚愕も、苦痛も、そして最後の安堵さえもすべてが私のものになった。
彼は永遠に私のものになったのだ。
もう誰にも奪われることはない。
これが私の愛。
あまりに身勝手で独善的で、そして狂っていると世界は言うだろう。
だが構わない。
私は私のやり方で悠真を愛し、そして救ったのだから。
私は店を出た。
外はもうすっかり暗くなっている。
私は空を見上げる。
星も月も見えない。ただ分厚い雲が垂れ込めているだけ。
それでいい。
私は歩き出す。
悠真が待つ場所へ。
物語の最後のページを、私の手で閉じるために。
大好きだよ悠真。
今からそっちへ行くからね。
私たちの本当の心中はこれから始まるのだ。

