あの夜、俺の魂は一度、完全に死んだ。
 そして、虚無のあの恐ろしいほどに美しい笑顔によって、俺は新たな生を受けた。それは人間としての生ではなく、彼女の意志を遂行するためだけの道具としての生。俺は、その運命を恍惚と共に受け入れたはずだった。
 だが、陽だまりのような場所を知ってしまった。
 温かい珈琲の香りを、知ってしまった。
 罪を犯した俺に「生きててよかった」と、涙を流してくれる優しい人がいることを知ってしまった。
 俺の空っぽになったはずの器にはいつの間にか、またちっぽけな、しかし確かな「心」が再生されてしまっていたのだ。
 その再生してしまった心が、これから俺を、本当の地獄へと導くことになる。

 俺は何も言い返せなかった。
 部屋の空気は凍りつき、俺たちの間にあった最後の薄いガラスさえもが、粉々に砕け散った。俺はこれから、彼女によって裁かれるのだと、そう覚悟した。

 だが、彼女の次の行動は俺の予想を完全に裏切るものだった。
 数時間の、張り詰めた沈黙の後。
 彼女は、まるで何事もなかったかのように静かに立ち上がった。
 そして俺に向かって言った。

 「散歩に行こう」

 そのあまりに唐突な、そして日常的な響きを持つ誘い。
 俺は戸惑った。
 だが彼女のその黒曜石の瞳には、有無を言わさぬ力が宿っていた。俺に拒否権はなかった。
 俺はまるで、見えない糸に引かれる操り人形のように頷いた。


 
 俺たちは夜の都会を歩いた。
 もう夜も深くなり始めている。しかしこの街は眠らない。
 宿の近くの人通りの少ない静かな路地裏から、俺たちの最後の散歩は始まった。湿ったアスファルトの匂い。遠くで聞こえる救急車のサイレンの音。俺たちは言葉もなく、ただ並んで歩いた。
 やがて俺たちは、仕事を終えた人々が吐き出されてくるオフィス街のビル群へと足を踏み入れた。疲れた顔のサラリーマンたち。ハイヒールをコツコツと鳴らしながら早足で歩いていく女たち。彼らは、俺たちのことなど目にも留めず、それぞれの巣へと帰っていく。
 虚無はそんな人間たちの流れを、まるで川の流れでも眺めるかのように、無感動に見つめていた。

 様々な場所を俺たちは散策した。
 ネオンがどぎつく光る歓楽街。
 酔っ払いたちの下品な笑い声と、客引きの怒声が飛び交う場所。
 高級なブランドショップが立ち並び、ショーウィンドウの中のマネキンたちが俺たちを見下ろしている、そんな大通り。
 そのすべてが、俺にはひどくちぐはぐで、現実感のない舞台装置のように見えた。
 俺の心はここにはなかった。
 俺の心はまだ、あの喫茶店の温かい陽だまりの中に取り残されていた。

 そして最後に俺たちは、この都会の喧騒が、狂気がすべて集約されていると思える場所へとたどり着いた。
 巨大なスクランブル交差点。
 信号が青に変わるたび、何百、何千という人間たちが、あらゆる方向から押し寄せ、混ざり合い、そして散っていく。
 それはまるで、巨大な生物の内臓の中を見ているかのようだった。
 無数の人間という名の細胞が、意思もなくただぶつかり合い流されていく。
 俺はその圧倒的な光景の前に立ち尽くした。
 そして悟った。

 ここには何もない。

 こんなにも多くの人間がいるのに。
 こんなにも多くの光が溢れているのに。
 ここには何一つ、意味のあるものは存在しない。
 ただ空っぽで、巨大な虚無が渦を巻いているだけだ。
 遥さんが教えてくれた、あの温かい人と人との繋がりなど、この巨大な虚無の中では一瞬で飲み込まれ消え去ってしまう、ちっぽけな幻に過ぎない。
 俺は絶望した。
 そして、その絶望は一種の安らぎでもあった。
 そうだ。
 やはりこの世界は虚しいのだ。
 虚無の言う通りなのだ。

 俺がそう思ったその時。
 虚無が俺の手をそっと取った。
 その、冷たい感触。
 俺はもう抵抗しなかった。
 ただ彼女に手を引かれるままに、その人間たちの虚無の洪水の中へと一歩、足を踏み出した。
 俺たちは歩いた。
 誰にも見られることなく。誰とも交わることなく。ただ二人だけの世界の中で。
 俺たちは踊った。
 まるで社会という舞踏会に、招待された客に紛れ、踊る人物のように。
 まるで最初からそうであったかのように。
 俺たちの心は再び、一つになろうとしていた。



 気がつくと俺たちは駅にいた。
 宿の最寄り駅。始発駅だ。
 そしてこの駅から一駅だけ電車に乗れば、そこには喫茶ハルキのあの街がある。
 俺がぼんやりとそんなことを考えていると、虚無が駅のホームの一角を指差した。
 そこには小さな、立ち食いの蕎麦屋があった。
 「贅沢をしましょう」
 虚無は珍しくそう言った。

 湯気の立ち上る、狭い店の中。
 俺たちは券売機で食券を買った。
 虚無は海老天、かき揚げ、ちくわ天、生卵と、乗せられるすべてのトッピングのボタンを押していた。
 その子供のように無邪気な、しかしどこか破滅的な贅沢さに、俺もつられるように、かき揚げの天ぷらを追加した。
 立ち食いのカウンター。横並びだったため互いの顔は見えなかった。
 目の前に温かい蕎麦が置かれる。
 立ち上る出汁の優しい香り。

 俺は箸を取った。
 そして、思った。
 頂く命。
 この一杯の蕎麦の中に、どれほどの命があるのだろう。
 蕎麦の実。それはかつて、畑で太陽の光を浴び、雨水を吸い、生きていた命。
 出汁の鰹節。それは大海原を力強く泳いでいた魚の命。
 トッピングの海老。野菜。それらもすべて、かつては生きていた命。
 俺は今から、これらの無数の命を自分の腹の中に収めるのだ。
 俺が「生きる」ために。

 俺はこれまで、命を奪ってきた。
 高坂という少女の命を。
 倉庫のあの男の命を。
 トラさんの命も、間接的に奪ったのかもしれない。
 その時の俺は、命をまるで物のように扱った。壊しても構わない、無価値ながらくたのように。
 だが、今目の前にあるこの温かい蕎麦は、俺に教えてくれていた。
 命とはこんなにも温かく、こんなにも美味しく、そしてこんなにも尊いものなのだと。
 生きる、ということは他の命を頂くということ。
 その罪深く、しかしどうしようもなく美しい連鎖。
 俺はこの数週間の陽だまりのような日々の中で、その当たり前の事実をようやく、学び始めていたのだ。

 俺は蕎麦を啜った。
 美味しい。
 心の底からそう思った。
 隣で虚無も、静かに蕎麦を啜っている。
 その肩が、ほんの少しだけ楽しそうに揺れているように見えた。
 俺たちはきっと二人とも今、とても満ちた顔で、とても素敵な笑顔でこの最後の晩餐を食べていたのだろう。



 蕎麦を食べ終え店を出ると、ちょうどホームに電車が滑り込んできたところだった。
 『発車します』
 無機質なアナウンス。
 俺たちは吸い込まれるように、その閉まりかけたドアの隙間から車内へと滑り込んだ。
 ぎりぎりに入り込んだ俺たちは、互いの顔を見て少しだけ微笑んだ。
 電車は静かに走り出す。
 数分間の短い旅。
 電車内で会話はなかった。
 ただ窓の外を流れていく、都会の夜景を眺めていた。
 そして電車は隣の駅に着いた。
 喫茶ハルキのある駅だ。

 俺がぼんやりとしていると、虚無に袖を強く引っ張られた。
 彼女に促されるままに、俺は電車を下車した。
 ホームから出ようと、階段へと向かう。
 だが虚無は、その場で立ち止まったままだった。
 「……どうした?」
 俺が尋ねると、彼女は何も答えず、ただ、今来た方向の電光掲示板を指差した。
 『普通 ○○行き』
 同じ方向の電車が、またすぐに来るらしい。
 彼女はここで再び、電車を待つつもりなのだ。
 なぜ?
 俺がそう思うのと、ほぼ同時に。
 俺たちがいたホームの、反対側のホームに電車が滑り込んできた。
 俺たちが乗ってきたのと、ちょうど反対方向の始発駅へと向かう電車。
 その電車のドアが開き、そして閉まる。

 電車が走り去っていく。
 そして、その動く車体の向こう側に隠されていた風景が現れた。
 そこに立っていたのは。
 遥さんだった。
 彼女は少し心配そうな顔で、ホームの時刻表を見上げていた。

 虚無はそんな俺の視線の変化を、不思議そうに見つめていた。
 だが、彼女の視線が俺の視線の先にある遥さんの姿を捉えた瞬間。
 彼女の顔に浮かんだかすかな疑問符がゆっくりと、そして確実な納得の色へと変わっていった。
 『ああ、そうか。これか』と。
 彼女のすべてを理解した、その冷たい瞳がそう語っていた。

 俺の目が覚め、ただ衝動のままに動いていた。 
 「遥さん!」
 俺は大きな声で、彼女の名前を呼んだ。
 遥さんは俺の声に驚いたように顔を上げ、そして俺の姿を見つけると、その大きな瞳をさらに大きく見開いた。そして次の瞬間、花が咲くようにぱあっと明るい笑顔になった。

 「悠真くん!」

 ちょうどその時だった。
 俺たちのホームに、もうすぐ電車が到着することを告げる、無機質なアナウンスが、鳴り響いた。
 遥さんが何かを言おうと口を開く。
 俺も彼女の、その笑顔に応えようと大きく手を振ろうとした。
 この数週間で、俺がようやく手に入れた、陽だまりのような幸福。
 その象徴である彼女の笑顔に。

 「虚無...? 」
 その瞬間だった。
 俺の視界が、ぐにゃり、と歪んだ。
 虚無が俺の顔を、その両手で強く掴んでいた。
 そして、有無を言わさず、俺の唇に彼女の冷たい唇を押し付けてきた。
 キス。
 それは、あまりに唐突で、あまりに暴力的だった。
 それは、愛情の表現などでは断じてない。
 それは、略奪だった。

 俺の顔に浮かんでいたはずの笑顔が、急速にその温度と、色を失っていくのが自分でも分かった。
 喜びも、温もりも、希望も。すべてが彼女のその氷のような唇に吸い取られていく。
 まるで、遊びに夢中になっていた子供が突然、その大事なおもちゃを取り上げられたかのように。
 あるいは、陽だまりの中で飼い主に撫でられていたペットが突然、突き放され不貞腐れてしまったかのように。
 俺の顔は真顔に戻っていく。
 いや、それは真顔ではない。
 すべての光を吸い尽くされた、虚無の顔だ。
 笑顔をキスで奪った虚無の姿はまるで、生き血を啜る吸血鬼のようだった。

 俺は、隣のホームを横目で見た。
 遥さんが唖然とした表情でこちらを見つめていた。
 その瞳が驚愕から悲しみへ、そして次の瞬間、絶対的な恐怖の色に染まるのを、俺は見た。
 彼女は、俺の背後、電車が来る方向を一瞬見て、そして叫んだ。

 「戻って!」

 その絶叫が俺の耳に届くのと、
 え?と、俺が思うのと、
 俺の足元の感覚が、ふっと消え失せたのは、
 すべて同時だった。

 目の前には虚無がいる。
 だが、その美しい顔がどんどん遠ざかっていく。
 俺の身体は宙に浮いていた。
 ああ、そうか。
 俺は彼女に、ホームから突き落とされたのだ。

 すべてが、スローモーションに見えた。
 迫り来る電車の巨大な鉄の塊と、二つの眩しいヘッドライト。
 轟音。
 そして逆さに見える、反対側のホームで崩れ落ちるように泣き叫ぶ、遥さんの姿。
 俺の脳裏に、様々な記憶が駆け巡った。
 スイカのボール。
 九十八点の絶望。
 血塗れの倉庫。
 陽だまりの珈琲。
 そして、最後に残ったのは二人の少女の顔だった。
 俺を殺した少女と。
 俺を生かそうとしてくれた少女。

 どちらが正しかったのだろう。
 もう分からない。
 だが、不思議と恐怖はなかった。
 ただ、これでようやくすべてが終わるのだという、静かな安堵だけがあった。

 ありがとう。
 遥さん。春樹さん。トラさん。お姉さん。
 俺に生きる温かさを教えてくれて。

 仲良くね。
 虚無。遥さん。
 どうか君たちだけでも。

 俺は心の中で、そう呟いた。
 そして俺のちっぽけな歴史は、
 轟音と閃光の中に飲み込まれ、
 完全に、終わった。