遥さんの温かい涙は、俺の凍てついていた罪悪感をほんの少しだけ溶かしてくれた。だが、その告白の応酬は俺たちの魂の最後の防御壁さえも取り払ってしまった。俺たちはあまりにも無防備になりすぎていた。
俺のすべての言葉を涙と共に受け止めてくれた遥さんはやがて、ゆっくりと俺の肩からその手を離した。そして、まるで壊れ物を扱うかのように俺の腕を取り、ベッドへと促した。
「……少し、休んだ方がいいよ」
その声はまだ涙で濡れていた。
「心も、身体も、疲れすぎてる」
俺はもう抵抗する気力もなかった。彼女の言う通りだった。俺の精神は告白という名の自傷行為によって完全に消耗しきっていた。
俺は言われるがままに彼女のベッドに横たわった。
綺麗なシーツからは太陽と、そして彼女自身の優しい匂いがした。
遥さんは部屋の隅の椅子に静かに腰を下ろした。
ただそこにいてくれる。
その事実だけが俺にとって何よりも慰めだった。
俺の意識はまるで深い、穏やかな湖の底へと沈んでいくように、途切れていった。
俺は眠りに落ちた。
血も、罪も、絶望も届かない。ただひたすらに静かで温かい眠りの中へ。
次に俺が目を覚ました時。
部屋は燃えるようなオレンジ色の光に満たされていた。
夕焼け。
窓の外で太陽が、その一日の最後の生命を燃やし尽くそうとしていた。
俺はどれくらいの時間眠っていたのだろうか。
身体が嘘のように軽かった。
あの突然俺の身体から自由を奪った石のような重さは完全に消え失せていた。深い夢も見ない眠りが、俺の心と身体の両方を癒してくれたらしかった。
俺はゆっくりと身体を起こした。
部屋には俺一人だった。遥さんの姿は見えない。
ベッドの脇には俺の汚れた上着が綺麗に畳まれ、置かれていた。そしてその上には一枚のメモ。
『おはよう、かな。気分はどう?下でおじいちゃんと待ってるから、目が覚めたら降りてきてね』
その丸みを帯びた優しい文字に、俺の胸の奥が温かくなった。
俺は着替え、階下の店へと降りていった。
カラン、とベルが鳴る。
店の中は閉店準備が始まっていた。客の姿はもうない。
カウンターの中で春樹さんが、サイフォンを丁寧に磨いていた。
そして遥さんが俺に気づき「あ、起きたんだ。よかった」とはにかむように微笑んだ。
そのあまりに日常的で、あまりに平和な光景に俺は、一瞬忘れていた。
自分が何者であるのかを。
自分がどこから来て、どこへ帰らなければならないのかを。
「体調はもう大丈夫かね?」
春樹さんが俺の顔を覗き込んで尋ねた。
「はい。おかげさまで。本当にすみませんでした」
俺は深々と頭を下げた。
「いいんだ、いいんだ。若いんだから無理は禁物だよ」
春樹さんはそう言って穏やかに笑った。
俺は壁の時計に目をやった。
針はもうすぐ七時を指そうとしている。
帰らなければ。
あの冷たい影の部屋へ。
俺のもう一人の共犯者が待つ場所へ。
「……そろそろ宿に戻ります」
俺がそう切り出すと、遥さんの顔がさっと曇った。
「……もうちょっといたら、いいのに」
彼女は小さな声でそう呟いた。
その言葉は甘い毒のように、俺の心を蝕んだ。
ここにいたい。
この陽だまりのような温かい場所で、ずっとこの優しい人たちと生きていたい。
その抗いがたい誘惑に、俺の決意が揺らぎかけたその時。
「……天気予報がな、今夜から崩れるらしい」
春樹さんが店の外の燃えるような夕焼け空を見上げながら言った。
「雨がひどくなる前に帰りなさい。待っているだろう」
春樹さんのその言葉は、ただの天気の話ではなかった。彼はすべてを知っているわけではない。だが、俺がこの陽だまりの世界の住人ではないことを、その深い優しい瞳で見抜いているのだ。そして、俺が自分の嵐の中へと帰らなければならないことを理解してくれている。
彼は俺に、帰るための口実を与えてくれたのだ。
俺は二人に、何度も、何度も頭を下げた。
「ありがとうございました」
その言葉しか見つからなかった。
「また明日、来ます」
そう言うと、遥さんは寂しそうに、しかし確かに微笑んで頷いてくれた。
喫茶ハルキを出て宿へと向かう。自転車のペダルは重かった。
物理的な重さではない。
俺の心が鉛のように重かったのだ。
光の世界から、影の世界へ。
温もりから、冷気へ。
生から、死へ。
俺は今、その境界線を自分の意志で越えようとしている。
俺は再び二つに引き裂かなければならない。陽だまりの中でかろうじて一つになりかけたこの心を、もう一度冷たい影の世界の俺へと明け渡さなければならない。
宿の古びたドアの前にたどり着く。
俺はしばらくそのドアを開けることができなかった。
このドアを開ければ、俺の束の間の夢は終わる。
俺は再び、殺人者の共犯者に戻るのだ。
意を決して、ドアノブに手をかける。
部屋の入り口。
そこに虚無が立っていた。
部屋の最も暗い隅の椅子に彫像のように座り、俺が帰ってきても気配一つ動かさない彼女が。
今日はまるで、俺の帰りを待ち構えていたかのように玄関の前に仁王立ちになっていた。
その黒いシルエットは、部屋の薄暗い光を背に浴びて、まるで地獄の門番のように見えた。
俺はそのあまりに異様な光景に一瞬、息を呑んだ。
「……ただいま」
俺はかろうじてそう言った。
虚無は答えなかった。
ただその黒曜石の瞳で、俺の頭のてっぺんから足の爪先までを、まるで検品でもするかのようにじろりと舐めるように見た。
そして彼女は静かに口を開いた。
その声は、いつもよりもさらに低く、冷たく感じられた。
それは問いかけの形をしていたが、その実、有無を言わさぬ断罪の響きを持っていた。
「あなたの時計は、壊れている」
彼女は言った。
「この部屋の時間は止まっているのに。あなたの時間だけが勝手に進んでいる。そして、遅れて帰ってくる。あなたはどこへ行っていたの。この檻の外のどこで、無駄な時間を過ごしていたの」
「……仕事だ」
俺は短く答えた。
「仕事?」
虚無はその言葉を、まるで初めて聞く異国の言葉のように繰り返した。
「ああ、あの醜い労働のこと。あなたはまた、自分の身体をすり減らしてきたのね。なのに」
彼女は一歩、俺に近づいた。
そして、俺の匂いを嗅ぐように、ふん、と鼻を鳴らした。
「あなたは、汚れていない」
「……え」
「あなたは光に汚されている。あなたの肌から砂糖と、珈琲と、そしてあの、うんざりするような陽だまりの匂いがする。私たちが共に分かち合ったはずの、美しい虚無の空間を。あなたはどこでそんなくだらない、きらきらとした埃を纏ってきたの」
彼女の言葉は詩的で、そして恐ろしいほど正確に、俺の罪を暴いていた。
俺は何も言い返せなかった。
「そして」
彼女は続けた。
「いつ、決行するの」
「……」
「物語の最終ページは、もうずっと前からそこに開かれている。インクは乾ききって、ひび割れている。ペンを握るべき作者は、ただそこに佇んでいるだけ。教えて。あなたはこの、完璧な結末の前に一体、どんな退屈で、陳腐な蛇足の章を書き加えようとしているの」
彼女は俺に、心中の実行を迫っていた。
その問いかけのあまりの重さに、俺は押し潰されそうになった。
俺はもう、彼女に嘘をつけなかった。
俺は彼女のその、すべてを見透かす瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
そして、ただ一言だけ言った。
俺の魂の、奥底からの叫びを。
「生きたい」
その言葉が、部屋の空気を凍りつかせた。
虚無の顔から表情が完全に消えた。
そして、その無の表情がゆっくりと静かな、しかし地獄の業火のような怒りへと変わっていくのを見た。
彼女の機嫌が悪くなったのは明らかだった。
だが、その理由は俺の想像とは少しだけ違っていた。
「……ひどい」
彼女は囁いた。
その声には初めてかすかな、しかし確かな感情の震えが混じっていた。
「あなたが、わたしを誘ったのに」
「……」
「あの退屈な灰色の世界で、眠っていたわたしを見つけ出し、その手を差し伸べたのはあなただった。わたしはあなたという案内人を信じて、ここまでついてきた。この旅の終わりにある、美しい奈落の底を見るためだけに」
彼女の言葉は、俺の罪の核心を突いていた。
「なのに今更、用済みだと、言うのね。目的地を目の前にして、案内人が乗客を置き去りにする。それ以上に残酷な裏切りが、あるのかしら」
そして彼女の疑念は、その本質へとたどり着く。
「……あなたは、女子に優しいはずだった」
彼女はまるで、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「高坂さんというあの、取るに足りないノイズにさえ、あなたは無抵抗だった。それがあなたの欠陥であり、本質のはず。なのにわたしに対するこの扱いは何?」
彼女の黒曜石の瞳が、俺の心の奥底を覗き込む。
「この冷たさは。この突き放すような態度は。わたし以外の女子にしか向けられないはずの、あなたのそのくだらない優しさを、どこか別の場所で別の誰かに与えているからでしょう?」
彼女は断定した。
その声はもう震えてはいなかった。
ただ、絶対的な確信だけがあった。
「外で他の女と親しくしているのね」
その言葉はもはや、問いかけではなかった。
それは死刑宣告だった。
俺は彼女の嫉妬という名の新たな、そして最も恐ろしい地獄の入り口に立たされていることを悟った。
陽だまりの中で見つけたはずの光の欠片は今、彼女の底なしの闇によって完全に飲み込まれようとしていた。
俺のすべての言葉を涙と共に受け止めてくれた遥さんはやがて、ゆっくりと俺の肩からその手を離した。そして、まるで壊れ物を扱うかのように俺の腕を取り、ベッドへと促した。
「……少し、休んだ方がいいよ」
その声はまだ涙で濡れていた。
「心も、身体も、疲れすぎてる」
俺はもう抵抗する気力もなかった。彼女の言う通りだった。俺の精神は告白という名の自傷行為によって完全に消耗しきっていた。
俺は言われるがままに彼女のベッドに横たわった。
綺麗なシーツからは太陽と、そして彼女自身の優しい匂いがした。
遥さんは部屋の隅の椅子に静かに腰を下ろした。
ただそこにいてくれる。
その事実だけが俺にとって何よりも慰めだった。
俺の意識はまるで深い、穏やかな湖の底へと沈んでいくように、途切れていった。
俺は眠りに落ちた。
血も、罪も、絶望も届かない。ただひたすらに静かで温かい眠りの中へ。
次に俺が目を覚ました時。
部屋は燃えるようなオレンジ色の光に満たされていた。
夕焼け。
窓の外で太陽が、その一日の最後の生命を燃やし尽くそうとしていた。
俺はどれくらいの時間眠っていたのだろうか。
身体が嘘のように軽かった。
あの突然俺の身体から自由を奪った石のような重さは完全に消え失せていた。深い夢も見ない眠りが、俺の心と身体の両方を癒してくれたらしかった。
俺はゆっくりと身体を起こした。
部屋には俺一人だった。遥さんの姿は見えない。
ベッドの脇には俺の汚れた上着が綺麗に畳まれ、置かれていた。そしてその上には一枚のメモ。
『おはよう、かな。気分はどう?下でおじいちゃんと待ってるから、目が覚めたら降りてきてね』
その丸みを帯びた優しい文字に、俺の胸の奥が温かくなった。
俺は着替え、階下の店へと降りていった。
カラン、とベルが鳴る。
店の中は閉店準備が始まっていた。客の姿はもうない。
カウンターの中で春樹さんが、サイフォンを丁寧に磨いていた。
そして遥さんが俺に気づき「あ、起きたんだ。よかった」とはにかむように微笑んだ。
そのあまりに日常的で、あまりに平和な光景に俺は、一瞬忘れていた。
自分が何者であるのかを。
自分がどこから来て、どこへ帰らなければならないのかを。
「体調はもう大丈夫かね?」
春樹さんが俺の顔を覗き込んで尋ねた。
「はい。おかげさまで。本当にすみませんでした」
俺は深々と頭を下げた。
「いいんだ、いいんだ。若いんだから無理は禁物だよ」
春樹さんはそう言って穏やかに笑った。
俺は壁の時計に目をやった。
針はもうすぐ七時を指そうとしている。
帰らなければ。
あの冷たい影の部屋へ。
俺のもう一人の共犯者が待つ場所へ。
「……そろそろ宿に戻ります」
俺がそう切り出すと、遥さんの顔がさっと曇った。
「……もうちょっといたら、いいのに」
彼女は小さな声でそう呟いた。
その言葉は甘い毒のように、俺の心を蝕んだ。
ここにいたい。
この陽だまりのような温かい場所で、ずっとこの優しい人たちと生きていたい。
その抗いがたい誘惑に、俺の決意が揺らぎかけたその時。
「……天気予報がな、今夜から崩れるらしい」
春樹さんが店の外の燃えるような夕焼け空を見上げながら言った。
「雨がひどくなる前に帰りなさい。待っているだろう」
春樹さんのその言葉は、ただの天気の話ではなかった。彼はすべてを知っているわけではない。だが、俺がこの陽だまりの世界の住人ではないことを、その深い優しい瞳で見抜いているのだ。そして、俺が自分の嵐の中へと帰らなければならないことを理解してくれている。
彼は俺に、帰るための口実を与えてくれたのだ。
俺は二人に、何度も、何度も頭を下げた。
「ありがとうございました」
その言葉しか見つからなかった。
「また明日、来ます」
そう言うと、遥さんは寂しそうに、しかし確かに微笑んで頷いてくれた。
喫茶ハルキを出て宿へと向かう。自転車のペダルは重かった。
物理的な重さではない。
俺の心が鉛のように重かったのだ。
光の世界から、影の世界へ。
温もりから、冷気へ。
生から、死へ。
俺は今、その境界線を自分の意志で越えようとしている。
俺は再び二つに引き裂かなければならない。陽だまりの中でかろうじて一つになりかけたこの心を、もう一度冷たい影の世界の俺へと明け渡さなければならない。
宿の古びたドアの前にたどり着く。
俺はしばらくそのドアを開けることができなかった。
このドアを開ければ、俺の束の間の夢は終わる。
俺は再び、殺人者の共犯者に戻るのだ。
意を決して、ドアノブに手をかける。
部屋の入り口。
そこに虚無が立っていた。
部屋の最も暗い隅の椅子に彫像のように座り、俺が帰ってきても気配一つ動かさない彼女が。
今日はまるで、俺の帰りを待ち構えていたかのように玄関の前に仁王立ちになっていた。
その黒いシルエットは、部屋の薄暗い光を背に浴びて、まるで地獄の門番のように見えた。
俺はそのあまりに異様な光景に一瞬、息を呑んだ。
「……ただいま」
俺はかろうじてそう言った。
虚無は答えなかった。
ただその黒曜石の瞳で、俺の頭のてっぺんから足の爪先までを、まるで検品でもするかのようにじろりと舐めるように見た。
そして彼女は静かに口を開いた。
その声は、いつもよりもさらに低く、冷たく感じられた。
それは問いかけの形をしていたが、その実、有無を言わさぬ断罪の響きを持っていた。
「あなたの時計は、壊れている」
彼女は言った。
「この部屋の時間は止まっているのに。あなたの時間だけが勝手に進んでいる。そして、遅れて帰ってくる。あなたはどこへ行っていたの。この檻の外のどこで、無駄な時間を過ごしていたの」
「……仕事だ」
俺は短く答えた。
「仕事?」
虚無はその言葉を、まるで初めて聞く異国の言葉のように繰り返した。
「ああ、あの醜い労働のこと。あなたはまた、自分の身体をすり減らしてきたのね。なのに」
彼女は一歩、俺に近づいた。
そして、俺の匂いを嗅ぐように、ふん、と鼻を鳴らした。
「あなたは、汚れていない」
「……え」
「あなたは光に汚されている。あなたの肌から砂糖と、珈琲と、そしてあの、うんざりするような陽だまりの匂いがする。私たちが共に分かち合ったはずの、美しい虚無の空間を。あなたはどこでそんなくだらない、きらきらとした埃を纏ってきたの」
彼女の言葉は詩的で、そして恐ろしいほど正確に、俺の罪を暴いていた。
俺は何も言い返せなかった。
「そして」
彼女は続けた。
「いつ、決行するの」
「……」
「物語の最終ページは、もうずっと前からそこに開かれている。インクは乾ききって、ひび割れている。ペンを握るべき作者は、ただそこに佇んでいるだけ。教えて。あなたはこの、完璧な結末の前に一体、どんな退屈で、陳腐な蛇足の章を書き加えようとしているの」
彼女は俺に、心中の実行を迫っていた。
その問いかけのあまりの重さに、俺は押し潰されそうになった。
俺はもう、彼女に嘘をつけなかった。
俺は彼女のその、すべてを見透かす瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
そして、ただ一言だけ言った。
俺の魂の、奥底からの叫びを。
「生きたい」
その言葉が、部屋の空気を凍りつかせた。
虚無の顔から表情が完全に消えた。
そして、その無の表情がゆっくりと静かな、しかし地獄の業火のような怒りへと変わっていくのを見た。
彼女の機嫌が悪くなったのは明らかだった。
だが、その理由は俺の想像とは少しだけ違っていた。
「……ひどい」
彼女は囁いた。
その声には初めてかすかな、しかし確かな感情の震えが混じっていた。
「あなたが、わたしを誘ったのに」
「……」
「あの退屈な灰色の世界で、眠っていたわたしを見つけ出し、その手を差し伸べたのはあなただった。わたしはあなたという案内人を信じて、ここまでついてきた。この旅の終わりにある、美しい奈落の底を見るためだけに」
彼女の言葉は、俺の罪の核心を突いていた。
「なのに今更、用済みだと、言うのね。目的地を目の前にして、案内人が乗客を置き去りにする。それ以上に残酷な裏切りが、あるのかしら」
そして彼女の疑念は、その本質へとたどり着く。
「……あなたは、女子に優しいはずだった」
彼女はまるで、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「高坂さんというあの、取るに足りないノイズにさえ、あなたは無抵抗だった。それがあなたの欠陥であり、本質のはず。なのにわたしに対するこの扱いは何?」
彼女の黒曜石の瞳が、俺の心の奥底を覗き込む。
「この冷たさは。この突き放すような態度は。わたし以外の女子にしか向けられないはずの、あなたのそのくだらない優しさを、どこか別の場所で別の誰かに与えているからでしょう?」
彼女は断定した。
その声はもう震えてはいなかった。
ただ、絶対的な確信だけがあった。
「外で他の女と親しくしているのね」
その言葉はもはや、問いかけではなかった。
それは死刑宣告だった。
俺は彼女の嫉妬という名の新たな、そして最も恐ろしい地獄の入り口に立たされていることを悟った。
陽だまりの中で見つけたはずの光の欠片は今、彼女の底なしの闇によって完全に飲み込まれようとしていた。

