季節は秋から冬へと静かにそのグラデーションを移していた。街路樹の葉は最後の鮮やかな赤や黄色を振り絞るように燃え、そして一枚、また一枚と、冷たいアスファルトの上へと舞い落ちていく。俺は喫茶ハルキの大きな窓からその光景を眺めながら、もうずいぶんと長い間ここで過ごしているような、不思議な感覚に囚われていた。
俺と遥さんの関係はあの夜以来、より穏やかで親密なものになっていた。
俺たちは朝一番に店に入り、まだ誰もいない静謐な空気の中で開店の準備をする。その時間は俺にとって、一日のうちで最も心安らぐひとときだった。
俺たちが働く姿はまるで長年連れ添った夫婦のようだと、一度、春樹さんが笑いながら言ったことがある。俺たちは言葉を交わさずとも互いが何をしようとしているのか、何を求めているのか分かった。
俺が珈琲豆をミルで挽き始めれば、遥さんはその間にカップを温め始める。彼女がカウンターを拭く布巾を探している素振りを見せれば、俺は何も言わずに棚から新しいものを彼女に手渡す。
それは、恋人同士の熱のこもった睦まじさとは違う。もっと静かで、透明で、そしてどこまでも優しい、空気のような調和だった。俺たちはこの、喫茶ハルキという小さな温かい宇宙の中で、互いの軌道を静かに周回する二つの惑星のようだった。
「悠真くんの淹れる珈琲は、真面目な味がするな」
春樹さんは、そう言って穏やかに笑った。
「まっすぐで、嘘がない味だ。ばあさんの、優しい味とはまた違うが、これもまたいいもんだ」
俺はもう、ただの給料をもらうためだけのアルバイトではなかった。この店の味を、空気を作る、大切な一員なのだとそう感じることができた。
その日の朝は格別に冷え込んでいた。
冬の硬質な光が、まだ眠っている商店街を青白く照らしている。
俺が店のドアを開けるとカラン、と乾いたベルの音が鳴った。一番乗りだった。
俺がエプロンを締め、店の照明のスイッチを入れたその時だった。
再びベルの音が鳴った。
開店はまだ三十分も先だ。春樹さんか、遥さんだろうか。
俺が、「おはようございます」と言いながら振り返ると、そこに立っていたのは見知らぬ二人の男だった。
一人は、三十代過ぎくらいだろうか。上質な、しかし着古されてくたびれたツイードのジャケットを着ている。目の下には深い隈が刻まれ、その表情はひどく疲弊していた。
もう一人はまだ若かった。大学生くらいだろうか。神経質そうにきょろきょろと店内を見回している。その手は落ち着きなく、何度もズボンのポケットに出し入れされていた。
二人の纏う空気は、この店の穏やかな雰囲気とは全く異質だった。それは、俺がかつていた世界の影の匂いをかすかに思い出させた。
「……まだ、やってませんか」
年上の男が、低い掠れた声で尋ねた。
「あ、はい。開店は九時からですけど……」
俺が戸惑いながら答えると男は、そうですか、とだけ言って、踵を返そうとした。
その時、店の奥から春樹さんが顔を出した。
「おや。まあまあ、入りなさい。こんなに寒い中待たせるわけにもいかんだろう」
春樹さんはそう言うと、二人を一番奥のボックス席へと案内した。
「珈琲でいいかね」
二人はこくりと頷いた。
俺は春樹さんの指示で、二人のために珈琲を淹れた。
豆を挽き、お湯を沸かす。そのいつも通りの静かな作業が、俺のかすかな動揺を鎮めてくれた。
俺が二人の席に珈琲を運んでいくと、彼らのひそやかな会話が耳に飛び込んできた。
「……だから、意味がないと言っているんだ。消したところで事実は変わらない」
若い男が苛立ったように言った。
「だが、その記憶が君を苦しめているんだろう」
年上の男が、静かに、答えた。
「罪の記憶を消し去ることができれば。俺はまた新しく始められるかもしれない」
「新しい始まりだと?忘れることが、赦しだとでも言うのか。違う。記憶とは罰だ。俺たちはそれを一生、背負って生きていくしかないんだ」
記憶。罪。罰。
その重い言葉の断片が、俺の心の奥底に突き刺さった。
俺は何も聞かなかったふりをして、二人の前にカップを置いた。そして足早にカウンターへと戻った。
その時ちょうど、遥さんが「おはよう」と言って店に入ってきた。
彼女は奥の席の異質な雰囲気の二人を一瞥したが、特に何も言わず、俺の隣に立ち開店の準備を始めた。
俺と遥さんはカウンターの中で息を潜めるように作業を続けた。
奥の席からは時折、二人の途切れ途切れの会話が聞こえてくる。
「そもそも、記憶とは何なんだろうな。それは本当に俺自身のものなのか。他人によって語られ、植え付けられた、ただの物語ではないのか」
「だとしてもその物語が俺たち自身を形作っているんだ。その物語を失えば、俺たちは俺たちではいられなくなる」
「空っぽになった方がマシかもしれないだろう」
その哲学的な問答を聞きながら、俺は虚無のことを考えていた。
彼女は記憶をどう、捉えているのだろうか。彼女のあの絶対的な虚無の中には、過去という概念は存在するのだろうか。
俺は不意に、隣にいた遥さんに囁きかけるように言った。
「……俺たちのことを、ずっと記憶してくれる人が、俺たち二人以外にもいたらいいですね」
それはほとんど無意識に、口からこぼれ落ちた言葉だった。
俺たち、という言葉に、俺は無意識のうちに遥さんを含めていた。この温かい場所での穏やかな記憶。それを共有してくれる誰か。
遥さんは俺のその唐突な言葉に、少し驚いたように目を見開いた。そして何かを言いかけたその時。
「わしは、除け者かね?」
ひょっこりと背後から春樹さんが顔を出し、悪戯っぽく笑った。
「悠真くんと遥ちゃんのことは、このじいさんがしっかり、この皺だらけの脳みそに刻み込んでおるよ。忘れようにも忘れられんわい」
その温かい茶化しに、俺と遥さんは顔を見合わせ、そして思わず、吹き出してしまった。
店の中に明るい笑い声が響いた。
その笑い声に誘われたのかもしれない。
奥の席に座っていた二人の男が、いつの間にか勘定書を持ってレジの前に立っていた。
彼らの顔から、店に入ってきた時のあの暗く、重い雰囲気は消え失せていた。
その表情は、まだ完全に晴れやかとは言えないまでも、どこか吹っ切れたような、穏やかなものに変わっていた。
「……ごちそうさまでした。美味しい、珈琲でした」
年上の男がそう言って、深々と頭を下げた。
「また、来ます」
そう言って二人は店を出ていった。
カラン、とベルが鳴る。
俺はその二人の後ろ姿を見送っていた。
彼らは結局、何の答えも見つけられなかったのかもしれない。
だがこの場所で温かい珈琲を飲み、誰にも邪魔されずに、自分たちの心の奥底にあるものを語り合った。ただそれだけのささやかな時間が、彼らの重荷を、少しだけ軽くしたのかもしれない。
生きること。
そして、人と関わること。
その素晴らしさ、というにはあまりに大袈裟かもしれないが、そのどうしようもない愛おしさを、俺はその時確かに実感したのだ。
目的がなくても、答えが見つからなくても、人はただ、誰かと共にそこにいるだけで救われることがあるのかもしれない。
そのあまりに強烈な、そして温かい気づきが稲妻のように、俺の全身を貫いた瞬間だった。
ぐにゃり、と視界が歪んだ。
世界の輪郭が溶け出し、足元の床がまるで沼のように俺の身体を引きずり込もうとしている。
「……え?」
手足から力が抜けていく。
まるで、身体を操っていた糸がすべて、ぷつり、と切れてしまったかのように。
俺はその場に崩れるように座り込んだ。
動けない。
指一本、動かすことができない。
意識ははっきりしているのに、身体だけが完全に石になってしまったかのようだった。
「悠真くん!?」
遥さんの悲鳴のような声が遠くに聞こえる。
春樹さんが慌ててカウンターから出てくる気配がする。
俺はただ、床に座り込んだまま自分の動かなくなった手足を見つめることしか、できなかった。
疲労だろうか。
いや、違う。
これはもっと、別の何かだ。
俺の魂が、俺のこの肉体という器を拒絶しているのだ。
光を知ってしまった俺の魂が、闇に慣れ親しんだこの身体を見捨てようとしているのだ。
数分だったか。
永遠のようにも感じられたその、金縛りのような状態は来た時と同じように突然終わりを告げた。
指先に感覚が戻ってくる。
足に力が入る。
俺はゆっくりと立ち上がることができた。
「……大丈夫か、悠真くん」
春樹さんが俺の腕を支えてくれていた。
「はい……すみません。ちょっと、立ちくらみが……」
俺はそう答えるのが精一杯だった。
「疲労が溜まっているんだ。今日はもう、お上がりなさい」
春樹さんはそう言うと、店の奥を指差した。
「宿までは自転車だろう。足がそんな状態では危ない。今日は、うちに泊まっていきなさい」
「え、でも、そんなご迷惑を……」
「迷惑なものか。家族みたいなもんだろう」
春樹さんはそう言って優しく、しかし有無を言わさぬ口調で言った。
「あいにく、客室はなくてな。遥、お前の部屋のベッドを貸してやりなさい」
「え、わたし!?」
遥さんの素っ頓狂な声が上がる。
「いいから。客足ももう少ない。遥、お前も今日はもう休んでいい。二人で、部屋でゆっくり過ごしなさい」
俺はもう抵抗する気力もなかった。
ただ、春樹さんのそのあまりに温かい優しさに、身を委ねるしかなかった。
遥さんに肩を支えられながら、俺は店のバックヤードにある小さな、そして生活の匂いに満ちた階段を、一歩、一歩上り始めた。
二階にある彼らの自宅へ。
俺は初めて、この陽だまりのような世界のその内側へと足を踏み入れようとしていた。
そのことが俺にとって救いになるのか、それとも新たな地獄の始まりになるのか。
その時の俺にはまだ、分からなかった。
ただ、階段を上るその一段一段が、とてつもなく重く感じられた。
遥さんの部屋は、珈琲と古い木と、そして陽の光の匂いがした。
俺が想像していたよりも、ずっとシンプルで片付いた部屋だった。壁には趣味のいい風景画のポストカードが数枚、飾られている。小さな本棚には小説や画集が行儀よく並んでいた。ベッドのヘッドボードには、使い込まれた小さなクマのぬいぐるみがちょこんと座っている。
それはどこにでもあるような、普通の女の子の部屋。
だが、そのあまりの「普通」さが、俺のような異物にとってはかえって息苦しく、眩しく感じられた。俺が決して手に入れることのできなかった、穏やかな日常の象徴。
「……ベッド、使って。わたしはそこの椅子に座ってるから」
遥さんはそう言って、部屋の隅にある木製の椅子を指差した。
「いえ、そんな……俺は床で十分です」
「だめ。病人なんだから。ほら、早く」
彼女は有無を言わさぬ口調で、俺をベッドへと促した。
俺はおそるおそる、彼女のベッドに腰を下ろした。柔らかいスプリングが、俺の疲弊しきった身体を優しく受け止めてくれる。清潔なシーツからは、太陽の匂いがした。
気まずい沈黙が流れた。
俺は何を話せばいいのか分からなかった。彼女もまた、自分の部屋に男の子がいる、というこの非日常的な状況に戸惑っているようだった。
俺はその気まずさから逃れるように、部屋を見回した。
そして、勉強机の上に置かれた、一枚の写真立てに目が留まった。
それは古い写真だった。
陽の光をいっぱいに浴びた、海辺で三人の人間が笑っている。
まだ幼い、髪の短い少女。
その隣で優しそうに微笑んでいる若い母親。
そして、少し照れくさそうに、しかし幸せそうに少女を肩車している若い父親。
少女の腕には、スイカの模様のボールが抱えられていた。
それは、完璧な幸福の瞬間を切り取った、一枚の写真だった。
「……遥さんの、ご両親ですか」
俺は尋ねた。
「うん」
彼女は短く答えた。
「……春樹さん以外のご親族の方は、お元気にされてるんですか」
俺は本当に何気なく、そう口にした。
ただの世間話のつもりだった。
その言葉が、彼女の心の最も深い場所に突き刺さるナイフになるなど、その時の俺は知る由もなかった。
俺のその問いを聞いて、遥さんは一瞬普通に答えようとしたようだった。
だが、俺の視線が机の上のその家族写真に固定していることに気づいた瞬間。
彼女の顔からすっと、表情が消えた。
そしてそのまま黙り込み、深く顔を伏せてしまった。
返答がない。
俺は不審に思い、彼女へと視線を戻した。
彼女はただ、自分の膝の上で固く握りしめた両手を見つめているだけだった。
「……遥さん?」
俺が、「どうしたの?」と声をかける、その前に。
彼女が話し始めた。
その声はいつもの明るい声とは全く違う、低く抑揚のない、まるで湖の底から響いてくるような声だった。
「……両親は、死んだよ」
その、あまりに直接的な言葉に、俺は息を呑んだ。
「わたしが、まだ幼稚園に入る、少し前の夏の日。交通事故で」
彼女は続けた。
「あの写真、その事故が起きる、ほんの数時間前の、写真なんだ」
俺はもう一度、写真立てに目をやった。
あの完璧な幸福の写真。あれが彼らの最後の笑顔だった。
「……後部座席に座ってた、わたしだけが生き残った。ううん」
彼女はそこで言葉を切り、そして自分自身を訂正するように言った。
「……わたしだけが、生き残ってしまった」
彼女はその時の光景を語り始めた。
それは告白であり、懺悔であり、そして彼女がずっと一人で抱え続けてきた、地獄の再現だった。
彼女のその淡々とした語り口とは裏腹に。
俺の脳裏にはその、あまりに残酷な光景が鮮明に映し出されていった。
……それは、楽しかった一日の帰り道だった。
遊び疲れた幼い彼女は、後部座席のチャイルドシートでうとうとしていた。腕には、今日買ってもらったばかりのスイカのボールを抱きしめている。
車のラジオからは、陽気な夏の歌が流れている。
運転席の父親と、助手席の母親が、何か楽しそうに話している声が聞こえる。
幸せな家族の、ありふれた帰路。
そのすべてが一瞬で破壊された。
交差点。
信号を無視して猛スピードで突っ込んできた大型トラック。
強い、光。
金属が引き裂かれる、耳を塞ぎたくなるような轟音。
そして、世界が逆さまになる感覚。
次に彼女が目を覚ました時。
世界は静寂と暗闇に支配されていた。
ガソリンの、ツンとする匂い。
どこかでパチパチと小さな炎が燃えている音。
彼女はチャイルドシートに固定されたまま、逆さまに吊り下がっていた。
頭が、痛い。
腕に抱いていたはずのスイカのボールは、どこかへ消えてしまっていた。
「……お父さん?お母さん?」
彼女は呼びかけた。
返事はない。
前の座席が押し潰され、幼い子供が入ることすら許されないほどの隙間しか無かった。そのため、二人の姿はよく見えなかった。
ただ、ぐったりとした母親の腕がだらりと垂れ下がっているのが見えた。
その指先からぽたり、ぽたりと赤い雫が滴り落ちていた。
それが血だということを、幼い彼女はまだ理解できなかった。
彼女は何度も、何度も二人を呼び続けた。
だが返ってくるのは無慈悲な沈黙だけ。
その音のない暗闇の中で、彼女は生まれて初めて絶対的な孤独と、死の気配を感じ取ったのだ。
そして悟ってしまった。
もう二度とあの優しい声で自分の名前を呼んでくれることは、ないのだと。
もう、二度と、あの、温かい腕で、抱きしめてもらうことは、ないのだ、と。
「……それからわたしは、『不吉な子』って言われるようになった」
遥さんは続けた。
「同級生からも、その親たちからも、煙たがられた。『あの子だけが生き残った』って。『あの子が両親を殺したんだ』って。そんな陰口がいつも、わたしの周りを飛び交ってた」
彼女の語るいじめの内容は陰湿で、執拗で、そして気持ちが悪くなるほどリアルだった。
学校に行くと、机の上に赤い絵の具で、『死神』と書かれている。
上履きや教科書が、ゴミ箱に捨てられている。
体育の時間、ドッジボールの集中砲火を浴びる。
誰も彼女を助けてはくれなかった。
誰もが彼女を腫れ物のように扱った。
彼女は学校という小さな社会の中で、完全に孤立した。
そして地獄はそれだけでは終わらなかった。
中学に上がった頃。
一人の若い男性教師が、彼女に優しく接してきた。
彼は彼女の唯一の味方のように見えた。
「辛かったな」と、彼は言った。
「先生だけはお前の味方だからな」と。
当時の孤独だった彼女は、その偽りの優しさにいとも容易く縋り付いてしまった。
だが、それは蜘蛛の糸だった。
地獄へと続く、蜘蛛の糸。
彼の優しさは、次第にその醜悪な本性を現し始めた。
誰もいない放課後の教室。
進路相談、という名目で呼び出された生徒指導室。
彼の言葉は次第に粘着質になり、その手は必要以上に彼女の肩や、髪に触れるようになった。
気持ちが、悪い。
嫌だ、と言っても、彼はやめなかった。
それどころか、彼は笑いながらこう言ったのだ。
「遥ちゃんさあ、おじいさんのお店、大事なんだろ?」
「あのお店古いからさあ、ちょっと保健所に悪い噂でも流されたら、すぐに潰れちまうかもなあ」
「でも、遥ちゃんが先生の言うことをちゃんと聞く良い子でいてくれたら。先生がお店のこと、守ってあげるよ」
それは脅迫だった。
当時、まだ中学生だった彼女はその言葉を本当だと信じてしまった。
おじいちゃん。
この世界でたった一人、残された家族。
そのおじいちゃんを守るためなら。
彼女はただすべてを、受け入れ続けるしかなかった。
心を、殺して。
感情を、消して。
ただ汚い大人たちの欲望の捌け口として、存在し続けるしかなかった。
遥さんはそこまで話すと、ふっと息を吐いた。
彼女は泣いてはいなかった。
その顔はただ真顔だった。
いつものかわいい陽だまりのような面影は、どこにもない。
その瞳の奥には、長年耐え忍んできた深い、深い絶望。そして、この理不尽な世界に対する、冷たい復讐の炎が静かに燃えているようだった。
そして彼女は、その復讐者の瞳で俺を真っ直ぐに見つめた。
そして、覗き込むように言った。
「悠真くんは、わたしを裏切らないよね?」
その問いはあまりに重かった。
彼女がこれまでの人生で裏切られ続けてきたすべての人間たちの重みが、その一言に込められていた。
俺は、何も答えられなかった。
沈黙が流れる。
その沈黙を、彼女はどう受け取ったのだろうか。
次の瞬間、彼女は動いた。
俺の両肩を、その華奢な、しかし信じられないほど強い力で掴むと、そのままベッドの上へと押し倒した。
ドサリ、と俺の背中が柔らかいシーツの上に沈む。
目の前には、俺に覆いかぶさる遥さんの真顔があった。
それは、性的な行為の前触れなどでは断じてなかった。
その動きはまるで、逃亡しようとする犯人を追い詰めた刑事が、その身柄を確保するような暴力的で支配的な動きだった。
彼女は俺を試しているのだ。
俺が彼女を裏切る人間なのか、そうではないのか。
俺が彼女を傷つける側なのか、それとも。
俺は言葉にせず、ただ行動で答えた。
俺はゆっくりと両腕を伸ばした。
そして、俺の上で固まっている彼女の震える小さな身体を、胸へと引き寄せた。
強く、しかし優しく。
がらくたを、抱きしめるように。
「……っ」
彼女の身体が、びくりと強張るのが分かった。
だが、彼女は抵抗しなかった。
ただ俺の胸に、その顔をうずめたまま動かない。
俺は何も言わなかった。
どんな慰めの言葉も、今の彼女の前ではあまりに薄っぺらく、虚しいものに思えたからだ。
俺はただ、彼女を抱きしめていた。
彼女の長い黒髪から、シャンプーの優しい匂いがした。
その温かい命の感触だけが、この救いようのない世界の中で唯一の真実のように感じられた。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
部屋に差し込む夕日の光は、いつしかその色を失い、窓の外は深い藍色の闇に包まれていた。
俺の腕の中であれほど硬く、強張っていた遥さんの身体から少しずつ、力が抜けていくのが分かった。彼女の震えはまだ完全には止まっていない。だが、その激しい嵐のような感情の昂りは、過ぎ去ったようだった。
やがて彼女はゆっくりと、俺の胸から顔を上げた。
その目は泣き腫らしたように赤くなっていた。だが、あの復讐者のような硬い光はもう消えていた。そこにあるのは、傷つき、疲れ果てた一人の少女の素顔だった。
「……ごめん」
彼女は小さな声でそう呟いた。
「変なこと話しちゃって。押し倒したりとか、しちゃって……」
「いいえ」
俺は静かに首を横に振った。
「話してくれて、ありがとうございます」
俺たちはゆっくりと身体を離した。
気まずい、というよりは何か大きな儀式を終えた後のような、不思議な静寂が部屋を満たしていた。
俺たちは、もうただのアルバイト仲間ではなかった。
互いの魂の最も柔らかな傷つきやすい部分を見せ合ってしまった、共犯者のような存在になっていた。
「……今度は」
遥さんは言った。
「悠真くんの、番だよ」
「え……」
「悠真くんも、いつも何かすごく重いものを背負ってる顔、してるから。わたしでよかったら、聞くよ。悠真くんのこと」
彼女のその、あまりに真っ直ぐな瞳に、俺は嘘をつくことができなかった。
俺はこれから、この陽だまりのような少女に、俺の血と、罪にまみれた醜悪な物語を、話さなければならない。
それを話してしまえば、もう二度とこの温かい場所にはいられなくなるかもしれない。彼女は俺を軽蔑し、恐れ、拒絶するかもしれない。
だが、俺は話さなければならない、と思った。
彼女が俺に、その魂の傷痕を見せてくれたように。俺もまた俺の醜い魂の姿を、彼女の前に晒さなければならない。
それが、彼女に対する俺の、唯一の誠意だった。
「……話します」
俺は意を決して言った。
「でも、その前に一つだけ約束してください」
俺は彼女の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「俺は、死にません。絶対に」
遥さんは、俺のその唐突な言葉に、驚いたように目を見開いた。
「今から話すのは、俺がまだ死のうとしていた時の話です。でも、今はもう違う。俺は、生きたい。この喫茶店で、春樹さんや遥さんと一緒にいるこの時間を、一日でも長く生きたいと思ってる。だから、心配しないで聞いてください」
それは彼女を安心させるための言葉であると同時に。
俺自身に言い聞かせるための、誓いの言葉でもあった。
遥さんはしばらく黙って俺の顔を見つめていたが、やがて静かにこくりと頷いた。
俺は、深く息を吸い込んだ。
そして、俺の地獄巡りの物語を語り始めた。
「昔のことは……あんまりよく思い出せないんです。まるで分厚い霧がかかっているみたいに。だからごく最近の、ここに来るまでの話をします」
俺はそう前置きをした。父のあのうつろな瞳も、母の諦めの笑顔も、今はまだこの温かい少女に見せることはできなかった。
「俺は……ずっと根暗で、クラスでもあんまり馴染めませんでした。周りのみんなが楽しそうに笑っているのが、テレビの向こう側の作り物の世界のようにしか見えなかった。俺の人生はずっと退屈で、無意味で、ただ時間が過ぎるのを待っているだけだった。そんな人生ならいっそ、終わらせてしまった方がいいんじゃないか。ずっとそう思ってました」
俺は言葉を選んだ。
俺の魂の醜悪さをできるだけ隠しながら、しかし嘘はつかないように。
「そんな時、あるクラスの女子と知り合いました。名前は……言えません。彼女も、俺と同じだった。世界のすべてを虚しいものだと感じていた。俺たちはすぐに惹かれ合いました。同じ空っぽの魂を持った、もう一人の自分に出会ったような気がしたんです」
俺は虚無とのあのバス停での出会いを話した。
言葉もなく、ただ互いの絶望を共有していた、あの静かな時間を。
そして、俺が彼女に心中を持ちかけたことを。
「俺から言ったんです。『一緒に、死のう』って。それが、俺たちの無意味な人生を意味のあるものに変える唯一の方法だと、その時の俺は本気で信じていた。俺たちは家を飛び出して、当てもなく都会を目指し始めました」
遥さんの顔が、少しずつ青ざめていくのが分かった。
だが、彼女は黙って俺の次の言葉を待っていた。
「その……旅の最中に事件は起きました」
俺は一度言葉を切り、震える唇を噛み締めた。
「彼女が……俺と一緒にいた、その女の子が、同じ学校の同級生を……」
声が詰まる。
「……殺してしまったんです」
遥さんの、息を呑む音が聞こえた。
俺は、彼女の顔を見ることができなかった。
「俺は止められなかった。いや、止めることさえ考えられなかった。あまりに一瞬の出来事で……。気づいた時にはすべてが終わっていた。俺は、ただの家出人から、殺人犯の共犯者になってしまった」
俺は虚無のあの嫉妬も、何もかもを省略した。ただ事実だけを淡々と語った。
「それから俺たちの逃亡が始まりました。都会でお金を得るために、俺たちは怪しいバイトに手を出しました。港の倉庫での荷物運びでした」
俺はそこで、トラさんのことを話した。
「その道中で一人、親切な人に出会いました。トラックの運転手で……俺たちみたいな薄汚いガキを何も聞かずに乗せてくれた。その人は、下品でうるさくて、でもどうしようもなく優しい人でした」
俺の声が震える。
「でも……その人も死んでしまった。俺たちが手を出した、その怪しいバイトの連中の手によって殺されて、荷物として箱の中に詰められていたんです」
俺は、あの時の絶望的な光景を思い出す。
トラさんの生気のない顔を。
「俺はそれに激昂して……そのバイトの、責任者だった、男を……」
俺はもう一度言葉を詰まらせた。
今から俺は、俺自身の罪を告白するのだ。
この優しい少女に、俺の魂の最も醜い部分を見せるのだ。
「……俺が、殺しました」
その言葉は、まるで自分の口から出たとは思えないほど、乾いて響いた。
「気が、動転していました。怒りと絶望で、自分が何をしているのか分からなかった。気づいた時には、俺の手は血塗れになっていた。俺もまた、ただの人殺しになってしまったんです」
俺はすべてを話し終えた。
もうこれ以上、話すことは何もなかった。
俺は裁きを待つ罪人のように、ただうなだれていた。
遥さんはきっと悲鳴を上げて、この部屋から逃げ出すだろう。あるいは軽蔑と恐怖に満ちた目で、俺を睨みつけるだろう。
どちらにしても、俺たちのあの陽だまりのような穏やかな時間は、もう二度と戻ってはこない。
だが、彼女は逃げ出さなかった。
悲鳴も上げなかった。
ただ静寂だけが、部屋を満たしていた。
俺はおそるおそる顔を上げた。
遥さんはそこに座っていた。
その顔は真っ青で、唇はかすかに震えていた。その瞳には、恐怖の色が浮かんでいた。
だが、軽蔑の色はどこにもなかった。
彼女はただ、俺のその、あまりに巨大な絶望を、自分の小さな身体で受け止めようと、必死に耐えているようだった。
俺は続けた。
もう彼女の顔を見て話すことはできなかった。ただ床の一点を見つめながら、言葉を紡いだ。
「……そんなことがあって、俺はもう、どうしていいか分からなくなりました。死ぬことさえも、許されないような気がした。そんなどん底の時に、この喫茶ハルキを見つけたんです」
俺の声は少しずつ、熱を帯びていった。
「楽しい、バイトでした。珈琲の匂い。お客さんの笑顔。俺を『家族みたい』って言ってくれる春樹さん。そして……」
俺は遥さんの方を見た。
「……こんなどうしようもない俺に、優しく接してくれる遥さんがいた。俺はここで初めて、生きているって、実感できたんです。今が、すごく楽しい」
俺は立ち上がり、彼女の前に膝をついた。そして、畳の上に頭をつけた。
土下座。
それが俺にできる、唯一の表現方法だった。
「……ありがとう、遥さん。本当にありがとう」
「俺を、人間に戻してくれて」
「だから、俺はもう、死なない。絶対に」
俺は、ただその姿勢のまま彼女の言葉を待っていた。
どんな罵倒も拒絶も受け入れる覚悟はできていた。
だが、聞こえてきたのは言葉ではなかった。
ぽたり、と俺の頭の上の畳に、小さな染みができた。
涙の雫だった。
見上げると、遥さんが大粒の涙を、その大きな瞳から流しながら、俺を見下ろしていた。
そして、彼女は震える手で、俺の肩に触れた。
その、温かい感触。
俺はその日、確かに救われたのかもしれない。
法では決して裁かれることのない、俺の罪が。
彼女の一粒の涙によって、ほんの少しだけ赦されたような気がしたのだ。
彼女の涙は、やがて嗚咽に変わった。だがそれは、俺への恐怖からくるものではなかった。
俺がようやく顔を上げると、彼女は涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、それでも必死に言葉を紡ごうとしていた。
「……よかった」
彼女はそう言った。
「生きてて、よかった……。悠真くんが生きたいって思ってくれて、よかった……」
その、あまりに純粋な言葉に、今度は俺の目から涙が溢れた。
しばらくして、互いの涙がようやく枯れた頃。
遥さんはすうっと息を吸い込むと、俺の隣に静かに座り直した。
そして、窓の外の闇を見つめながら静かに言った。
「……悠真くんは、人殺し、なんだね」
その言葉はナイフのように鋭かった。だが、そこに棘はなかった。ただ事実を確認するような静かな響きがあった。
俺はこくりと頷いた。
「そして、わたしは」
彼女は続けた。
「『不吉な子』だ」
「……え」
「あの日、わたしだけが生き残ったから。わたしと一緒にいると不幸になる、ってみんなそう言った。わたしは歩く厄災なんだって。だから、みんなわたしから離れていった。わたしはずっと、一人だった」
彼女は俺の方へ向き直った。
その濡れた瞳は、夜の闇の中で星のように輝いていた。
「私たちには、共通点があるね」
彼女は言った。
「普通の世界で、私たちはきっと異常な扱いを受ける。あなたは罪人として石を投げられ、わたしは不吉な存在として遠巻きにされる。そこに、私たちの居場所なんてどこにもないのかもしれない」
彼女の言葉は残酷なほどに真実だった。
彼女の言葉は決して、これからの俺たちが生きていく世間の目が変わる、というような甘い希望ではなかった。
「……けれど」
彼女は俺の手をそっと取った。
その、小さな温かい手。
「私たち、二人の世界ならば。この小さい、小さい部屋の中ならば。私たちは異常じゃない」
彼女は俺の目を真っ直ぐに見つめて、言った。
「あなたは、ただ生きようと、もがいただけの人。わたしは、ただ生き残ってしまっただけの人。それだけ。そこには罪も不吉もない。ただ、傷ついた二人がいるだけ」
「この世界では、私たちは普通なんだよ」
その言葉が、俺の魂の最も深い場所へと、ゆっくりと染み込んでいった。
それは、赦しではなかった。
それは、肯定でもなかった。
それはもっと、根源的な魂の救済だった。
俺が犯した罪が消えるわけではない。
彼女が負った傷が癒えるわけでもない。
だが、その罪を、その傷を、分かち合い、互いの異常さを認め合うことができる、たった一人の人間がここにいる。
ただ、その事実だけが俺の心をどうしようもなく震わせた。
それはどこか、心が癒えるような、というにはあまりに深く、そして切ない感覚だった。
俺は彼女の手を強く握り返した。
俺たちのあまりに歪で、危うい、しかし確かな共犯関係が、その涙の雫と共に静かに始まった。

