あなたのれきし


 「こんにちは」
 私はそう声にする。返事はもちろんない。
 彼はもう、私の目には写らないし、彼の目にも写らない。
 両手を合わせる。
 どうか、彼が幸せにいますように。
 私は神様にそう願った。
 どうか、彼の周りの人たちも幸せになりますように。
 どうか、彼が笑顔でいられますように。
 どうか、彼が好きな人が彼を好いてくれますように。
 どうか、彼が安らかに眠っていますように。
 どうか、彼の魂が孤独ではありませんように。
 どうか、彼が見ている景色が、美しいものでありますように。
 どうか、彼の心が痛みに縛られていませんように。
 どうか、彼の微笑みが、永遠に曇りませんように。
 どうか、彼の好きだった歌や言葉が、今もそばにありますように。
 どうか、彼の隣に、彼を想ってくれる誰かがいますように。
 どうか、彼が望んだ未来を、別の形でも与えられていますように。
 どうか、彼の過ちも、すべて赦されていますように。
 どうか、彼の優しさが、死の向こう側でも報われていますように。
 どうか、彼の存在が、私の中で永遠に消えませんように。
 そして――どうか、彼がもう二度と、悲しみに触れませんように。
 そこまで祈ってようやく気付く。私はいままで神など信じてこなかったことを。その報いとして、神はきっと私の願いを叶えてくれないだろう。それでも。
 私は君に、言いたいことがあるんだ。
 桜が散っていた。
 私が一つ瞬きをすると、私の目に一人の女性が映る。
 彼女も私と同じように手を合わせていた。
 彼女は少ししたら立ち上がった。私は彼女のいた場所に目をやる。そして彼女が去っていった方へと視線を戻す。しかしそこには誰もいなかった。
 幻だったのだろうか。
 その綺麗な姿も相まって、まるで、
 桜に化かされたのかと、思った。





 夏が、死にかけていた。
 
 アスファルトに溶け残った黒い染みのような熱が、夜になっても亡霊のように立ち上り、まとわりつく。蛙の合唱はとうに終わりを告げ、今はただ、名前も知らぬ虫の音が、りん、りんと、途切れそうな心電図の波形のように闇のなかで明滅を繰り返している。

 俺がこの町で生きてきて、何度目の夏だったか。もう思い出したくもない。時間の感覚はとうに麻痺し、ただ同じ軌道を回り続ける壊れた衛星のように、意味もなく、目的もなく、この閉塞した谷底の町を漂っているだけだったからだ。決められた時間に学校へ行き、面白くもない授業を受け、未来という名の白紙の答案用紙を前に、ただうんざりする毎日。この場所は、緩やかな窒息死を迎えるための檻としては、あまりに居心地が良すぎた。山々に四方を囲まれた地形は、さながら巨大な棺のようだ。空は狭く、星々は手の届きそうなほど近くに見えるのに、決してその輝きに触れることはできない。それは、手を伸ばすことさえ忘れてしまった俺自身を映す鏡のようでもあった。

 日常は、凪いでいた。
 川面の光の反射のように、ただきらめいては消えるだけの、意味をなさない断片の連続。眠りに落ちる瞬間だけが、唯一の救いだった。意識という名の牢獄からの、束の間の仮釈放。だが、目覚めればまた、同じ牢獄の同じ壁が俺を囲んでいる。

 そんな腐りかけた果実のような日々の中で、俺は彼女に出会った。

 彼女はいつも同じ場所にいた。町の外れにある、今はもう使われなくなったバス停の錆びついたベンチに。まるで、そこに根を下ろした一本の痩せた木のように、彼女はただ座っていた。俺と同じ制服に身を包んでいる。だが、彼女の纏う空気は、若さという言葉が持つあらゆる生命力と対極にあった。

 初めて彼女を見た時、奇妙な感覚に襲われたのを覚えている。それは恐怖でも、同情でも、好奇心でもない。もっと根源的な、そう、まるで長い間忘れていた古い歌の旋律を不意に耳にした時のような、懐かしさに似た痛みだった。

 彼女は、人形のように動かなかった。黒曜石のような瞳は、道路の向こうにある鬱蒼とした森の、そのさらに奥にあるであろう虚無の、一点だけを見つめている。車が通り過ぎても、鳥が頭上を掠めても、その視線が揺らぐことはない。まるで、この世界のあらゆる事象が、彼女の網膜を素通りしていくかのようだった。

 俺は、知らず知らずのうちに、下校時、そのバス停の前を通ることが習慣になっていた。声をかける勇気はない。そもそも、かけるべき言葉が見つからない。こんにちは。そんなありふれた挨拶が、彼女の作り出す絶対的な静寂の前では、冒涜的な響きを持つように思えた。

 彼女は、世界の縁に座っている。俺はそう直感した。

 生きている者たちの世界と、まだ生まれぬ者。あるいは、すでに死んだ者たちの世界。その境界線がもしあるとするならば、彼女はその上に、危うい均衡を保ちながら腰掛けているのだ。風が吹けば、どちらに倒れてもおかしくないような、儚い存在。

 ある日、小雨がぱらついていた。俺は傘もささずに、いつものようにバス停の前を通り過ぎようとした。彼女は、その日も変わらずそこにいた。雨粒が、彼女の艶のない黒髪を濡らし、白い制服の肩に小さな染みを作っている。それでも彼女は、微動だにしない。まるで、自分が濡れていることにさえ気づいていないかのように。

 その時だった。俺の存在に、初めて彼女が反応を示した。

 彼女の瞳が、ゆっくりと、本当にゆっくりと、俺の方を向いたのだ。

 その瞬間、世界から音が消えた。雨の音も、虫の声も、俺自身の心臓の鼓動さえも。俺たちは、数メートルの距離を隔てて、ただ見つめ合った。彼女の瞳には、何の感情も浮かんでいないように見えた。喜びも、怒りも、悲しみも。ただ、底なしの井戸のように暗く、深い、空虚が広がっているだけだった。

 だが、その空虚の奥底に、俺は確かに見たのだ。俺と同じ種類の、魂の破片を。

 世界から疎外され、意味を見失い、ただ消え去ることだけを願う、静かな絶望。彼女は、もう一人の俺だった。言葉を失い、感情を失い、ただ存在しているだけの、俺という名の空っぽの器の完璧な写し鏡。

 どちらからともなく、歩み寄っていたのだろうか。それとも、ただ引かれ合っただけなのか。気づけば、俺は彼女の隣に座っていた。雨は変わらず、俺たち二人を濡らしていく。俺たちは何も話さなかった。話す必要がなかった。

 彼女の隣は、不思議なほどに安らかだった。長年探し求めていた、自分のいるべき場所が、ようやく見つかったような感覚。世界の中心から最も遠い、この忘れ去られたバス停のベンチこそが、俺たちの唯一の安息の地だった。

 沈黙は雄弁だった。

 言葉を交わすよりも深く、正確に、俺たちは互いの魂の形を理解し合っていた。生きることの痛み。存在することの虚しさ。そして、その果てに横たわる、死という名の甘美な眠りへの、抗いがたい憧憬。

 雨が強くなってきた。彼女の華奢な肩が、小さく震えているのが見えた。寒さからか、それとも別の何かのせいなのか。

 俺は、無意識のうちに呟いていた。

 「……死にたい、よな」

 それは問いかけではなかった。独白であり、告白であり、そして、確認だった。

 彼女は、俺の方を見なかった。相変わらず、森の奥の虚無を見つめたまま、ただほんのわずかに、こくりと頷いた。

 その小さな、ほとんど見えないほどの肯定の仕草が俺たちの間に決して断ち切ることのできない契約を結んだ。それは血よりも、涙よりも、どんな言葉よりも強い魂の契約だった。

 俺たちは二人で一つだった。一つの終わりを目指す、二つの身体。

 雨に濡れた制服の袖から覗く彼女の手首に、幾筋ものためらい傷が白い線となって浮かんでいるのを俺は見ていた。それは彼女がこの世界と格闘した痕跡であり、敗北の印であり、そして、俺への招待状だった。

 俺たちはこの壊れた世界から一緒に旅立つのだ。

 まだ行き先は決まっていない。方法も知らない。だが確かなことは一つだけあって。それは俺たちがもう一人ではないということ。

 りん、りんと鳴いていた虫の声が、いつの間にか止んでいた。俺たちの周りには、ただ静かな雨音と、二人分の沈黙だけが満ちていた。それは、これから始まる長い旅路の始まりの合図のように俺には聞こえた。

 夏が死に、秋が生まれようとしている。季節の変わり目、世界の縁で俺たちの物語は静かに幕を開けた。

 彼女の美しさは、冒涜的だった。

 生命が持つはずの温かみや淀み、不完全さといった一切のものを拒絶し、ただそれ自体で完結している冷たく絶対的な美。
 俺はその美しさの前にただひれ伏すことしかできなかった。それは信仰に似ている。あるいは、致死性の毒に魅入られる感覚と酷似している。

 教室という箱庭の中で、あの錆びついたバス停のベンチに座る彼女の姿を思い浮かべるたび、俺の意識はそこだけ切り取られたように現実から遊離する。彼女は、この退屈で色褪せた世界の風景の中で、唯一彩度を間違えたかのように、鮮烈に存在していた。

 ある日の放課後、燃えるような茜色が、彼女のシルエットを黒く縁取っていた。俺が隣へ腰掛ける気配に、彼女はゆっくりと顔を巡らせる。その瞬間、俺は息を呑んだ。

 真ん中で分けられ、きれいに立ち上がっている前髪が風にそっと揺れる。その隙間から覗く額は、人間特有の生々しさを欠いた、冷ややかな光を放つ乳白色の陶器のようだ。そこから滑り落ちるようにして描かれる鼻梁の線は、神が気まぐれに引いた一本の完璧な軌跡。そして、血の気を感じさせない薄い唇は、世界のあらゆる言葉を拒むかのように、固く結ばれている。

 何より俺を捉えて離さないのは、その瞳だった。大きく、黒曜石のように深い光を宿した瞳。だが、その奥に感情の火は灯らない。それは、幾億光年の彼方から届く、とうに死んだ星の光にも似ていた。美しいが、どこまでも冷徹で、ただ見る者の魂を吸い込んでいくような、暗い引力があった。

 彼女の隣に座ることは、美という名の深淵を覗き込む行為に他ならなかった。

 その日も、俺たちは言葉を交わすことなく、ただ過ぎていく時間を共有していた。不意に、彼女が学生鞄から教科書を取り落とした。鈍い音を立てて開いたページを拾おうと、彼女が身を屈める。その時、肩口で切り揃えられたボブヘアがさらりと流れ、露わになった首筋の白さに、俺は再び心を奪われた。それは、真冬に降り積もったまま誰も触れなかった新雪のように、清らかで、そして絶望的なほどに孤独な白さだった。華奢な指が教科書を拾い上げる。その指先まで、まるで精巧なビスクドールのように、およそ生命活動という営みを感じさせなかった。

 開かれたページに、俺はその名を見てしまった。

 空見(うつみ) 虚無(うろむ)

 ああ、やはり。と俺は思った。これほどまでに、その存在の本質を射抜いた名前があろうか。彼女のこの世のものならざる美しさは、彼女が「虚無」そのものであることから来ていたのだ。あらゆる情動、欲望、意味、そういった不純物を削ぎ落とした果てにのみ現れる、究極の造形。彼女は、美のイデアが、奇跡的に人の形をとってこの世に現出した存在だった。

 「空見……」

 俺の唇から、ほとんど吐息のようにその名が漏れた。
 彼女、空見虚無は、ゆっくりと俺を見た。その黒曜石の瞳が、俺の言葉によって、ほんのわずかに波紋を広げたように見えた。それは驚きでも、困惑でもない。ただ、自分の本質を、ようやく見抜く者に出会ったという、静かな共鳴の揺らめき。

 彼女は何も答えず、教科書を鞄にしまった。しかし、その沈黙は肯定だった。俺は彼女を「空見虚無」と呼び、彼女はそれを受け入れた。俺たちは共犯者になった。この美しすぎる虚無を、世界から隠し、そしていつか、永遠に葬り去るための。

 それからの日々、俺は貪るように彼女の美しさに見蕩れた。
 自販機で買った缶コーヒーを差し出した時に触れた指先の、ぞっとするほどの冷たさ。遠くを見つめる横顔に落ちる夕日の光が、彼女の肌を半透明の瑪瑙のように輝かせる様。長い睫毛が伏せられ、その下に作る小さな影の、完璧な幾何学模様。彼女の一つ一つの所作、光と影が生み出す一瞬一瞬の造形が、俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。

 彼女の美しさは、俺にとっての哲学だった。生きることの無意味さ、世界の不条理、そういったものが渦巻く中で、彼女の存在だけが唯一、絶対的な真理のように感じられた。美は、それ自体が存在理由となる。意味などなくとも、目的などなくとも、ただ美しくありさえすれば、それは許されるのだ。そして、彼女の美の頂点は生でなく、死の側に傾いている。生きているが故の揺らぎや変化さえも、この完璧な造形にとっては些細な瑕疵に過ぎない。完全な静止、永遠の不変、すなわち「死」こそが、彼女の美を完成させる唯一の方法なのだと、俺は確信していた。

 ある晩、月さえも姿を隠した闇の中、彼女は不意に立ち上がり、バス停の時刻表へと歩み寄った。そして、今はもう使われていない都会行きの路線の名を、その白い指先で、祈るようになぞったのだ。

 ここではない、どこかへ。

 その指先が、俺に最終的な啓示を与えた。
 彼女は振り返り、俺を真っ直ぐに見つめた。闇の中、彼女の瞳だけが、内側から発光しているかのように、仄かな光を宿していた。それは決意の光。この閉塞した世界から、自らの美を解放し、完成させるための舞台へと旅立つという、静かな宣言だった。

 「行くんだな」

 俺の声は、震えていた。畏怖と、そして歓喜に。
 空見虚無は、こくりと頷いた。その一度の動きが、世界の他のどんな言葉よりも、重く、決定的だった。

 俺たちは行く。この美しすぎる虚無を抱えて、あの光と喧騒が渦巻く巨大な墓標、都会へ。そこでならば、きっと見つかるはずだ。この完璧な美を、永遠に世界へ刻みつけるための、最も気高く、最も静かな場所が。

 俺は見蕩れていた。旅立ちを決意した虚無の、その神々しいまでの美しさに。ああ、この美しさのためならば、俺は俺のすべてを捧げよう。この命さえも、彼女という芸術を完成させるための、最後の仕上げとして喜んで差し出そう。
 俺たちの終わりへの旅が、今、始まろうとしていた。

 空見虚無と共に、この世界から消え去る。

 その決意は、俺の魂の最も深い場所に、静かに、だが決して消えない星として宿った。しかし、星までの距離がそうであるように、決意と実行の間には、絶望的なほどの時間が横たわっていた。俺たちはまだ、この四方を山に囲まれた、巨大なガラスケースのような町に閉じ込められた、名もなき標本に過ぎなかった。

 どうやら俺と空見虚無は、同じ高校の、同じクラスに在籍していたようだった。それだけの事実が、どれほどの意味を持つっていうんだ。教室という名の、透明な水槽。俺たちは、互いに触れ合うこともなく、ただ同じ澱んだ水の中を漂う、別種の魚だった。

 俺は目立たない生徒だった。成績は可もなく不可もなく。部活にも所属せず、休み時間はいつも窓の外を眺めていた。クラスメイトとは当たり障りのない会話を交わすが、その輪の中心に入ることは決してない。輪に交じりたいと願ってないし、願ったところで叶わないだろう。あいつらの弾むような声、未来への屈託のない希望、そういったものが、分厚いガラスを隔てた向こう側の出来事のようにしか感じられなかった。俺の内側には、いつも広漠とした空洞が広がっている。その空洞を満たすものは、この世界のどこにもないと、とうに諦めていた。

 一方、空見虚無は、目立たないのとは違う次元で、クラスから浮遊していた。彼女はそこに「いない」。たとえ教室の席にその身を置いていても、彼女の魂は常に、この場所ではないどこか遠くを彷徨っている。その人間離れした美しさは、クラスメイトたちにとって畏怖と好奇の対象であり、同時に決して触れてはならない聖域のようでもあった。

 変化は水面に落ちたインクがじんわりと広がっていくように、俺たちの足元から始まった。この小さな町の、さらに閉鎖的な学校という共同体では秘密は存在しない。誰かの視線は、蜘蛛の巣のように隅々まで張り巡らされ、どんな些細な変化もその粘着質な糸で絡め取られ、瞬く間に共有される。

 俺と彼女が、毎日のように、学校から離れたあの古いバス停で会っているという事実。それは退屈な日常に飢えたハイエナたちにとって、格好の餌食となった。

 最初にその気配を感じたのは、移動教室の廊下だった。
 俺の数歩先を歩いていた、クラスの中心グループの女子たちが、わざと聞こえるような声で囁き合っていた。

 「ねえ、見た?昨日も佐藤くんと空見さん、一緒にいたんだけど」
 「マジで?佐藤くんって、ああいうタイプが好きなんだ。ちょっと意外かも」
 「ていうか、空見さんってマジでヤバいって噂じゃん。関わらない方がいいって、先輩も言ってたし」
 「二人とも暗いから、お似合いなんじゃない?ウケる」

 最後の嘲笑が、無数の針となって俺の背中に突き刺さる。振り返らない。表情も変えない。だが、俺の内側にある空洞で何かが静かに、そして確実に、ひび割れていく音がした。くだらない。お前らなんかに、彼女の何が分かる。

 その日から、教室は俺にとって、居心地の悪い舞台となった。
 黒板に向かう教師の背中。ノートをとるクラスメイトたちの横顔。そのすべてが、俺と空見虚無を監視する「観測者」に見えてくる。あいつらの無邪気な視線、悪意のない好奇心が、俺たち二人だけの聖域を土足で踏み荒らしていく。

 放課後、担任の教師が俺を呼び止めた。人の良さそうな、しかし、どこか鈍感な中年男だった。
 「佐藤、ちょっといいか」
 彼は心配するふりをして、型通りの言葉を並べた。
 「最近、空見さんと親しくしているようだな。先生は、お前のことを心配しているんだ。彼女は……ほら、家庭環境が少し複雑でな。あまり深入りすると、お前のためにならないかもしれんぞ」

 お前のため。その言葉の欺瞞に、吐き気がした。人と親しくする理由が、自分ではないといけない理由なんてどこにもないはずだ。
 あんたに、俺の何が分かるっていうんだ。俺の内側にある、この乾ききった虚無を。そして、空見虚無という存在が、この砂漠のような世界における、唯一の水源なんだということを。あんたは、何も知らない。ただ管理された水槽の中で、すべての魚が同じように波風立てずに泳ぐことだけを望んでいるだけだ。

 「……大きなお世話ですよ」
 俺はそう吐き捨てるのが精一杯だった。担任は意外そうな顔で俺を見つめ、やがて諦めたように溜息をついた。

 その週末、俺は自宅という名のもう一つの檻の中にいた。
 夕食の席。テレビの音が虚しく響く中、親父が唐突に口を開いた。
 「悠真。この前の模試の結果、見たぞ。なんだ、あの成績は。お前、このままでどこの大学に行けると思ってるんだ」

 始まった。いつもの説教だ。俺の未来を思う親心という、最も厄介な善意の暴力。
 「もっと危機感を持て。いい大学に入って、いい会社に就職する。それがお前にとって一番の幸せなんだぞ」

 幸せ。その言葉がひどく空々しく聞こえた。あんたたちの言う「幸せ」の物差しで、俺の人生を測るな。そのレールの上を歩くことが、どれほど俺の魂をすり減らすか、あんたたちは想像さえしないだろう。

 母親が、おずおずと口を挟む。
 「あなた、あまり悠真を追い詰めないでください。でも悠真、お父さんの言うことも分かるでしょう?それに……最近、変な噂を聞いたのよ。空見さんとこの、娘さんと付き合ってるって、本当なの?」

 その名前が出た瞬間、食卓の空気が凍った。親父の目が、鋭く俺を射抜く。
 「あの家の娘だと?悠真。お前、何を考えているんだ。あんな先の見えない暗い子と関わって、自分の将来を棒に振るつもりか」

 将来。未来。幸せ。
 あんたたちの言葉は、すべて同じ意味だった。このちっぽけな町と社会の価値観に、俺を縛り付けようとする、重い鎖の音。
 もう何もかもがうんざりだった。

 「……放っておいてくれ」
 俺は箸を置き、立ち上がった。
 「俺の人生だ。俺がどう生きようと、どう死のうと、俺の勝手だ」

 凍りついた両親の視線を背に、俺は家を飛び出した。
 行く場所は、一つしかなかった。

 自転車を全力で走らせ、あのバス停へと向かう。
 息を切らし、たどり着いたその場所に彼女はいた。いつもと同じように、まるで世界の始まりからそこに座っていたかのように、静かに。

 彼女の隣に腰を下ろした瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。学校での息苦しさも、家での絶望も、彼女の纏う絶対的な静寂の中に溶けて、消えていく。ここは俺たち二人だけの聖域。観測者の視線も、未来への不安も、届かない場所。

 「……どこか、遠くへ行きたい」
 俺は誰に言うでもなく呟いた。
 「誰も俺たちを知らない場所へ。この息苦しいだけの世界から、消えてしまいたい」

 空見虚無は、何も言わずに、ただ俺の顔をじっと見つめていた。その黒曜石の瞳の奥に、深い共感の色が揺らめいた。彼女もまた、同じ檻の中でずっと一人耐えてきたんだ。この町で、「普通ではない」という烙印を押され、見えない檻の中で生きてきたんだ。

 そして彼女は、そっと俺の手に自分の手を重ねた。
 驚くほどに冷たい、その感触。だがその冷たさこそが、俺の燃え上がるような焦燥感を静かに鎮めてくれるようだった。

 この手を取って、二人で逃げるんだ。
 決められたレールも、押し付けられた幸せも、無理解な視線も、すべてを振り切って。
 俺たちの行く先は、都会の喧騒かもしれない。あるいは名もなき場所の静寂かもしれない。だが、どこであろうと関係ない。この手を離さない限り、そこが俺たちの世界になるんだから。

 俺たちの革命は、まだ始まってもいない。
 だが、その決意は触れ合った指先から伝わる冷たさの中で、紛れもない熱を帯びて、確かなものへと変わっていった。
 この観測者の檻を、いつか必ず、二人で破壊する。
 そして、その先にある究極の自由を手に入れてやる。