文化祭、当日。いつもは騒がしい教室が、この日は異常なほど静まり返っていた。
「え、小鳥遊さん熱出たってまじ?」
クラスメイトの一人が頷く。委員長の落とした深い溜め息が、重い空気に混ざった。
小鳥遊さんが熱を出して学校を休んだという情報は、登校してすぐに知らされた。この日のために一週間以上ずっと練習してきて、衣装も作ってある。
「もう、なんで今日なの……」
「本当は昨日からずっと体調悪かったんだって。でも出たいから言わなかったらしいよ」
女子が同情を含んだ声で囁く。こういう風に話されることを小鳥遊さんは望んでないだろうけど、さすがに俺も可哀想だと思った。
「てかさ! 白雪姫どうすんの?」
「代役……誰かやりたい人?」
白川が女子のほうを見て言った。が、全員がさっと目を逸らして、手を挙げる人は誰もいなかった。
「今から練習なんかできないじゃん……あと二時間で始まるのに」
ただ一瞬ステージに立つだけならまだしも、白雪姫の出番は多い。ほとんど練習できずに表に出て恥をかくのが、みんな嫌なのだ。失敗したら自分の責任になってしまうのも。
気持ちはよくわかる。他のクラスの生徒だけじゃなく、他の学校の生徒も観に来る可能性がある舞台にノリだけで出られる人は、このクラスにはいない。
「どうする?」
「時間やばいよ。誰かやってよ」
みんながパニックに陥りかけたとき、女子の一人が突然俺のほうを見た。
「じゃあ一ノ瀬は?」
一斉に視線を向けられ、たじろぐ。
驚きのあまり思考が止まった。まさか、男である自分に白羽の矢が立つなんて思ってもみなかった。
「……え」
ようやく声が出せた頃には、周りも「たしかにそれでいいじゃん」と賛同し始めていた。
これはまずい。止められない空気が流れている。
「い、いや。だって俺は男だし」
「でもさー、メイクしたらいけんじゃない?」
「私たちがやってあげるよ! 今日メイク道具持ってきたし」
この前は「男だよ?」と笑ったくせに、こういう時ばかり都合の良い奴らだ。
「声出したら男って丸分かりだろ。誰も見たくないって」
白川がちらっとこちらを見て、『俺は見たい』と口パクで言った。お前の意見は聞いてない。
「そしたら声出さなきゃいいじゃん。セリフも少ないし、魔女に無理やりリンゴ食べされられる感じにしたらいけると思う」
「そ、そんなのつまんないって……だいたい、なんで俺なんだよ」
「だって男で可愛いの一ノ瀬しかいないから~!」
全然、理由になってない。
そもそも俺はここにいる他の女子と同じだ。目立ちたくないし、できれば裏にいてやり過ごしたい。
白雪姫なんて俺がなったところで、得するのは白川と──たぶん岩井くらいだ。
俺にはできない。きっぱり断ろうと口を開いた瞬間、ずっと無言だった岩井がみんなに聞こえる声で言った。
「一ノ瀬は嫌がってるやん。他の人にしよ」
「あっ、イヤなの?」
「い、嫌っていうか……」
岩井と目が合った。途端、ぎゅっと心臓が掴まれたように締め付けられる。
──俺のこと嫌なんやろ? だから断ってええで。
そう言われた気がした。まるで失恋したみたいに諦めた顔をしていて、なぜか苛立ちを覚えた。
あれから岩井とはぎくしゃくしたままで、あまり話せていない。もう何日も経つというのに。
「男子でもええわ、他にやってもいいって人──」
本番でキスするかどうかは分からないが、キスしてるように見えるくらい顔を近づけるというのは確実。
男でも女でも、誰かを相手に岩井がそうするのを、俺は小人の一人として端から見なきゃいけないのか?
頭に浮かんだ絵を打ち消すように首を振る。目立ちたくなくても、やるしかない。
「……やる」
「え!?」
大声を出した岩井を睨んだあと、クラスメイトに目を向ける。
「本当に男で、俺でいいわけ? 後悔してもしらないけど」
「一ノ瀬やってくれるの?」
「ただ、文句言うなよ誰も。代役としてやるだけだから」
「言わない言わない。ねえ? みんな」
「当たり前じゃん~、助かる!」
「一ノ瀬、ありがとね。やりたくないのに……」
「……大丈夫」
「じゃあ急いでメイクしよっ。衣装係の人、一ノ瀬の服って調整できる?」
「たぶん……でも急いでやらないと!」
慌ただしく動き出した周りと一緒に、岩井が駆け寄ってきた。
「一ノ瀬! ほんまに大丈夫なんか」
「ああ。練習のとき岩井たちのこと見てたから結構覚えてると思う。小人役、暇だったし」
「い、いやあ、そうやなくて……一ノ瀬って女装とかメイクとかたぶん苦手やろ? 自分がやるの」
「……なんで分かんの」
「なんとなく、そんな感じがしてん」
岩井はガサツそうに見えて、意外にも繊細だ。他人のことをよく観察しているし、口に出さなくてもそれを拾って気遣ってくれるときがある。
だからだろうか。時々、すべてを見透かされているような気分になるのは。
(しかも──俺が代役やるって決まっても、喜ぶより先に心配するなんて)
「苦手……だけど、お前が相手だから別にいい」
自分でも驚くほど、珍しく素直な言葉が出た。
まさか心配してくれるとは思ってなかったからかもしれない。
岩井の反応を見る前に、女子たちに腕を引かれて、教室の隅に準備されたメイクスペースに連れて行かれた。
「一ノ瀬って肌めっちゃ綺麗だよね」
「しかも白いし。ノーファンデでいけるくない?」
数人の女子に囲まれてあちこち触られるのは、なんか変な感じがする。別の意味で緊張してきた。
「可愛くするからね!」
「しなくていい……」
メイクしたところで何が変わるっていうんだ。
上向いて、違うよ、顔じゃなくて目だけ上向くの。ちょっと目伏せて。など、慣れないことをたくさん要求された。そうして戸惑っているうちに終わったらしい。荒々しく手鏡を渡される。
「うわ」
まるで別人──とまではいかないが、粗が隠れて、なにかがマシになった気がする。でもこの状態で白雪姫の衣装を着たところで、やっぱり男にしか見えないはず。
本当に大丈夫なのかと一人で不安になっていたら、小人の準備をしていた白川に捕まった。
「一ノ瀬ってやっぱめっちゃ可愛いよな」
「本当かよ……てか嬉しくない」
「すごい似合ってる」
「はいはい」
体裁を気にしてホモ嫌いしてた奴が、気軽にそんなことを言うようになったのは、岩井の影響だろうか。きっと、あいつがいなかったらこうはならなかった。
舞台が始まるまであと数分。
ステージ裏に入った俺たちは、動きの最終確認をした。ここに来る前に何度か練習したけど、全然足りない。波のように不安が押し寄せてくる。
「一ノ瀬……大丈夫そう? ごめんね押し付けて。男なのに白雪姫とか嫌だと思うけど……」
魔女役の女子が眉を寄せて謝った。
「仕方ない。やりたい人いなかったし」
小人の時と同じでセリフがないのは助かる。
幸いにも、衣装は布面積が広いおかげで男の骨格をなんとか誤魔化せたと思う。青い生地の長袖に、目がチカチカする黄色いロングスカート。なによりリボン付きのカチューシャが煩わしい。
「一ノ瀬、がんばって」
「あ……うん」
下の名前も知らない女子に励まされた。
足元が涼しくて慣れないそれを指先で摘む。そこで初めて、緊張で手が震えていることを自覚した。
司会が出し物について説明したあと、魔女が舞台袖に移動する。
それを横で見ていて、ついに心臓がバクバクと高速で音を立て始めた。
プロの舞台と違う点はいくつもある。たかが学園祭の出し物だから、時間はたったの二十分程度。そして白雪姫なのに誰も歌わない。まあ、高校生の学園祭なんてそんなものだ。
今の俺にとってそれらは救いに感じるが、人前に立って注目されるプレッシャーは大きい。
指示係の委員長が出したサインで、表に出る。
(くそ、スカート歩きにくいな……)
歩くのも一苦労だ。長い裾を踏まないように気をつけながら、段ボールで作った城に入る。
窓から顔を出すと、観客の姿が視界に広がった。想像を超える人の多さに驚く。
視線が刺さるように痛い。顔を伏せたい気持ちを堪えて、小鳥遊さんの動きを思い出しながら、そこにあった偽物のベッドに横たわる。
──これでいいんだろうか?
俺だけここにいるのが場違いみたいだ。
目を瞑ると、小人たちの会話が聞こえてきた。
「かわいい女の子だ!」
「天使みたいだね」
「女は面倒事を持ち込むんだぞ!」
小人たちのぶっきらぼうな会話のおかげで、緊張が和らいだ。かわいいどころか、女ですらないけど……と内心笑いそうになる。
観客も、ツッコミどころが多いこの幼稚な舞台にもう飽きてるんじゃないだろうか。
魔女から無理やり食わされた毒リンゴで倒れたあと、とうとう小人たちが泣き始めた。
体のそばに花を置きにくる複数の足音、そして嘘っぽい泣き声が暗闇の中で響く。
「──あれは誰?」
「王子様だ!」
「おいっ、王子様を通すんだ」
トントンと聞こえてきたリズムの良い足音が不意に止まった。岩井の気配を枕元に感じる。
「美しい白雪姫……あなたに、私の愛を捧げよう」
──セリフが違う?
練習のときは、「美しい女性だ」とかなんとか言っていた気がする。
なんで変えたんだろうと考えていたら、ふっと目の前が暗くなった。顔にかかった息のおかげで、キスをされる直前なのだと知る。
(……あれ?)
待っていても一向に唇に触れる気配がない。
客席と反対側にある腕を軽く叩かれた。これはきっと、目を覚ませという合図だ。
瞼を持ち上げるのと同時に、小人たちが「わあっ!」「キスで目を覚ましたぞ!」と騒ぎ始めた。
立ち上がった途端、岩井が微笑みながら俺の手を取った。指先にそっとキスを落としながら、片膝を少し曲げる。
まったく違和感のないその仕草に驚いた。
喋らなければ本当にかっこいいな──と思ったのは俺だけじゃないらしい。観客の一部の女子が、岩井を見ながら顔に手を当てている。
小人に手を振りながら岩井と手を繋いだまま舞台袖に捌けた。すると客席から拍手が聞こえてきて、じんわり目の奥が熱くなった。
別に感動したわけじゃない。
大きなミスもなく、無事に終えることができた。これはその達成感と安堵からくるものだ。
(手、震えてる)
はあっと強く息を吐き出す。
岩井が心配そうな顔で俺の手を握り直した。
「大丈夫?」
「あ、ああ……緊張した」
「大変やったな。数回しか練習できひんかったのに、すごい上手かったよ」
「うまくはないだろ。でもミスしなくてよかった」
「おい、挨拶いくぞ」
委員長に背中を押され、俺たちは再びステージに戻った。
一刻も早くメイクを落としたくて、女子からクレンジングという名の液体を借りてトイレで洗い流した。
「一ノ瀬、服持ってきた!」
「助かる」
岩井が走って制服を取りに行ってくれたおかげで、その場で着替えることができた。
元通りになった姿を見た岩井が一言、「やっぱこっちのが俺は好きやな」と納得したように頷いて言った。女装に興味はないらしい。
「そういえば……キスする前のシーン、なんでセリフ変えたんだ? 『なんて美しい女性だ』じゃなかった?」
「そりゃ、一ノ瀬は女性やないし」
「あれ遼が考えたのか」
「うん。勝手にごめんやけど……苦手なのに女装して出てくれた一ノ瀬に、そういうセリフ言いたくなかったんよ」
岩井なりに気を遣ってくれたんだ。
たしかに、メイクをして女の格好をした俺に、こいつは一言も「可愛い」とか「似合ってる」といった類の言葉を発さなかった。普段はウザいくらいに可愛いと言ってくるのに。
口角が上がりそうになって、きゅっと唇同士を合わせる。
──うれしい。岩井の気配りも、女の格好をした俺じゃなくて素の俺を好きだと言ってくれることも。
「……なんでキスしなかった?」
「えっ」
「なんで?」
「い、いや、ほんまにキスしたら皆に茶化されるやろ。それでまた一ノ瀬が嫌な気持ちになるかもしれんし」
こいつは本当に、俺のことしか考えてないのか?
最初は自分の欲ばかり優先する人だと思っていたけど、知れば知るほどそうじゃないと分かる。
「俺はしてもよかったよ」
「う、うそやん……」
「嘘じゃない」
このトイレは体育館側にあるから、そもそも人通りが少なく、利用者もあまりいない。さっきメイクを落としに入ってから一度も誰も来なかった。
念のためドアのほうを確認したあと、岩井の頬を両手で包んで引き寄せる。
「──っ、え」
軽く唇を合わせる。
目を閉じなかったせいで、大きな目がさらに見開かれる瞬間が見えた。
「嘘じゃないって。それと……この前の話だけど、あれ違うから。噂されるのが嫌だっただけで……なんて答えたらいいか、ただ分からなくて」
「あ、ああ! そうなんかなとは思ってた。それでも他の人から一ノ瀬の気持ち、聞きたくなかったんよ。変な態度取ってごめん」
ここ数日、ちゃんと話せなくてイヤやった。 続けてそう言った岩井の耳は赤くなっている。キスのせいだろうか。
「……お前は愛してるより、好きのほうが似合うよな」
「せ、せやな。なんか言ってて違和感あったわ。一ノ瀬のこと、す……」
言葉の途中で、岩井が「ああああっ」と顔を手で覆いながら屈んだ。真っ赤な顔を隠しながら、らしくない声量でモゴモゴ呟く。
「すっ……好きって言うん、めっちゃ恥ずかしい」
「は? なんだよ今さら」
「今あかんかも……好きって気持ちいっぱいなって、溺れそう」
なに言ってんだよ。と笑うつもりが、できなかった。釣られてこちらまで恥ずかしくなったからだ。
「……なあ、残ってる時間で回ろうよ。チョコバナナ出してるクラスあったし」
「ほんまに!?」
「うん。だから、早く行こ」
さっき舞台の上でされたことを思い出しながら、手を差し出す。今度は俺が岩井の手を握る番だった。
遅めの昼飯でドーナツとクレープ、それからチョコバナナを食べた。さすが文化祭クオリティ。あまり美味しくない上に、お腹も満たされなかった。
「コンビニでなんか買う?」
「ん、そうしよか。さすがにお腹まだ空いてるもんな」
「甘いのしか食べてないから変な感じ」
「俺も~」
「一ノ瀬!」
呼ばれた気がして振り返る。廊下の向こう側から、白川が走り寄ってきた。
「どうした?」
「あっ、い、岩井も一緒なんだ……。もしかして二人で回ってる感じ?」
「そうだけど」
「あー……そっか、おっけ。じゃあまた」
俺と岩井を見て残念そうな顔をしたのはなぜだろう。
白川は来た時と反対側に向かって、今度はゆっくり歩いてどこかに消えて行った。
(もしかして……俺と回りたかったのかな)
「一ノ瀬、白川と仲良かったっけ?」
「仲良いっていうかまあ、小人で一緒だったから」
──そういえば、白川のことをまだ伝えられてない。ここ数日はそれほど会話がなかった。
言いたいけど上手くタイミングが掴めない。
コンビニを出て校舎に入る前、岩井を引き留める。他の人の声に邪魔されたくなかった。
「あのさ……この前言おうと思ったんだけど」
「うん?」
「白川に、気になってるって言われた。恋愛的な意味で」
「…………は!? え、え待って、白川に?」
「そう。俺もびっくりした」
「いやでも、白川はそういうん苦手やなかった? 男同士とか」
「俺もそう思ってたんだけど」
「え、えええー……ライバル二人もいらんてぇ……」
「でも断ったよ。お前と向き合うからって」
「いちのせ……」
「こんなとこで抱き着くな!」
伸びてきた腕を振り払って校門をくぐる。
どこで食べる? と聞こうとした瞬間、岩井が焦った顔で俺の肩を後ろから掴んだ。
「え?」
「あっ、ちょっと待って! あっち向かんで」
向かないでと言われたら逆に気になってしまう。
制止を振り切るために体を捻ると、階段付近にいる川村先輩とその彼女が視界に入った。フランクフルトとチョコバナナを持っている。きっと二人で回ってきたのだろう。
──岩井はあれを隠そうとしたんだ。俺が見たら悲しむと思って、またこいつは気にしてくれた。
「なんで見るん……」
「別にいいよ」
「……あの人ら、俺たちの舞台見に来てたやんな」
「そうなの? 気づかなかった」
あんな緊張する場所で、岩井は観客に誰がいるか見る余裕があったのか。先輩が見に来ていたことより、そっちのほうが驚きだ。
岩井は立ったまま眉を寄せて俯いた。この感じには覚えがある。花火大会で先輩たちと偶然会ったときも──たぶん、こんな顔をしていた。
「先輩は……一ノ瀬のことずっと見とった。やから俺、それがイヤで……」
「妬いた?」
冗談っぽく聞いたせいか、岩井が唇を尖らせて頷く。
「かわいいな」
「え?」
「あ」
口に出すつもりなんかなかったのに、うっかりこぼれ出てしまった。
「かわいい……ってなんや。なにが?」
嫉妬したことを俺に伝えてくるのが可愛かった、とはさすがに言えない。
「……俺たちも行こ。てかどこで食べる? 空いてる教室あるかな」
「今、俺のこと可愛いって言ったん?」
「だからなんだよ」
「へへっ。うれしいな」
──最近、先輩が目の前にいても、なぜか岩井のことばかり考えてる。この前も、今も。
岩井のことをどう思ってるか分からなかったけど、もしかしたら自分が思っている以上に、好意を抱いているのかもしれない。
オレンジ色の太陽に照らされた笑顔を見ながらそう思った。


