夏休みが終わった。なかなか充実した一ヶ月になったと感じるのは、岩井と仲良くなったおかげで去年より出掛ける回数が増えたからか、はたまた行きたかったところに行けたからか。どちらにせよ楽しかった分、これからまた授業が始まると考えるだけで憂鬱だ。
日程表に、今日は四時間目まで学級活動と書いてあった。一体なにをするんだろう。
休み明けでクラス全体がそわそわしていて、落ち着きがない。みんなの会話の声も自然と大きくなっている。担任が教室に入ってきたときもそれは変わらなかった。
「はい、ちょっと静かにしてー」
「今日なにするんですかっ」
「静かに。今日は文化祭の準備するから、委員長は前出てきて」
「えっもう!?」
「お前ら、文化祭は再来週だよ?」
そういえば、もうそんな時期か。
文化祭の出し物を決めたのは夏休みに入る一ヶ月くらい前だった。記憶が曖昧だけど、たしかうちのクラスは演劇をやることになったはず。白雪姫とか言ってたっけ……。
他の人も記憶が薄れているようだ。「なにやるんだっけ?」とまた雑音が大きくなる。
「白雪姫に決めたじゃん」
「そうそう、岩井が王子様役!」
「あーそっか。そういや俺、小人だったわ」
「役あんの羨まし~。俺なんて裏方だからね」
そうだ。配役を決めるとき、「王子様だったら岩井しかいなくね?」「顔だけなら似合ってるもんな」などという会話をしていたような、していなかったような気がする。俺は七人の小人のひとり、ドーピーという役を勝手に与えられた。セリフがないからまだ良かったものの、ステージに立ちたくなかったのに。
肝心の白雪姫を演じるのは──クラスで一番可愛いと言われている女子、小鳥遊さんだ。色白で黒髪ロング、目が大きくてお人形みたいな顔。ヒロインに選ばれるのも当然だと思った。
「はーいちょっとうるさい。委員長、黒板に役割書いていってもらえる? 衣装係と小道具係、あと役者と……看板係、こんなもんかな」
「買い出しとかしないんですかー?」
「する。今日このあと分担して行ってもらうから、とりあえず準備期間の役割を決めます。役者以外ね」
買い出しか……面倒だな。仲良い人は限られてるし、なるべく嫌いな人と一緒に外に出たくない。
衣装と小道具係に数人の女子が手を挙げ、看板係は余った男子がやることになった。
「じゃあ~買い出しなんだけど、とりあえず衣装と小道具と看板に使うものを分担して買ってきてもらいたい」
「先生! その分担決めって自由ですか?」
「いや、面倒だから先生が決める。小道具と看板はそれぞれ係が買い出し行って。そこの席順でいいや。あと衣装はどうすっかなー」
「はい先生っ、私たち魔女の服の素材買いに行きます!」
「おっけ、じゃあよろしく。あと白雪姫のドレスがどこに売ってるかわかんないんだよ。とりあえず小鳥遊と岩井は主役だろ? だから二人でドレスと王子様の服を探しに行って。なければ素材だけ買って、衣装係が作ること」
(小鳥遊さんと岩井が二人きりで買い出し……)
当然、小鳥遊さん狙いの男子は黙っていられない。
「えっ、なんで二人なんですかずるい!」
「はいはい。あ、予算少ないからなるべく生地買って作るようにしてね」
「小人はどうするんですか?」
「あー小人の分はまとめて買ってきて。ペアはそうだなあ、一ノ瀬と白川で。松本と高橋は教室に残って──」
キーンと耳鳴りがした。担任の声が途中から入ってこなくなる。よりによって、買い出しのペアが白川だと?
あいつは岩井のことをキショと言って笑った、俺が嫌いな男だ。夏休み中にも遭遇して気まずい思いをしたのに、今から二人で出掛けるなんて無理。だが、先生に「一人で行きたいです」とみんなの前で言う勇気が出なかった。嫌だ嫌だと頭を抱えているうちに、買い出しの分担決めが終わった。
「岩井~、行こっか?」
真っ先に岩井の席まで移動した小鳥遊さんが、親しげに岩井の肩を触る。二人は一緒に教室から出ていった。
(岩井って小鳥遊さんとも仲良いのか?)
女友達が多いみたいなことを前に言ってたけど、あの人もそのうちの一人なんだろうか。
「岩井と小鳥遊さん、これをキッカケに付き合っちゃったりして」
「えー、私岩井のこと狙ってたのに」
「どこがいいの。ガキっぽくない?」
「顔いいじゃん!」
「出たよ面食い~」
残された女子と男子の一部がくすくす噂話を始めた。
げんなりした気分で、斜め前あたりの席に座っている白川に視線を向ける。岩井たちのことも気になるが、俺は今からこいつと二人で買い出しに行かなきゃいけない。最悪だ。行きたくない。
怨念でも出ていたのか、パッと白川が俺のほうを振り向いた。目が合った途端に立ち上がって、近づいてくる。
「一ノ瀬、俺たちも行こ」
「……わかれて行く?」
「え、一緒に行こうよ」
なんでお前は気まずくないんだよ。まったく喋ったことない相手だぞ?
予想に反して、移動中も白川は馴れ馴れしく話しかけてきた。本屋でお互いに無視したのが夢だったのかと思うくらい。けどそれは、緊張を誤魔化すためだということに途中で気が付いた。
「予算少ないからまじで安い布しか買えないな」
「……だな」
学校から電車で数駅移動したところにある、街の商店街。店の入口に貼ってあったポスターによると、何軒もの生地屋がずらりと並んでいるこの周辺は繊維の街と呼ばれているらしい。
そんな中で俺たちが入ったのは、特に安売りしてそうな雰囲気の店だった。スマホで小人の衣装を調べ、近い色合いの生地をカゴに入れていく。
「靴とかってどうすんだろ?」
「普通のスニーカーでいいんじゃない」
「ははっ、小人がスニーカー履いてたら萎えそう」
乾いた笑い声が逆に気まずい。別に無理して笑わなくていいのに。
「じゃあ靴下とか」
「んーそれか、百均でスリッパ買って手加えるのは?」
「ありだな」
「じゃあそれ用の布も買っておくか」
生地屋を出たあと百均にも寄って、必要なものはすべて買い揃えた。裁縫のことはなにも分からないから不安だが、あとは衣装係がなんとかしてくれるだろう。
「い、一ノ瀬。ちょっとだけ……話いい?」
すぐ学校に戻らなきゃいけないのに、白川はそう言って駅の近くにある小さな公園に俺を連れて行った。滑り台も砂場もベンチもなにもない。あるのはたった一つ、ブランコだけ。
白川が片方に座ったから、なんとなく俺も隣のブランコに座ってみる。
「なに? 話って」
「俺さ……いや、てかこれ、誰にも言わないでほしいんだけど」
「わかった」
言わないでほしいことを、わざわざ仲良くないクラスメイトに言うのか?
白川は俺のことをちらちら見ながら、言いにくそうに口を開いた。
「俺、一ノ瀬のことちょっと気になってる」
「……は?」
「いや、キモいなってわかってるよ俺も」
「どういう意味? 気になるって、なにが」
「だからその……恋愛的な意味で」
乾いた唇を舐めた白川が、おずおずと反応を伺ってくる。言われた言葉の意味が理解できず、頭が真っ白になった。だってこいつは──。
「お前、岩井に『男好きなのかよ~キショ』みたいなこと言って馬鹿にしてたじゃん」
あんなに嫌悪まる出しだったくせに、男相手に恋愛的な意味で気になってる?
首をひねると、白川は焦った顔で「ごめん」と謝った。
「あれは悪かった。あそこで否定しなきゃ変な目で見られるかなって思っちゃって……でも岩井にキレられたとき、自分ダサいなと思った」
「……岩井に謝れよ。言ったこと」
「夏休み入る前に謝った」
「そ、そうなのか」
「誰が誰を好きになってもいいって言われて、まじでそうだと思ってさ。本当は俺ずっと一ノ瀬と話してみかったんだ」
「いや……でも、なんで俺が気になりだしたの」
それこそ岩井が俺にスキスキ言ってるから、意識してるだけなんじゃないのか。
「……顔?」
「え、そんなんで男なのに気になんの?」
「めっちゃタイプなんだよ。クラスの中で一番可愛いと思ってるし」
「いやいや……一番って、それは盛りすぎだろ。小鳥遊さんとかいるのに」
「俺は一ノ瀬のほうが可愛いと思う」
「そ、そんなこと言われても」
あんな可愛い女子を超えるとか、あり得ないだろ。信じられない気分で白川を見る。冗談ではなさそうな雰囲気だ。
「一ノ瀬は岩井と付き合ってる?」
「え」
突然出された名前に、大袈裟に反応してしまった。他から見て、俺たちは付き合ってるように見えるんだろうか。だとしたら恥ずかしいな……と首を掻いたら、白川が気まずそうな顔のまま視線を逸らした。
「やっぱそうなんだ」
「いや……付き合っては、ない……けど」
「付き合ってない?」
「まあ」
「そっか。でもめちゃくちゃ告白されてるよな」
こいつのことは信用できない。けど誰にも言わないでくれと言ってきたくらいだし、言いふらすなんてことはしないはず。それに、白川の気持ちには応えられないと伝えなければ。
「今は……あいつの気持ちに応えられるように、努力してる最中。だから、ごめん」
「ま、まじか……そっかあ」
「キショとか言うなよ」
「言わねぇって! 俺、告白してる立場だよ?」
「ふは、冗談」
「一ノ瀬って冗談とか言うんだ……」
白川は変わってる。でも思ったより、悪い奴じゃなくて安心した。三年に上がるまであと七ヶ月くらいあるから、なるべく苦手な人は少ないほうがいい。
「そろそろ戻らないとやばいか」
「うん」
「──お、岩井じゃん。あいつらもここ来てたんだ」
岩井と小鳥遊さんが公園のちょうど目の前を通り過ぎた。なんてタイミングだと驚いている間に、二人が駅のほうに向かって消えて行く。
まるでカップルのようないい感じの身長差。そして距離も近い。端から見たら付き合ってると思われるだろう。
「お似合いだよなあ」
「お似合い……」
「あっごめん、違う、そういう意味じゃなくて!」
「……やっぱお前のこと嫌い」
「え、やっぱ? やっぱってなに!?」
反論のしようもないことを言った白川に腹が立った。それと同時に──、二人でいるところを見ただけで苛ついた自分にも。
翌日、五時間目のあとの学活から本格的な準備が始まった。看板係と衣装係、小道具係は買ってきた素材を使って制作する。そして役者のメンバーは演技の練習のために、別の教室に移動させられた。
主役の二人の他に小人の七人、魔女、家来、森の動物役がいる。こうやって集まると結構な人数だ。
「じゃあ台本見ながら、一回みんなで読んでみる?」
「だねー」
俺が任された役はセリフがない。が、台本にはこういう動きをするという細かな指示が書いてある。
最初は動きなしで、読むだけ。だからぼーっとしている間にすぐ終わった。何度かそれを繰り返したあと、ついに動いてみることになった。
白雪姫と小人の会話を聞きながら、とりあえず台本通りに動く。
「家がない? 大変だ」
「ここから追い出そう」
「そんなのダメだよ」
ぶっきらぼうなみんなの話し方に思わず笑いそうになった。恥ずかしいのか、感情がまるでこもってない。でもまあ気持ちは分かる。いくらクラスメイトとはいっても、人の前で演技をするのはかなり勇気がいることだ。
毒リンゴを齧って倒れた小鳥遊さんの周りに、小人が駆け寄って体を揺すった。
「白雪姫、起きてよ!」
目を覚まさない姫を前に小人は泣き崩れる。俺の役は、よりによって白川に抱きつかなきゃいけなかった。仕方なく胸に顔を埋めると、背中をポンポン叩かれる。まるで茶番だ。
王子様役の岩井が奥からゆっくり歩いてくる。
「なんと美しい女性なんだ。君に愛を捧げよう」
白川の胸から離れて台本を見る。そこに書いてあった言葉に、はっとした。
『王子様が白雪姫にキスをする』
そういえば白雪姫といったら、このキスがメインみたいなものだ。これを今から本当にやるのかと岩井を凝視していたら、小鳥遊さんに少し顔を近づけて、キスをするふりで終わった。
「白雪姫が生き返ったぞ!」
「やったあ」
関西弁じゃない岩井の、くさいセリフが面白かったとか、顔がいいとはいえこんな短髪の王子様がいるかよとか、そんなくだらないことはどうだっていい。
(これ本番は……本当にすんのかな)
岩井が小鳥遊さんの体に触れてキスをしようとしたとき、見たくないと思った。喉の奥になにか詰まったような違和感。もし本番で本当にキスしたら──?
「岩井、まじでキスしちゃえよ!」
「は? するわけないやん」
「もーやめてよ男子」
小鳥遊さんの満更でもなさそうな顔に、また苛立ちを覚える。本当はキスしてほしいとか思ってるんじゃないのか。
「そうだよ、岩井には一ノ瀬がいるんだから~」
「え、なんで一ノ瀬?」
「岩井が好きなんだって」
「まじ? すごいね」
ああもう、なんでこうなる。
女子から刺さる視線に耐えきれず俯く。すると、隣にいた白川がなぜか背中を優しくさすってきた。
「大丈夫?」
「……お前が言うなよ」
「そ、それはそうなんだけど」
「じゃあ一ノ瀬が白雪姫やればいーじゃん」
「え~男だよ?」
女子の甲高い声がまた響いた。「男だよ」という当たり前の、何の意図も含んでない言葉に胸がぎゅっと苦しくなって、唇に歯を立てる。
男だから白雪姫はできない。みんなの中で共通した認識。それを改めて突き付けられるのは、気分が良くなかった。別にやりたくもないけど──というのは、言い訳に聞こえてしまうだろうか。
「まあ配役もう決めてるんだし、練習しようよ」
小鳥遊さんの一声で、また最初の配置に戻ることになった。教室の隅にいる岩井を見る。
(……あ)
目が合った。なにを考えているのかよく分からない顔で、その瞳はじっと俺だけを捉えている。胸がざわついた。そんな風に見るなと言ってやりたい。
教室に戻る途中、小人と家来役の数人の女子に囲まれた。
「ねえ一ノ瀬、まだ岩井と付き合ってないよね?」
「そうだけど」
肌が嫌な雰囲気を感じ取り、九月だというのに寒気がした。岩井との関係を深堀りされたくない。
「付き合わないの~?」
「え……っと」
なんて言おう。さすがにこの人数相手に、本当のことを伝えるのはまずい。どうやって誤魔化す?
「てか一ノ瀬は岩井のこと好きなの?」
「……まだ好きとか……、そういうんじゃない」
「そっか。よかったあ」
「教室もどろーよ」
「あ、一ノ瀬ごめんね?」
どっと疲れた。重い体を引き摺るようにしてなんとか教室に戻ると、先ほどの女子達が今度は岩井を取り囲んでいた。
(しくった……あんなこと言わなきゃよかった)
もしかしたら、俺が言ったことをあいつに話しているのかもしれない。変な汗が出てくる。
教室の隅で女子と話す岩井を視界に入れたくなくて、机に顔を伏せた。
今日はろくに岩井と話せずに終わってしまった。休み時間も小テストの勉強で手一杯だったし、昼飯も食べるグループが違う。なんやかんや、いつもはあいつが隙間の時間を使って話しに来てくれるが──今日はそれがなかった。
夏休み中に会いすぎたせいで、きっと感覚が狂った。たった一日ちゃんと話す時間がないだけで気になってしまうなんて。
「一ノ瀬!」
自転車をゆったり漕いでいたら、後ろから岩井の声がして振り返る。どうやら追いかけてきてくれたらしい。それだけで頬がじわじわ上がるのが自分でも分かって、単純な脳みそに嫌気が差した。
「おう」
「今日の練習どうやった?」
「どうって、別に……」
「白川に抱きついてたな」
「台本に書いてあったじゃん。それやっただけだし」
「羨ましいな……俺も小人ならよかった」
「他に王子様できる男がいないだろ」
普段ならここで喜んで冗談でも言うはずなのに、なぜか岩井は押し黙った。暗い表情のまま顔を上げる。
「あのさ、ちょっと話したいことあってん」
「え、なに」
「さっき……女子から、『一ノ瀬は岩井のこと好きじゃないって言ってた』って聞いたんやけど……ほんまに?」
「あー……っと、それは」
やっぱりさっき話していたのはそれだったのか。
はあと溜め息を吐く前に、岩井が眉を寄せて低い声を出した。
「直接言われるのはええねんけど、他のヤツからそんなこと聞きたなかったわ。結構……ダメージでかい」
「い、いやでも」
どう考えてもあれは仕方なかっただろう。あそこで好きだと言ったら学校中にゲイカップルだと噂が広まるし、そもそも好きになったかどうかなんて、まだはっきり分からないのに──。
「すまん……俺、先帰るわ」
「え?」
そう言って岩井はさっさと自転車を漕いで行ってしまった。呼び止めても振り返ってすらくれなかったことが衝撃で、ペダルを踏む足に力が入らない。
「あれ、一ノ瀬?」
いきなり先輩が横からにゅっと現れて、肩が飛び跳ねる。会うのはあの花火大会以来だ。久々に顔を見られたが、気分はまったく晴れない。
「川村先輩……お疲れさまです」
「どうしたの。なんか落ち込んでる?」
「い、いえ。大丈夫……だと思います」
先輩が隣にいるというのに、岩井のことで頭がいっぱいだ。あいつの言葉をぐるぐる反芻していたとき、ふと気が付いた。
──そういえば、今日は好きって言われてない。
聞き飽きるほど毎日のように、「好き」と言われてきたのに。なんで今日に限って言わなかった?
「本当に大丈夫?」
「はい……すみません。帰ります」
「あっ、気をつけてね……」
本当は、時間があったら岩井と話がしたかった。白川から告白されたことを伝えるつもりだった。それを断ったということも一緒に。
(……でも、伝えてどうする? なんで岩井に伝えたいって思ったんだろ)
もう訳が分からない。感情が乱れっぱなしで、ぐちゃぐちゃだ。
「先帰んなよバカ」
岩井に向けたひとりごとは、虚しく風にかき消された。


