リビングでテレビを観ていたら、支度を終えたらしい母親が部屋から出てきた。

「悠真、横浜行くけど一緒に行く?」

 俺の両親は仲が良い。口数が少ない父と反対に、社交的で明るい母は怒ると恐ろしい。それ故、家庭内の序列は彼女が一番高い。だから喧嘩してるところを滅多に見ない。
 父さんは家でダラダラするのが好きだが、買い物が大好きな母さんに連れられて、毎週のように休みの日は二人で出掛けている。

「んーいいや」

「今日はどこも行かないの」

「まだ分かんない」

「最近よく出掛けてるけど、彼女とかできた?」

 テレビから目を逸らしてスマホを握る。嫌な予感がして、立ち上がりながら「いや……」と曖昧に返事をした。

「できたら紹介してね。益田さんの娘さんも、高校の頃から付き合ってきた人と結婚したんだって」

 次に言われるであろう言葉が容易く頭に浮かぶ。スマホを握っている指にぎゅっと力が籠もった。
 言われたくない。お願いだから言わないでくれ。

「悠真もそうなるといいね。早く孫の顔みたいわ~! 岸田さんちも最近産まれたから見せてもらったの。可愛かったあ」

「……俺、まだ高校生だよ」

「そっかそっか」

 一気に重くなった胃を押さえながら部屋に戻る。せっかく入れた炭酸も飲む気が失せた。コップを机の奥にずらして、頭を伏せる。

 あの時間が心底嫌いだ。母さんが意識もせずに俺に投げる言葉はいつも心に刺さる。それは小さな棘となって、違和感としていつまでも残っている。 
 ちくちくちくちく。思い出したようにふと棘が心を刺す。
 彼女できた? 早く孫の顔が見たいな。
 叶えてやれそうにないことを言われるたび、どうしたらいいのだろうと泣き出してしまいたくなる。自分だって他の人と同じように、彼女を作って普通に結婚したかった。余計な悩みを抱えたくなかった。

「いつまで続くんだろ」

 歳を重ねるごとに、言葉が重りとなって伸し掛かってきたりするのだろうか。想像したくもない。
 同性が好きだと自認したときから、親に言うつもりはない。失望させると分かりきってる。だったらまだ、恋愛に興味ないと思われたままでいい。
 親の愛情がどうのというのは綺麗事だ。人は望んでいるものが得られないと分かった途端、どんな理由でもがっかりする。だから必ずしもカミングアウトするのが正解とは限らない。

 ──岩井だったら、こんなときなんて言うだろう。意外に真面目で誠実な男だから、茶化すんじゃなくて正面から向き合うかもしれない。クラスメイトに馬鹿にされたときもそうだった。
 あいつはいつもちゃんと人と向き合って、自分の気持ちに嘘をつかない。

「今なにしてんのかな……」

 無性に岩井に会いたくなった。くだらない冗談や会話、そして俺のことが好きなんだとわかる直球の愛情表現。今はただそれが欲しい。
 試しにメッセージで「今日、家行ったらだめ?」と送ってみたら、一分も絶たずに「来て!!!」と返事がきた。思わずふっと口角が上がる。
 花火大会の日から、岩井とは何度も二人で遊んだ。いつも遊ぶ友達を誘おうと思っていた場所に先に誘われて、プールも美術館もあいつと行った。数ヶ月前の自分は、まさか遊ぶ仲になってるとは想像すらしてなかっただろう。

 さっと着替えて自転車を走らせる。送ってもらった地図で計算したら、岩井の家まで約三十分。やや遠いが、電車に乗るのは勿体ない気がした。
(そういえば……岩井が好きって言ってた漫画の新刊、今日発売だっけ?)
 どうせ駅の近くを通るし、ついでに本屋で買ってから行くのもいいかもしれない。そう思い立って駅前に自転車を停めた。

「げっ」

 本屋に入ろうとした足を咄嗟に止める。入ってすぐの漫画コーナーにクラスメイトがいたからだ。
 顔見知り程度どころか、嫌いな人。あいつは前に岩井のことを「男好きなのかよ~キショ」と笑っていた。あれからなんとなく苦手意識があって、クラスでも関わらないようにしてきたのに。

「な~この四巻ってお前の家にあったっけ?」

「その漫画持ってねぇよそもそも」

 隣にいるのは友達みたいだ。そのまま二人で話していてくれと願いつつ、なるべく静かに店内に入る。
 俯きながら目的の漫画を掴む。顔を合わせないようにレジに行こうとしたが、振り返った瞬間に目が合ってしまった。
(最悪……)
 あっという顔をされたから、恐らく向こうも俺に気づいたのだと思う。でもお互いに挨拶することはなく、俺も無視してさっさと漫画を買った。
 駐輪場に戻ったあと、急いで自転車を漕いだ。むわっと噎せ返りそうなほど暑苦しい空気の中をひたすら進んでいく。途中で咳が出た。
 胸にかかった靄がずっと消えなくて、気持ち悪い。
 早く岩井に会いたい。なんでもいい。くだらない冗談を言っていつもみたいに笑わせてくれ。

 逸る気持ちでアパートの階段を駆け上がり、インターホンを押す。数秒も待たずして、玄関のドアから岩井が顔を出した。

「一ノ瀬! はよ入って」

「……ん」

「なにで来たん?」

「自転車だけど」

「チャリ!? こんな外暑いのに……あっアイス持ってくるわ!」

 台所に走って行った岩井を見ながら、そっと胸を撫で下ろす。ここまで果てしなく長い道のりに感じた。
 案内された岩井の部屋は、まさにイメージ通りだった。漫画にプラモデル。そしてゲームもぱっと見で分かるほどたくさんある。子どもっぽさ全開の部屋。俺の理想とはほど遠い──が、妙に落ち着く。 ここにいれば攻撃されないという安心感だろうか。まさに求めていたものだ。
 ダダダッと音を立てて戻ってきた岩井に、棒アイスを差し出される。そんな慌てなくてもいいのに。

「すまん、安いアイスしかなかった」

「いいよ。ありがと」

 岩井の手にはアイスがない。単に食べたくないのか、それとも最後の一本を譲ってくれたとか?

「それで……どしたん、今日は」

「いやー別に」

「なんかあったって顔しとるけど?」

 意外と鋭い。まさか見抜かれてしまうとは思ってなかった。でも、せっかくここに来たのに、話してまた嫌な気持ちをぶり返したくない。ただ岩井に会いたかった。それだけだ。

「……普通に遊びたくなって」

「俺と!?」

「うん」

「えええ珍しい……てか初めてやん、一ノ瀬が誘ってくれんの」

「そうだっけ。あ、お前が好きな漫画買ってきた」

「えーっ!」

 鞄から出した瞬間、岩井がアホっぽい顔で叫んだ。そんなに喜ぶことかと思うほど笑顔で受け取られる。我慢して買ってきてよかった。

「好きな漫画覚えててくれたん?」

「そりゃあ、何回も話されたし」

「ありがとう……めっちゃ好きや」

 アイスを齧っていたのに、いきなり正面から抱きつかれて「おわっ」と変な声が出た。
 ぐりぐり頭を擦り付けてくるのがまるで大型犬みたいだなと思っていたら、岩井がふいに動きを止めた。

「……ん?」

「なに、てかアイス食べたいんだけど」

「え、ほんまに一ノ瀬やんな?」

「は?」

「だって、いつもみたいに怒らんから」

「怒ってほしいの?」

「ち、ちゃうって! 珍しいなと思ってん」

 たしかに岩井の言う通り、いつもなら抵抗していたかもしれない。でもそうしなかったのは、思いのほか心地よいと感じたからだ。
 ぎゅっと腕に籠もった力加減も、匂いも、体温も、なんか──結構いい。

「……好きになれるように、努力するって言ったじゃん」

「あ……そっか。それ覚えててくれたんや」

「アイス溶ける」

「ご、ごめんて」

 アイスを食べている間も、食べ終わったあとも岩井はずっと喋っていた。
 好きな漫画が映画になったから観に行こう。一ノ瀬の絵描いたから見て。内容はそんな感じだった気がする。うんうんと相槌を打っているうちに、なんだか眠くなってきた。

「なあ、また一ノ瀬の裸見たいからプール行こ」

「へんたい」

「……なんか眠そうやな?」

「うん……」

 頷くと、岩井は胡座をかいていた足を崩して真っ直ぐに伸ばした。太腿をとんとん叩き、「俺の膝で寝てええよ」と冗談っぽく言われる。
 あまりにも眠すぎて、大人しく横になって足の上に頭を乗せた。もう瞼を開けていられない。

「ま、まじで寝るん?」

「ふはっ、硬いな」

 枕にしては硬いと言ったつもりなのに、情けない声が上から振ってくる。

「もーえろいこと言わんといてよ……」

 お前の思考がえろいんだろ。言おうとした言葉は、暗闇に吸い込まれていった。

 夢の中にも岩井は出てきた。寝ても覚めても、俺の頭から離れてくれないらしい。
 ──入学式のときに見かけて……一目惚れやった。
 この記憶はいつのものだろう?
 岩井は俺に一目惚れしたと言っていた。だけど、中身が大したことないと知られてしまったら、好きじゃなくなってしまうんだろうか。一方的にスキスキ言ってつきまとってきたんだから、そんなの許さない。俺が好きになるまで責任持てよ──。

 頭にわずかな振動を感じて、ふっと目が覚めた。重い瞼を持ち上げると、尖った顎と鼻が真っ先に視界に入る。
 こんな角度から見ても岩井の顔は綺麗だ。まだ高校二年生なのに、すでに完成されたように見えるけど、大人になったら更に味が出て格好良くなったりするのか?
 眠っている間、俺が買った漫画を読んでいたようだ。ぼーっとその顔を眺めていたら、不意に本の隙間から岩井が視線を落とした。

「あ、起きた?」

「ごめん寝ちゃって」

「全然。寝顔めっちゃ可愛かったし」

「……変なことしてないよな?」

「……し、してへんと……思う」

「なんだその間は。絶対したじゃん」

「へ、変なことやないし」

 ちらっと唇を見られる。妙な雰囲気が漂っている気がして、慌てて体を起こした。

「まさかキスした?」

「そんなんせぇへんよ! 許可もろてないのに」

「この前は許可なくしたくせに」

「そ、それは……そうなんやけど」

 岩井は嘘がつけないから、否定してるのであれば本当にしてないんだろうと分かる。どこかを触られた可能性は充分考えられるが。

「まあいいや。それより、なんか飲み物もらえない? 買ってくるの忘れちゃって」

「ええよ~水かお茶か、あとリンゴジュース」

「じゃあ水飲みたい」

「おけ、持ってくる──いてっ!」

 岩井が立ち上がるのと同時に素っ頓狂な声をあげた。なんだと思う前に、体が覆いかぶさってくる。

「えっ」

 ──ゴンッ。
 驚く間もなく後ろに倒された。咄嗟に肘をついたおかげで頭はぶつけなかったものの、絨毯が敷いてあるのに、なかなか大きい音が鳴った。

「す、すまんっ。足が痺れて……一ノ瀬、どっかぶつけた? 怪我しとらん!?」

「いてて……いや、多分だいじょ……」

 体を起こそうとしたら、すぐ近くに岩井の顔があることに気づいてピタリと動きを止める。あと少し動いたら唇が触れそうなほどの距離だった。
 客観的に見ると、まるで押し倒されているかのような状況。だが戸惑っているのは俺だけじゃない。
 かあっと目元を赤く染めた岩井が、瞬きもせずに見つめてくる。それはもう、穴が開きそうなほど。
(え、これって……キスされる感じ?)
 普段とは違う空気に、思わず目を閉じた。熱を含んだ視線に耐えられなくなったからかもしれない。

「なんかえらい音したけど──って、何しとんの?」

 岩井じゃない声が聞こえた。ぼやける視界の中、部屋の入り口あたりに知らない男の人が立っているのが見えた。

「兄ちゃん、勝手に開けんといてよ!」

「にいちゃん……?」

「デカい音したから心配しただけやん。まさかエッチなことしてるとは思わんかったし」

「し、してないですそんなの!」

 聞き捨てならない言葉に、強く体を押し返す。岩井が名残惜しそうに離れていった。
 兄弟がいるなんて、一度も聞いたことがなかった。会話にも出たことがない。いるならいるって、事前に言ってくれればよかったのに。
 挨拶をしなければ……と立ち上がって男の人に近づいた瞬間、バッと勢いよく両手を握られた。

「もしかして、イチノセくんやな!?」

「え……あ、はあ」

「こいつからよう聞いとるで。ベタ惚れしとるんやってなあ」

「は?」

 まさかお兄さんにまで俺のことを話したのか。
 余計なこと言ってないだろうなという意味を込めて岩井を睨む。すると突然、「兄ちゃんもうやめてや」と慌て出した。

「えらいキレイな子がおるって聞いとったけど、ほんまやな……あ、ごめんなさい。俺こいつの兄貴です」

「え……っと、い、一ノ瀬です」

「よろしく頼むわ。遼はガキっぽいけど、結構優しいとこあるヤツなんよ。やから嫌わんでほしい」

「はい、まあ嫌ってはないですが……」

 言いながら男の顔を観察した。岩井の兄というだけあって、目を見張るほど顔が整っている。肌はあいつと同じく健康的に焼けた小麦色。特徴的なのは、その色気だ。声なのか雰囲気なのか分からないけど、なんだか色っぽい。岩井をもっと大人にして色気を足したような人だと思った。
 ──岩井も成長したらこんな風になるんだろうか。性格は変わらず、色気とかが増したりして?

「遼と付き合ってる?」

「あ、いえ、俺は」

「兄ちゃん……もうええやろ! 頼むよ~」

「はいはい。すまんな、キスするところ邪魔してもうて」

「ほんまや、あとちょっとでチューできたのに。タイミング悪すぎるやろうが」

「せやから謝っとるやん」

 岩井の、珍しく雑な対応を見るのはちょっと楽しい。言葉遣いが荒いというわけではないけど、まったく気を遣ってないのがわかる。家族の前だと素が出るのは自分も同じだ。

「じゃ、俺は出掛けてくるわ」

「てかなんでおんねん……」

「今日土曜やんけ。寝ぼけてんのか? あ、もうすぐ親帰ってくると思うから気いつけてな」

「も、もうはよ行って!」

 お兄さんが微笑みながら手をゆるっと振った。

「イチノセくん、またね」

「あ……はい」

 夕立が去ったあとのような静かな空気を破るように、岩井は急いで水の入ったコップを持って来てくれた。でもなんとなく気まずいのは──、キスが未遂で終わったからだろうか。

「お兄さん格好よかったな……仲良いの?」

「……紹介せんよ!?」

「い、いやそんなつもりじゃ」

「いいや。さっき一ノ瀬の顔がほわ~んってなってんの見ました!」

「そんな顔してねぇよ。ただ、イケメンだしなんか色っぽかったなと思って……」

「なんやねんそれ、年上に弱すぎるやろおっ」

 大げさに膝なんか抱えちゃって、泣き真似するなよ。と顔を覗き込んだら、目元が濡れていてぎょっとした。まさか本当に泣いているとは。

「お前よく泣くよな」

「ふん、カッコ悪いって言いたいんやろ。わかっとるよ自分でも」

「いや。なんか感情剥き出しの猿みたいで可愛い」

「……号泣してええか?」

「可愛いって言ってんのに」

「喜べるわけないやん。猿やで」

 体育座りのまま、手の甲で目をごしごし拭った岩井が、らしくない小声で呟く。

「一ノ瀬にカッコイイって言われたことないし……」

 そう言われてみればそうかもしれない。
 容姿だけ見たらかなり好みだが、それをこいつに伝えたことはなかった。でもそんな恥ずかしいこと──、どうやって本人に言えばいいんだよ。

「……っと……か、顔はまあまあ良いと思うけど」

「え!?」
 
「でも子どもっぽいから」

「褒めてから落とすタイプかあっ」

「まあ、そのままでいいよ。お前は」

 数ヶ月前までは毛嫌いしていた子どもっぽい態度も、くだらない冗談も、喜怒哀楽の感情表現がはっきりしてるのも、今は嫌いじゃない。

「やけど、一ノ瀬は大人っぽい人がタイプなんやろ。俺がもしそうやったら……好きになってくれてたんかな」

 ずっとそれ考えてんねん。と、岩井が歯を食いしばりながら言う。

「中身が変わったら意味ないだろ」

 今日ここに来たのも、こいつがこの性格だからだ。

「そやけど……あー、はよ大人になって一ノ瀬のことメロメロにさせたいな」

「ふはっ! 大人になったらできんの?」

「なんで笑うねん。できるやろメロッメロに」

「はいはい」

 ひとしきり笑ったあと、岩井がスマホを見て「もうすぐ親帰ってくるって」と唇を尖らせた。なにもまずいことはないが、二人きりの状態じゃなくなるのが残念だと思ってるんだろうか。
(結局、キスはしないのかな)
 好きになれるように努力すると言った手前、なにか自分から行動したい。が、「キスする?」と聞くのは恥ずかしいし、「キスしよう」とも言えない。
 うじうじと悩んだ挙句に絞り出したのは、

「……さっきの続きはしないの」

 という、ずるい言葉だった。
 なのに岩井はパッと顔を上げて、笑ってしまうほど頬を赤くした。

「え、そ、それって……ええの!?」

「うん」

「いや、でも、好きになれるように頑張ってくれるのは嬉しい……けど、そんな無理にキスするんはさすがに……」

 言葉を遮るように唇を合わせる。
 この前キスされたときは突然だったから覚えてないけど、ふにゅっと柔らかくてびっくりした。なにをどうしたらいいか分からず、とりあえずかぷっと下唇を甘噛みしてみる。

「っ!」

 びくんと岩井の体が跳ねた。
 変なことをしてしまったのかもと不安になって体を離したら、潤んだ瞳と目が合った。これ以上ないくらい顔が真っ赤だ。

「り、遼?」

「あ……あかん、昇天しかけた」

「ほんと大げさだな」

「いやいやいや待って。一ノ瀬はドキドキせんかったの……?」

「まあ、ちょっとだけ」

「そ、そうかちょっとだけやったか、そっか」

 しゅんと肩を下げた岩井に見られないように背中を向ける。唇にそっと指を置くと、微かに震えているのが分かった。
 ちょっとだけなんて嘘だ。本当はもっとやばかった。唇が触れただけのキスで、心臓がバクバクして怖い。
 俺は少し前まで泣くほど先輩のことが好きだったのに──、なんで岩井とキスしてこんなことになってるんだろう?