明日から、ついに夏休みが始まる。期間は約一ヶ月間。美術部は特に活動がないし、宿題を前半のうちに終わらせておけばあとは自由に遊べる。

「はーい。じゃあ夏休みの過ごし方について注意点伝えるから、ちゃんと聞いておけよ。まず、危険な場所に行かないこと! そして夜遅くまで遊ばないこと」

「先生~夜遅くって何時ですか?」

「十一時以降はダメ!」

「えー早すぎなんだけど」

「え~じゃねぇよ。補導されるのお前らだからな」

「はーい」

「あと宿題もちゃんとやって。それから──」

 担任の話を聞き流しつつ、頬杖をついて窓の外を見る。
 誰もいないグラウンド。サッカーゴールの横には、ボールがひとつ転がっている。通常は倉庫に入れておかなければならないのに、誰かが使ったあと片付けなかったようだ。
(……夏休み中、岩井はサッカー部の練習あんのかな)
 最初に告白された日から今日までずっと、毎日欠かさず岩井は俺に告白し続けてきた。どんなに接点がない日であっても、必ず。けど、夏休みが始まったらどうするつもりなんだろう?
 連絡先は知らないし、まだ遊びに行くような仲でもない。となると告白しようにもできないはず。
(別に俺はそれでいいけど……全然)
 夏休みに入ったら美術館に行こう。それからプール、音楽フェス、できれば海にも行きたい。いつも遊んでいる友達と一緒に。
 別に岩井が部活でも遊びでも何をしていようが、まったく関係ない。──そう、俺には関係ないんだ。と思いつつも、やっぱりなんか気になる。
(一回くらいは誘ってやるか? あいつ、遠慮して誘わないとか逆にありそうだし。いや別にそれはそれで、いいんだけど。誘われなかったとしても)
 くだらないことを考えている間に、ホームルームが終わった。男達が「よっしゃああ」と声にならない悲鳴を発しながら一斉に教室から出て行く。
 それを横目に机の中を整理していたら、ふっと目の前に影ができた。岩井だ。顔を見なくても分かるのは、わざわざ席まで来るのはこいつくらいしかいないから。
 
「いちのせ~、一緒に帰ろ?」

「部活は?」

「今日はないねん!」

「……遠慮しとく」

「そんなこと言わず、帰ろ~。そこのコンビニでアイス買うたるから」

「アイスか……じゃあ一番高いやつで」

「あっあの、棒アイス限定で奢るわ……」

「しょうがないな」

 正直、岩井と一緒に帰るのにも慣れてしまった。コンビニでサイダーやグミを買って、食いながら自転車を押して帰ったこともある。始まりこそ変だったが、いよいよ友達みたいな関係になってきた。

 コンビニの前に自転車を置いて、二人で中に入る。ぶわっと一気に冷気が体を包み込んだせいで鳥肌が立った。外との気温差が激しすぎる。

「一ノ瀬、どれがええ?」

 冷凍ケースの中には、端から端まで色んな種類のアイスが詰まっている。本当に奢ってくれるつもりなら、安いのを選ばないといけない。
 どうしようかと悩んでいたら、岩井が思いついたように口を開いた。

「キスさせてくれるなら、この中でいっちゃん高いアイス買ったる。どう!?」

「どう? じゃねぇよ。するかバカ」

「えーでもでも、百円のやつより絶対美味いで。チューするだけで三百円のアイスって考えたら、安ない?」

「安いとかの問題じゃないだろ。てかなんでキスなんだよ」

「え、したいやん」

「お前な……」

 たしかにこの中で一番好きなのは、三百円もする高級なアイスだ。棒アイスなんかより遥かに食べたい。でも、自分に片思いしてる男に軽々しくキスなんてしていいものなんだろうか。
(いや……別に、キスくらい大したことないか。それに唇とは言われてないし)

「やっぱあかんか~」

「いいよ、しても」

「え!? ほんまに?」

「唇以外でいいなら」

「く……くううう。そうきたか……」

 悔しそうな顔で岩井が唇を噛んだ。

「嫌なら棒アイスでいい」

「イ、イヤなわけないやん。一ノ瀬とチューできるならどこでもええわ」

「じゃあこのカップのやつ、買って?」

「うわっ、今の買って? って言い方めっちゃかわええなあ……もう一回聞きたい」

「早く買えよ」

「うん。その言い方も好きやで」

「もーまじで店の迷惑になるから」 

 こいつは簡単にスキスキ言い過ぎだ。そのせいで言葉に重みが感じられない。たまに、どこまで本気で言ってるのか分からなくなる。

 さすがに自転車を押しながらカップアイスは食べられないからと、近くの土手に来た。昨日の雨のせいで芝生が濡れている。制服は帰ったら洗うとはいえ、さすがに気持ち悪い。
 少し悩んだ結果、階段の端に二人で寄って座ることにした。

「岩井、アイスありがと」

「ええよ。てかなんで名前呼びしてくれへんの?」

「……忘れてた。いただきます」

 アイス奢ってもらったし、今日から遼って呼んであげよう。そう決めてアイスの蓋を開ける。炎天下の中で持ち歩いたせいで、すでに側面を押すとふにふに柔らかい。早く食べなければ。
 慌ててスプーンで口に運んだ俺と同様に、隣に座っている男も必死で棒アイスを舐めている。

「なんか、今年のセミ静かやない?」

「たしかに。地球温暖化で少なくなったのかな」

「え、暑すぎて土の外に出られんってこと?」

「知らないけど」

「せっかくやから、地球を謳歌してほしいよな」

「蝉にそんな感情抱いたことない」

「俺はわりとセミに寄り添えるタイプの人間やねん」

「なんで蝉に寄り添うんだよ」

 溶けるのが速かったせいで、アイスをあっという間に食べ終わってしまった。なんだか勿体ない。これなら棒アイスにすればよかった。
 少し後悔しつつ、両手を階段について天を仰いでいる岩井を盗み見る。暑いからと開けた第二ボタンの隙間から、透明な汗がすっと垂れ落ちるのがわかった。よっぽど暑いのか、こめかみから伝った汗が首まで走っている。
 思わず唇を舐めた。こうして喋らないでいると、やっぱり岩井はかっこいいというのを痛感させられる。顔だけ見たら本当に好みだ。暑さで眉間に皺が寄った顔も、アイスを食べて赤くなった唇も、首に滴る汗も。ぜんぶいい。

「……ん?」

 思わず見惚れていたら、急に岩井がこちらを見た。咄嗟に目を逸らすことができなかったせいで、微妙な空気の中で見つめ合う羽目になった。
 突然、瞼を閉じた岩井がふっと動いた。キス顔のまま近づかれる。

「ち、ちょっとなに」

 唇にはしないと言ったはずだ。急いで口に手を当てて制止する。

「あっ、すまん。めっちゃ可愛い顔しとったから、つい……」

「なんだよそれ」

 岩井の汗に見惚れていた顔が可愛かっただと?
 そう言われたら急に恥ずかしくなってくる。しかも汗に見惚れるって、よく考えたら気持ち悪い。

「やけど、約束のキスはいつしてくれるん?」

「……する。すればいいんだろ」

「唇がよかったけどなあ」

 そう言って、目の前の男がきゅっとまた目を閉じた。
 どこにキスしようか考えつつ、周りを用心深く見渡す。いくら人が少ない場所とはいえ、ランニングしてる人がたまに階段上の道を通る。見られないようにしなければ。

「はよしてや」

「う、うるさいな、わかってるって」

 手か頬か、おでこ。どこが一番気持ち悪くないかぐるぐる考えているうちに、また催促された。手ならすぐにできるが、さすがに文句を言われそうだ。おでこにキスは客観的に見てキモい。となると、頬しか残ってない。

「一ノ瀬、まだ──っ」

 顎に手を添えて、頬に唇を押し当てようとした瞬間。なんとタイミングが悪いことか、岩井が目を開けて顔をこちらに向けてきた。そのせいで、頬というより、唇の端にむにゅっと当たってしまった。

「あ……おい、急に動くから……」

 岩井が口を開けて固まった。そして、蜂蜜色の肌がぶわっと一気に赤みを帯びる。

「おい、遼?」

「あああ今の唇やったよな!?」

「いや俺はほっぺにしたのに」

「あかん、ドキドキしすぎて倒れそう……」

「熱中症じゃね? 大丈夫かよ。水は?」

「待って心臓触って」

 手を握られて、胸の真ん中に押し当てられる。岩井の言葉通りドッドッドッドッとあり得ないほど心臓が速くなっていて、思わず吹き出した。

「ふはっ、まじじゃん」

(こんなんでドキドキするなんて、可愛いな。どんだけ俺のこと好きなんだよ?)
 今まで片思いで翻弄されるばかりで、自分に振り回される人に出会ったことがなかった。一挙一動に反応してくれる相手がいるのは、なかなか気分がいい。

「なあ一ノ瀬。ライン教えてくれへん?」

「……なんで?」

「そら、夏休みやから。愛の告白が途切れるんイヤやし、遊びに誘いたいし」

「ラインでも告白するつもりなのかよ」

「うん。一ヶ月も会えへんとかムリ……」

「大袈裟だな。まあ……いいよ」

「よっしゃあ! 毎日連絡するわ」

「すんな」

 冗談じゃなく、毎日メッセージで「好きやで」と連絡してくるのが容易に想像できる。そのうち断るレパートリーもなくなりそうだなと思いながら、連絡先を教えてやった。


 あれからというもの──、岩井は宣言通り、毎日欠かさず「好きやで」と送ってくる。それに加えて、「昼なに食ったん?」「今日は部活で練習試合したよ」など、くだらないメッセージの通知が鳴りやまない。つくづく健気な男だと思う。
 じっとり汗を含んだ寝間着を洗濯カゴに入れ、まだ夕方だというのにシャワーを浴びた。これだから夏は嫌だ。たかが数時間、クーラーをつけ忘れて宿題に集中しただけで、マラソンを走ったみたいに汗をかく。
 アイスでも食おうかな……と冷凍庫を開けようとしたとき、スマホの着信音が鳴った。画面にはいつものように『遼』の名前が表示されているが、今回はメッセージじゃなくて電話だ。なんとなく緊張しながら通話のボタンを押す。

「なんだよ」

「あっ、一ノ瀬。今日の夜、空いてへん? もし暇やったら……花火大会に行きたいねんけど。一緒に」

「花火大会? どこでやってんの」

「熊谷っちゅうとこ。埼玉」

「どこそれ。調べてみる」

 一旦スマホを耳から離して、場所を検索する。埼玉だとかなり遠いかと思ったが、意外に一時間程度で行ける距離だった。

「屋台もよう出るって。チョコバナナとか焼きそばとか食べたない?」

「それは食べたいけど……」

 ただ断るにしても理由が特に見つからない。花火も屋台も、夏の特別なイベント感があって割と好きだ。でもそういうのは、恋人とか好きな人と行くのが一般的なんじゃ──と考えたところで、そういえばその相手が自分であることを思い出した。
 返事が遅かったせいか不安を感じたらしい。岩井が懸命に屋台の魅力を語ったあと、絞り出したような声で言った。

「もう、先輩のこと誘ってもうた?」

「えっ」

「……先輩と行きたいんやろ、花火大会」

 言われて、はっとする。そういえば、夏休みに入ってから毎日こいつとメッセージのやり取りをしていたせいで、先輩のことを考える暇がなかった。花火大会も今初めて開催の予定を知ったし、誘う誘わない以前の問題だ。

「あ、えっと」

 ──先輩を誘う? これから連絡して、花火大会いきませんかって?
 あまり現実的じゃない考えに首をひねった。別に岩井と行ってもいいような気がする。が、いいよと言う前に「やっぱ忘れて」と通話を切られそうになって、慌てて引き留めた。

「行く。行ける、遼と」

「ほんま!? よっしゃ、駅まで迎え行くわ」

 岩井は俺が断ると思っていたのだろう。明らかに嬉しそうなのが電話越しにも伝わってきて、笑いそうになった。五時半に駅に行くと伝えて通話を終える。
 せっかくシャワーを浴びたのにまた汗をかくのは嫌だが、夏休みに入ってからほとんど出掛けていないし、ちょうどいい。

 服を着替えたり歯を磨いて準備していたら、あっという間に約束した時間になった。バスを降りて駅の改札に向かう。いつ来たのか、すでに岩井がそこで待っていた。目が合った途端にぶんぶん手を振られる。

「一ノ瀬!」

「おう。いつ来た?」

「今さっき」

「てか、迎え来なくてよかったのに」

 岩井の家は隣駅のほうが近かったはず。一駅とはいえ、わざわざ逆走して迎えに来てくれるとは。
 電車で落ち合うとか現地集合でもよかったのに。と付け加えると、一ノ瀬は分かってへんなあと溜め息をつかれた。

「迎え来ることに意味があんねん。俺はこの時間も一緒におりたいの。向こう着いてからやと、うるさくて会話できひんかもしれんし」

「……あっそう」

「ほな、行こか?」

「手繋がないよ」

 差し出された手を払い、改札の中に入る。
 本当によくもまあ、恥ずかしいことを平気で言える男だ。少しでも話したいからって迎えに来るとか、どんだけ必死なんだ?

 一時間ほど電車に揺られて着いた場所は、想像よりも大きな駅だった。新幹線も通っているようだし、人の通りが普段からある駅なのだろう。だが、花火大会の影響でひどく混雑している。気を付けなければ肩がぶつかってしまいそうだ。

「人混みやばいな」

「一ノ瀬、この近くに河川敷があんねんて。そこに屋台もあるって書いてあったし、とりあえず行こ」

「うん」

 岩井がマップを開いて「こっち」と誘導してくれた。はぐれないよう、なるべく後ろを離れずについていく。

 少し歩いたところに大きな広場のような場所があった。ここが河川敷だと分からないほど、人と屋台でぎゅうぎゅうに混み合っている。これじゃあ何か買っている間に花火が始まりそうだ。でも岩井の目的は屋台だし、それでもいいかもしれない。

「一ノ瀬はなに食べたい?」

「ん~フランクフルト?」

「そっ、それはあかんやろ!!!」

「いやなんでだよ」

「好きな男の前でなんてもん食うねん!」

「お前ほんと声デカいな……」

 この人混みの中でも通る声で、あまり変なことを言わないでほしい。少し離れて歩きたい気分になりながら、焼きそばとたこ焼き、お好み焼、それからソーダを二本買った。
 一度にまとめて買ったのは、人が多すぎるせいで食べ歩きができないと判断したからだ。ソーダを飲みながら彷徨い歩いているうちに、バンッと大きな音が鳴った。

「あー始まっちゃった」

 ほとんど真上に、巨大な火の花が開く。思ったよりも近く、迫力ある景色に思わず見惚れていたら、前を歩いていた岩井の背中に顔をぶつけた。

「いっ」

「うわっ」

 ぶつかったのは俺だけじゃなかったらしい。岩井が前にいる人に「すみません」と頭を下げたあと、後ろを向きながら俺にも謝った。
 こんなところじゃ花火は見られないし、ご飯も食べられない。とりあえず移動しなきゃだめだ。けど、一人で進んだら絶対にはぐれてしまう。
 ふと、岩井の手を見る。片方はさっき買った物を持っているが、左手は空いている。恋人でもないのに手を繋ぐなんて変だけど、暗いからきっと誰にもバレない。だからちょっとくらい──いいよな?

「遼、こっち」

「えっ?」

 岩井の手を掴んで、人が少ないほうへ引っ張る。

「この近くに公園あったよな。どこだっけ……」

「い、いちのっ、せっ」

 こうなるかもしれないと、電車の中で周辺の情報を調べておいた。たしか、この屋台のエリアを少し離れたところに公園があったはず。
 人が多すぎてよく周りが見えない。花火の明かりに照らされながら、人波の中を二人で進んでいく。

「……あ、あった」

 足がしんどくなってきた頃、ようやく広めの公園を見つけた。屋台からだいぶ離れたおかげで、さっきよりも人が少ない。これなら中でも座れそうだ。

「地面でいい?」

「えっ、あ、ああ~全然ええよ」

「なんでそんな挙動不審?」

 岩井が何か言いたげな顔で、ちらっと繋いでる手を見る。そういえばすっかり忘れていた。慌てて離したが、変な空気になってしまった。

「花火に見守られながら一ノ瀬に手繋いでもろてる時間、ほんま幸せやったわあ……」

「……うわ、買ったのもう冷めてる」

「ちょ、聞いて!?」

「早く食おうよ」

「さっきので胸いっぱいや」

「じゃあ俺が全部食っていいんだな?」

「いやいや食べます! ちょお待って!」

「あはっ」

 笑いが自然に込み上げた。腹から声を出して笑ったのは、いつぶりだろう。バンッバババンッと激しい花火の音が立て続けに響いているのに、なぜか声を張り上げなくても岩井の声が耳に入ってくる。

 買った物をすべて食べ終わった頃、ちょうど花火がフィナーレを迎えた。どの花火が一番好きとか、そんなこともたまに話したが、ほとんど無言で見入っていた。食べながら眺める。ただそれだけ。

「あちーな……」

「せやなあ。甘いモン買い忘れたし」

「あっ、チョコバナナ食べたかったのに」

「すまん……買うて来たろか? ちょっと歩けば屋台あったはずや」

「いや。帰り道で買うからいいよ」

 こいつと一緒にいると、すごい楽だ。喋らなくても別にいいし、変に緊張しないから素を出せるし、他の友達といるときのような気も遣わない。
 ──そういえば、先輩と一緒にいるときはいつも緊張していた。嫌われたくなくて猫をかぶって、当たり障りのない言葉を選ぶ。だから悪態をついたこともなければ、わがままを言って振り回したこともなかった。

「なあ……一ノ瀬」

「ん? てか花火、終わっちゃったな」

「うん。あのさ」

「なんだよ」

「……やっぱ、今でも先輩と来たかったって思う?」

 薄暗い公園の電灯の下、岩井の真剣な顔がこちらに向けられている。目を逸らしたらだめだ。なんとなく、そんな気がした。

「いや、そんなの思ってないけど」

 もし先輩と来ていたら、どうだっただろうか。屋台や座れる場所を徹底的に調べて、食べる物にも気を遣って、何を話したらいいかぐるぐる考えながら花火を見る。きっとそうなったはずだ。それがよかったとは、今となっては決して思えない。

「よかった~。もしかしたら、後悔してんとちゃうかって」

「それじゃお前に失礼すぎるだろ。代わりだとも思ってないし」

「……代わりにもなれないってこと?」

「え? や、そうじゃな──」

「そうやろなあ……正反対やもん、俺」

 俺の言葉を遮るように言った岩井は、なぜか肩を落としている。代わりになれないだなんて言ってないし、そんなことするつもりもないのに。
 どうやって慰めるか考えていたら、岩井がすっと立ち上がった。ゴミを片付け始める。

「チョコバナナ、買えたらええな」

「あ、うん……?」

 ぎこちない雰囲気のまま、来た道を戻る。
 もうお互いの手は遠い。離れないようにしなきゃと足を速めた瞬間、いきなり岩井が立ち止まった。化け物でも見たかのように目を見開いてるから、何事だと視線を辿ると、その先に先輩と彼女がいた。思わず自分も同じように足を止める。
 距離が近かったせいで、二人が俺たちに気づいてしまった。

「えっ、一ノ瀬と岩井くん?」

「先輩……」

「どうしてここに?」

「そ、それは俺が聞きたいです。なんで先輩が……」

「ああ、彼女の家がこの近くなんだ。ご両親に挨拶するついでに泊まらせてもらうことになってさ」

「そうなんですか」

 ──もう両親に挨拶するほど深い関係になっていたとは、知らなかった。

「この子たち誰?」

「部活の後輩だよ」

 女のほうと目が合った。一応、頭を下げておく。自分にとってはもはや見慣れた顔だが、この人は俺の存在すら知らなかったのだ。そう思った途端、胸のあたりにつかえていたものが、嘘みたいにすっとなくなった。
 俺と先輩の彼女は、同じ線上にすら立ってない。交わることもなければ、俺がその立場になることは絶対にない。今までずっと、勝手にひとりで足掻いていただけだった。
 ──でも、不思議と涙は溢れてこない。今までなら我慢できずにどこかに走って泣いていただろうけど、なぜだろうか。そうしたいとさえ思わないのは。

「二人は……デート?」

 俺たちを交互に見た先輩は、ふっと笑顔になった。口を開く前に、岩井にいきなり手を掴まれる。

「はい、デートです!」

「え、ちょっ、おい……っ」

「なんで二人きりにさせてもらいます!」

「す、すみません先輩」

「あはは、気をつけてね~」

 手をぎゅっと握られたまま、さっきまでいた公園に連れて行かれた。歩く足が速かったせいで途中で転びかけたし、お互い息も上がっている。

「おいっ、なんなんだよ?」

 岩井に呼びかけても、なぜか振り向いてくれない。何かを考えるように俯いたままだ。

「遼……離せってば」

 せめて手を離してもらおうと手前に引いたが、それすら許されなかった。逆に岩井のほうに強く引っ張られて、体勢が崩れる。

「あっ」

 このままでは岩井にぶつかってしまう──と咄嗟に目を瞑った瞬間、衝撃の代わりに唇になにかが触れた。ふにっとした柔らかい感触。目を見開くと、息が当たる距離に岩井の整った顔があった。

「え……」

 キスされた。俺は今、岩井にキスされたのか?
 混乱しているのはこっちのはずなのに、もっと取り乱した顔で岩井が俺の肩を掴む。

「もう一ノ瀬が傷つくの見たないねん」

「え、は?」

「先輩じゃなくて、俺を見てや。俺のこと……好きになってくれへん?」

 距離が近すぎて、岩井のビー玉みたいにきらきらした瞳に水の膜が張っているのがわかった。まるで息ができないときのように、眉がぎゅっと中央に寄っている。それを見たこっちまで胸が痛くなる。
 なんでこいつは、なんでこんなに俺のことが好きなんだろう。なんで、なんでだ?

「っ、俺は」

「一ノ瀬、ほんまに好き」

 この真っ直ぐすぎるほど一途な思いに、どうにかして応えてやりたいと思うのは、ただの同情か?
 それとも──岩井のことを好きになれる予兆なのか。どちらにせよ、受け入れてみたいと思った。

「……わかった。やってみる。お前のこと、好きになれるように」

「え……ええの?」

「振られてばっかなの可哀想だし」

「同情やんそれぇ……」

 冗談めかして言うと、ようやく岩井の顔が穏やかになった。やっぱりこっちのほうがいい。こいつに、苦しい表情は似合わない。

「過程より結果が大事って言うだろ」

「うん……まあ、せやな。結果出すためにもっと頑張るわ。告白の回数も増やすし」

「お前はもう頑張らなくていい! あと回数の問題じゃないから」

「やけど、そしたら一ノ瀬はなにしてくれるん? 好きになるために……」

「えっ」

 まさかそこを突かれると思ってなかった。たじろいだ俺に追い打ちをかけるように、「何もせんかったら好きにはなれんやろ?」と続けられる。
 たしかにその通りだ。今までこいつからのアクションがあったおかげで、気持ちを受け入れてみようと思えた。けど、自分から何も行動しなければ関係性は並行のまま。岩井が求めているのはそれじゃない。

「えっと」

「一日一回キスする、とかでも全然ええで」

「それお前が得するだけじゃん」

「バレたか」
 
「……ちゃんと、考えるから」

「ありがとう」

「てかさっき勢いでキスしただろ」

「……すんません」

 調子のいい男の尻を叩きつつ、「早く帰るぞ」と催促して人の波に戻る。先輩達は先に帰っただろうかとか、そんなことはもう気にならなかった。