男は思春期の心の成長が、女に比べて遅い。──と保健の先生が言っていた。俺がそれを強く実感したのは中学生の頃だ。
 当時、恋愛対象が同性であることは体の異常なのだと思い込んでいた未熟な俺は、ただひたすらにそれを隠した。仲間外れにされたくない。いじめられたくない。その一心で、自分は普通だと言い聞かせて、無理やり異性に興味がある振りをしていた。
 それは簡単ではなかった。例えば、「どんな女子と付き合いたい?」と聞かれても愛想笑いをするしかできなかったし、「好きな胸の大きさは?」とか、「お尻のほうが好き?」とかそっち系の話を振られたときが一番困った。なんせこれっぽっちも異性に興味がない分、下手に嘘をつくことも難しい。
 そうやってずっと誤魔化して逃げていたら、とうとう、「一ノ瀬はホモなんだろ~」とクラスメイトの一人が騒ぎ出した。首を振ったがもう遅い。周りの男子も便乗して悪態をつき始め、翌日から俺は「ホモ野郎」というあだ名で呼ばれることになった。
 幸いにも大きないじめには繋がらなかったが、ほとんどの男子が俺をからかい、一方で女子は誰もそれに参加しなかったのを覚えている。静観するのもどうなのかと思う。でも、からかわれるよりよっぽどマシだ。
 あれ以来、少しトラウマになってしまった。
 同性が恋愛対象なのは体の異常ではない。ただの性的指向であって、人によってそれは違ってもいいということを理解したのは、高校生になってからだ。それと同時にわかった。他人の性的指向が自分と異なる場合、嫌悪を感じる人もいれば、気にしない人もいる。厄介なのは前者のほうで、それを露骨に表現されることが多々ある。
 高校に上がっても“そういう人”はたくさんいて、ほとんどが男子だった。中学の頃と違うのは、いじめに対する恐怖心がなくなったということ。それでも先輩に嫌われるのは絶対に嫌だった。だから俺はずっと秘密を抱え続けてきたんだ。
 ──先月、岩井に泣いているところを見られるまでは。

 ギャハハハッと耳障りな声を発しながら、複数の男子が横をすり抜けてトイレに走って行った。廊下で立ち話をしている女子の奥、階段の踊り場で激しいプロレスごっこを繰り広げている男達が見える。
(まじで男はガキばっかだな……)
 うんざりして溜め息すら出ない。なんでこうも女子と精神年齢に差があるのだろうか。騒ぐ女子は一部いるが、それでも廊下で裸になったり物を投げ合ったりはしない。
 教室に入って自分の席に座る。一番後ろの端っこ。ここはクラスの注目を浴びることもないし、特定の友達しか来ないから気に入っている。
 教科書を机の上に置いたとき、奥の入口付近にいる男子グループの会話が聞こえてきた。あの中に岩井も見えるが、昨日の不機嫌は治ったのだろうか?

「おまえそれっやばすぎ!」

「なあ岩井は? おっぱいデカいのがいい?」

「そんなの、なんでもええやん」

 なんでもいいってなんだよ。お前が好き好き言ってる相手は貧乳どころか、揉める胸がないというのに。と勝手に苛つきつつ、窓の外に視線を投げる。
 あまりこういう会話は聞きたくない。いつ傷つけられるか分からない。暗闇の中で刃物を無作為に振り回されているようなものだ。
 それでも話し声が大きいせいで、嫌でも耳に入ってくる。

「岩井はいいよなあ~モテモテで。もみ放題じゃん」

「はあ? 好きやない子の揉んでどないすんねん」

「いや、嬉しいだろ男なら!」

「そうだよなあ! 俺にはチャンスすらねぇんだからよお」

「……わからん」

 ああ、聞きたくない。頼むからもうやめてくれ。
 耳を塞ごうとしたとき、岩井が「あっ」と声を出した。なにか嫌な予感がする。

「いちのせ~! どこ行っとったん、トイレ?」

 無視だ、無視。クラスの中心にいる奴に駆け寄って来られても困るだけ。来るな来るなと念じたが、あっさりと境界線を踏んだ男が目の前に立った。

「なあ、無視せんといてよ」

「うるさい。向こう行って」

「相変わらずキンキンに冷えとる……」

「向こう行けってば」

 会話の途中でこっちに来られたせいで、他の男子までぞろぞろと集まってきた。──最悪だ。こういうのは一番苦手なのに。

「岩井また一ノ瀬に絡んでんの?」

「お前好きすぎだろ~」

「まさか岩井って、ホモ的なやつ?」

「うわっ、まじ!?」

 ドンッと胸を殴られたように、一気に呼吸が苦しくなる。やばいやばいと思いながらも視界がどんどん暗くなっていく。

「ホモ? よおわからんけど、一ノ瀬のことはほんまに好きやで」

「ゲーッ恋してるってこと!?」

「うん」

「やばーこいつ! 男好きなのかよ~キショ」

 もう喋るな。うるさい。頼むから俺を巻き込まないでくれ。そう願えば願うほど、周りの囃し立てる声が頭に突き刺さる。
 この場から消えたくなった。なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ──と無理やり瞼を閉じようとした瞬間、岩井の大きな声が教室に響いた。

「人の真剣な告白をなんや思てんねんっ、おちょくるなやボケ!」

(……は?)
 周りが一瞬で静まり返った。岩井がここまで大きな声で、誰かに怒ったのは初めてだからだ。
 顔を上げると、怒りで真っ赤に顔を染めた男が視界に入った。周りがぎこちなく口の端を引き攣らせる。

「な……なんだよ」

「そんなおかしいことか? 誰が誰を好きになってもええやろ。ジブンらになんの関係があるんか言うてみろや!」

(あーあ……こんなの俺も岩井もハブられるの確定じゃん)
 いつも笑顔が絶えない、陽キャで誰からも好かれてる岩井。そんな男がこうなったら、周りは離れるかいじめるかのどちらかだろう──と思っていたが、近くにいた男子の一人がその法則を打ち破った。

「そうだよ。さすがにイジりすぎじゃねって思ったわ。いいじゃん岩井はモテるんだし、ライバル減ったと思えば」

 少しの沈黙のあと、賛同するように他の男子もそれに頷き始める。

「たしかにな! 岩井が付き合っちゃえば女子取られる心配もなくなるってことか!」

「えっ、それはアツい。俺、岩井と一ノ瀬のこと応援するわ」

「俺も」

「い、いや、しなくていい……」 

 もう頼むからみんな消えてくれという気持ちで手を横に振るが、目の前の男は嬉々としてみんなの応援を受け入れた。

「おお、頼むで。一ノ瀬はガード固いねん。俺ずっと振られとって」

「岩井がしつこいからだろ」

「そうそう、もっと愛を込めた告白しろよ。こういう場所じゃなくて屋上とかさ」

「えっ? 俺の愛……足りてないん?」

「てか屋上行けないだろそもそも」

「っあ~そっか。じゃ校舎裏?」

「本人いるのに聞かれてたら興ざめじゃん」

 ドッと笑いが起こった。さっきのが嘘だったかのように、みんな笑顔だ。自分にとっては信じられない光景だった。
 授業開始のチャイムが鳴り、一斉にそれぞれの席に散っていく。

「……一ノ瀬、なんか大変だな」

 後ろの席の男子が、俺の肩を叩きながら呟いた。



 放課後も特にこれと言って話を蒸し返されることもなく、変な目で見られるわけでもなく、岩井に怒鳴られた男子も平然とふざけながら帰って行った。正直、拍子抜けだ。この件で全員が一斉に手のひらを返すだろうと思っていたからだ。

「いちのせー!」

 階段を降りていたら、なぜか岩井が俺の名前を呼びながら走ってきた。

「……なんだよ」

 手に鞄を持っている。しかも制服のまま着替えてない。今日は部活がある日じゃないのかと聞くと、「校庭が使えんくて休みになったから一緒に帰ろ」と言われた。
 隣に並んで、再び階段を降りる。なんか変な感じだ。今までこんな友達みたいに話しながら帰ったことは一度もない。

「今日のこと謝りたかってん。一ノ瀬、ああいうのイヤやったやろ?」

「あ……ああ。そもそもお前が告白なんてするから」

「だって好きなんやもん。悪いことちゃうし」

「あっそう……、いじめられるかもとか考えなかったのかよ」

「うーん。そんなんでイジメてくるヤツは、こっちから願い下げやわ」

 きっぱりとそう言った岩井は、不安や恐怖を微塵も感じていない顔をしていた。心からそういうのが怖くないのだろう。それはいじめられた経験がないからなのか、単に神経が図太いからなのか。
 
「やけど……ほんま、すまんかった」

 急に岩井が立ち止まった。その場で深々と腰を折られる。
 驚いた。でもそれ以上に、この光景を誰かに見られてないか心配になった。咄嗟に周りを見渡す。

「な、んだよ。やめろって」

「もしかしたら、あれで一ノ瀬は傷ついたんちゃうかなって思った。嫌な顔しとったし」

「……トラウマがあるんだよ。ど、同性が好きってバレたあとにいじめられたから」

「なんやそれ……っ。最悪や。そんなんあったのに俺は」

「まあいい。巻き込まれたのは、嫌だったけど」

 複数人を相手に、あんなに真正面からぶつかることができるこいつが羨ましいなと思った。俺には絶対にできないと分かっている。だからこそ──あれはかっこよかった。「誰が誰を好きになってもええやろ」というのは誰でも思いつく言葉だが、人に伝えるのはそう簡単なことじゃない。

「岩井がああ言ってくれて助かった」

 笑顔で背中を叩いてやると、岩井が肩をビクつかせた。

「い、いちのせ……やっぱ、お前のことが好きや」

 真っ直ぐで揺らぎのない瞳と目が合う。見栄も偽りもプライドも、なにもない。ただ純粋なその目に見つめられると呼吸が浅くなって、そわそわする。すべてを見透かされている気持ちになる。

「……なんで俺のこと好きなの。ずっと彼女いただろ?」

「せやから、おらんて。仲良い女友達はようさんおるけど、付き合ってへん。そら好きになれるか試したことは……あるけど」

「試したんだ」

「お前のこと好きになったん、高校入ってすぐやねん」

「でも、クラス違うよな?」

「入学式のときに見かけて……一目惚れやった」

 意外だ。岩井も一目惚れするんだ──というより、自分が誰かに一目惚れされることなんか人生であるんだと思った。

「二年で同じクラスになれたときはもうほんま、嬉しくて。やけど話しかけてもアイソないし、先輩カップルのことよう見てるから、もしかして好きなんかなとは思てた」

 相手は女の先輩やと勘違いしとったから諦めようとしたんよ。と岩井は眉間に皺を寄せて続けた。
 あのとき、こいつがいきなり告白してきたのは、それが勘違いだと分かったからだったのか。

「男のほうに惚れてるって知ったら、諦めるわけにはいかへん」

「女なら諦めるのに?」

「……性別はしゃあないやん。どうしようもない」

「そうだけど」

「俺やって、お前にずっと片思いしてんねん。そんな簡単に諦められん。一ノ瀬なら分かるやろ」

「まあ……うん。それは」

「やから、これからも好きでいてええか?」

 両手をぎゅっと握られた。熱くて力強い。まさに岩井の存在そのもの。逃げようとしても、離れようとしても、どこまでも着いてくる。
 こうなったらもう──逃げられない。
 自分が先輩に片思いしてるように、こいつが俺のことを好きでいてもいい。だけど気持ちに応えられるかも分からないのに、それを受け入れていいのだろうか。
 逡巡していたら、手を握られたまま顔を覗き込まれた。至近距離で見つめられて思わず体を引く。

「わ、わかった。いい。けどみんながいる前で告白とかすんな!」

「はああ……っ、あかん、ほんま一ノ瀬のこと好きや」

「またそれかよ」

「これからは二人きりんときに俺の気持ち伝えるわ」

「ん……?」

 二人きりのときがある前提で言われたのが引っかかったが、岩井が手を掴んだまま歩き出そうとするから、それどころじゃなくなった。

「手離せよ!」

「頼む、もう少しこのままでいさして……」

「まじでふざけんなっ」

 ──なんでこう、子どもっぽくて厄介な男に好かれてしまったんだ?