「なんでお前がここにいるんだよ……」

 美術室に入って開口一番に言った言葉がそれ。
 黒板近くの席に座り、俺を見た途端に手をぶんぶん振って、笑顔で「一ノ瀬!」と大きな声を出した──非常に煩わしい存在のせいだ。

「川村先輩、お疲れさまです」

 とりあえずこういうのは無視するに限る。美術部の活動時間なのに、なんでここにあいつがいるんだとか、そんなことはどうでもいい。
 今日も先輩の席の向かいに座った。「あ、待ってたよ」と優しく微笑まれ、それだけで昇天しそうになる。
 ただ最悪なことに、岩井がすっ飛んできて俺の隣に座ってしまった。

「ちょ、なんで無視すんねん!」

「うるさい」

「一ノ瀬、この子と同じクラスなんだってね」

「え……」

 なんでそのことを先輩が?
 まさか余計なこと話したんじゃないだろうな、と岩井を睨むも、謎に笑顔を向けられた。それにまた腹が立つ。

「先輩、別に俺はこいつと仲良くないです。ただのクラスメイトってだけで」

「そうなの? でも彼がすごく仲良いって……」

「は?」

「いやいや、仲良いですよ!」

「おいやめろって……」

 ぐっと痛いくらいに肩を抱き寄せられる。不快な行為に思わず押し返したら、先輩がくすくす笑った。

「ほんとに仲良いね」

「ちがいます!」

「俺、こいつのこと好きなんです」

「……はあ!?」

(こいつ、先輩の前でなんてことを!)
 もしかしたら同性愛が苦手かもしれないし、なにより岩井とそういう仲だと誤解されたくない。
 慌てて否定しようとしたが、先輩はあっけらかんとして「いいじゃん」と言い放った。

「い、いいじゃん……?」

 まるで眼中にないからこそ、言える言葉。あまりのショックに目の奥が熱くなった。こんな形でまた失恋を味わいたくなかったのに。

「ああ、だから美術部入ったの?」

「はい!」

「え、サッカー部は」

 こんなんでも、こいつはサッカー部のエースとして活躍していたはずだ。クラスの女子が騒いでいて嫌でも耳に入ってきた。
 しかもこの時期に辞めるとなると、チームのほうが岩井のことを手放したくないはず。

「ああ、もちろん許可とったよ。部長も掛け持ちでええって言うてくれたし」

「な……んだと」

「よかったね、一ノ瀬」

「いやまったく良くないんですけど」

 というか普通、好きな人がいるからって部活を掛け持ちするか?

「部活やってるときの一ノ瀬、どんな感じなんかなーって気になってたんですよ。絵上手いんですか?」

「うん。一ノ瀬は二年の中でも特に上手だよ。この前描いてくれたやつも……」

 スケッチブックから一枚の絵を取り出した先輩が「ほら」と岩井に見せる。それは、俺が先輩をモデルにデッサンして描いたものだった。

「や、やめてください先輩」

「えー! めっちゃ上手いやん。けどこれ……先輩ですよね」

「うん。お互いに描き合ったんだ」

「お互いに……」

 岩井の顔がさっと曇った。俯いてぶつぶつ何か言っている。
 もういいじゃないですか、と先輩に絵を戻そうとした手を、いきなり横から掴まれた。

「俺もやりたい。それ」

「は……?」

「お互いに描くやつ、一ノ瀬とやりたい」

「いや、なんでお前のこと描かなきゃいけないんだよ」

「俺だって描かれたいもん……」

「嫌だ」

「ええやん、減るもんでもないし!」

「紙と鉛筆が減る」

「俺がまた買うたるから!」

「あーもう、うるさ……」

「いいじゃん。描き合いっこしたら?」

 先輩が会話を遮って言った。まさかそっちの味方をされるとは思わなくて、驚いた。

「えっ」

「入部したばかりじゃ、なにもわからないと思うし。一ノ瀬が描きながら教えてあげて」

 悪意のない笑顔を向けられる。出会ってから初めて先輩に腹が立った。
 そんな言われ方をしたら断れないじゃないかと、俺は納得いかないまま、渋々頷いた。

 描きにくいからと向かいの席に座ったのはまだいいとして、岩井は鉛筆を拳で握ったまま、ちっとも動かそうとしない。
(そんなに見つめられたら気まずいんだけど……)
 ただ笑顔でじっと見つめられると気が散る。

「……早く描けよ」

「あっ、すまん。見惚れとった」

「はあ……。まず普通の鉛筆と同じ持ち方にして。それで手の力を抜いて、顔のアタリを描く」

「あたり?」

「全体のバランス取るための線のこと。それを最初にやれば描きやすくなる」

「へえ、物知りなんやな」

「当たり前だからこんなの」

 絵について何も知らないみたいだから、きっとグズグズになるだろう──と思っていたが、意外にも描き始めたらあっという間に要領を得たようだった。
 不器用そうな見た目で、実は器用に何でもできるのが不思議だ。
 俺の絵をちらっと見た岩井がまた、無駄に笑顔になる。

「さすが一ノ瀬。特徴捉えるん上手いな。もっと見てくれてもええで」

「……見たくないし」

「そんなん言わんといてよ」

 今日、こいつの顔を初めてちゃんとよく見た。鼻がシュッとしてるとか、まつ毛が長いとか、真顔でも口角が上がってるとか、そんなどうでもいい発見を幾つもした。
 ──こうして静かになると、まるで別人みたいだ。
 岩井はかなり顔立ちが整ってるし、モテるだけあってオーラもある。喋らなければ外見だけは先輩に並ぶほどタイプだが、なんせ中身がこれじゃあマイナス十億点。
 どんなに顔が好みでも、中身が伴っていないと恋愛対象として見られない。もし先輩のように大人っぽかったら、きっと好きになっていただろう。

「一ノ瀬ほんま可愛いよなあ。目も鼻もそのほくろもぜんぶ好きや」

「お前に可愛いって言われても嬉しくない」

「そういうツンツンしてるとこも、なんかグサグサ、こう胸のあたりに刺さるねん。俺の性癖? っちゅうんかな」

「うわマゾじゃん」

「相手が一ノ瀬ならマゾでもミソでもええわ~」

「は?」

 まじで意味がわからない。
 なんだこいつと軽蔑した目で見たら、先輩が吹き出して笑った。

「ほんと面白いね。岩井くん絶対モテるでしょ」

「いやあ、それほどでも」

「一ノ瀬も好きになっちゃうんじゃない? こんな面白い子だったら」

「え!? じ、冗談やめてください、あり得ないですから。俺は面白さなんてどうでもいいですし」

「じゃあ、どんな人が好きなの? こういう話したことなかったよね」

 先輩がこてんと頭を傾ける。その可愛らしい仕草に頬が熱くなった。
 たしかに、今まで二年も一緒にいたのに恋愛の話はしたことがなかった。それは恐らく、先輩に気持ちを悟られないようにしなければと隠してきたからだ。

「お、俺は……大人っぽくて、包容力があって、落ち着いてる人がいいです」

「じゃあ今は同い年だとちょっと難しいかな? どうしても大人っぽい人に憧れる年齢だしね」

 まるで経験したことがあるかのような言い方。もしかしたら、先輩も俺と同じくらいの年齢で年上に恋したことがあるのだろうか。

 ふと視線を先輩の隣に向けると、思いっきり肩を落としてる男と目が合った。俺の答えが不服だと言わんばかりに頬を膨らませている。
 なんかハムスターみたいで可愛いな──と思いかけて、思わず固まる。
(……は?)
 一瞬だけ過った自分の思考に鳥肌が立った。岩井を可愛いと思うとかあり得ない。どうかしてる。

「俺と正反対やん……」

「……自覚あるんだ」

「うう、これ以上傷つけんといてくれ」

「まあまあ、今はまだ高二だから年上が格好良く見えてるだけだよ。実際そんな変わらない。それに、岩井くんもこれから大人っぽくなるよ」

「俺そんな子どもちゃいます!」

「はは、そうだね」

「そういうところが子どもなんだろ」

 岩井はぐっと押し黙った。俺の言葉が効いたらしい。


 部活が終わるギリギリの時間になって、ようやく絵が完成した。俺は三十分前に描き終えたが、岩井は納得いかなかったのか、何度も首を傾げながら鉛筆を滑らせていた。

「はい。やるよ」

 岩井の顔が描かれた紙を手渡す。

「はあっ! これが一ノ瀬から見た俺か……ずいぶんイケメンに見えとるんやなあ……かんむりょーや」

「いやデッサンって見たまま描くものだから」

「やから、お前にはこんなカッコよく見えてるんやろ? めっちゃ嬉しい」

「……あっそう」

 自分も先輩に描いてもらったとき同じことを思ったから、何も言えない。複雑な気持ちで岩井が描いたものを取ろうとしたら、いきなりバッと手を引かれて隠される。

「み、見んといて」

「は? 見せろよ」

「イヤや」

「なんで。別に下手でも気にしないけど」

「ち……ちゃうねん。一ノ瀬の顔はほんまに美しいのに、まったく表現できんかった」

「美しいって男に言うか……?」

 紙を両手で抱えた岩井が、申し訳なさそうに頭を垂れる。本気で見せたくないようだ。

「絵ってそんなもんだろ。プロでもないし。それにデッサンの勉強もしてないなら、描けなくて当たり前だから」

「そやけど……納得できん。見せるの恥ずかしい」

「でもさ、岩井くん。絵を見せ合って良い点や改善点を伝えると上達するよ? 僕達もそうしてるし」

「……分かりました。一ノ瀬、俺ドシロウトやから大目に見てや?」

「わかったって」

 恐る恐る差し出された絵を受け取る。
 かなり怯えていたから、どれほど酷いものなのかと思ったが、想像よりもよく描けていた。最初あんな鉛筆の握り方をしていた男だとは考えられないほど、絵のセンスはある。
 先輩も同じことを思ったのか「よく描けてるじゃん」と驚きの声を出した。

「まあ、悪くないな」

「ほ……ほんまに!?」

「影のつけ方を変えたらもっとよくなりそう」

「今度教えて。俺、木曜は美術部くるし」

「なんで俺が教えるんだよ」

 岩井の絵をファイルに挟み、鞄に入れようとしたときだった。

「あのー、川村先輩」 

 隣のテーブルにいた一年生の女子が先輩の近くにきた。俺達に配慮してか、小声で「絵を見てもらいたいです」と彼にお願いする。かなり大きいキャンバスを使っていたから、ここまで持って来られなかったみたいだ。

「もちろんいいよ。じゃあ、僕は行くね。一ノ瀬も岩井くんも気をつけて帰って」

「はい。お疲れさまです」

「ほんなら、帰ろか」

 鞄を持った岩井が、当たり前のように手を目の前に差し出してきた。

「……は? 一人で帰れよ」

「えっ!」

「うるさっ」

 今日一番の大きな声に思わず耳を塞いだ。何もそんな驚くようなことじゃないだろう。しかも、手を繋ぐ前提で出されたことにも腹が立つ。

「お、同じ部活なんやから一緒に帰ろうや!」

「帰りまで一緒とか嫌」

「なっ……なにも、そ、そこまで言わんでもええやん……」

 今度はがっくりと肩を落として睨まれた。ふざけているのかと思っていたが、本当に落ち込んでいるようだ。目に薄っすら涙が溜まっている。

「え、そんな落ち込まなくても──」

「もうええ、一人で帰ったるわ。それが一ノ瀬の望んでることなんやろ!」

 啖呵を切った岩井がバタバタ走って美術室から出て行くのを、唖然として見つめる。

「はあ……?」

 ただ一緒に帰るのを断っただけなのに、あんな怒る必要があったか?
 ──これだから岩井は子どもっぽくて嫌なんだ。
 隣のテーブルに視線を投げる。後輩の絵を真剣に見つめている先輩は、やっぱりいつも落ち着いていて大人っぽい。すぐに感情を表に出す岩井とはまるで違う。
 俺はああいう、精神的に余裕がある人がやっぱり好きだ。そう思いつつも、走って帰った岩井のことが妙に引っかかるのは──なんでだろう。
 別に、帰るときくらい一緒でもよかったかもしれない。