* * *

 次の朝。
 空がまだ薄青く、ぼんやりとした光を帯びていた。静まり返った部屋の中、麗衣はアラームが鳴る前に、いつものように目を覚ます。

 ベッドから出て、制服に着替えるより先に台所へ向かう。
 冷蔵庫を開けると、奥の方にしまい込まれていたソーセージが目に入った。

 「……まだいけるかな」

 つぶやきながら、フライパンに火をつける。
 蓮の時間割を頭の中で思い出しながら、朝食を手早く用意する。

 「蓮、そろそろ起きて。これ体温計ね。測ったら教えて」

 寝室に声をかけて、麗衣はまたキッチンに戻った。
 お味噌汁を温め直し、ご飯をよそう。

 やがて、眠たそうな顔の蓮が、体温計を手にのそのそと現れた。

 「熱なかった?」
 「うん、36.5」

 その数字に、ほんの少しだけ胸をなでおろす。

 最近は風邪が流行っているらしく、それだけでも心配の種がひとつ減った気がした。
 連絡帳に体温を書き込み、ランドセルに入れるよう手渡す。

 「ちゃんと、先生に渡してね」
 「わかってるってばー」

 テーブルについて一緒に朝ごはんを食べながら、麗衣はふと、キッチンの奥に視線を向ける。

 ——今日も、母は起きてこない。

 隣の部屋の扉は、閉じたまま。
 無理に声をかけることはしなかった。

 お母さんを起こしても、うまくいかない日が多いから。
 薬の袋をテーブルの端にそっと置き、飲み忘れがありませんようにと、心の中で祈る。

 食事を終え、蓮がランドセルを背負って玄関に向かう頃。
 麗衣は洗面台の前に立ち、制服の襟を整えた。
 鏡の中の自分を見つめる。
 目の下のクマを、丁寧にコンシーラーでなぞっていく。
 ファンデーションの色をぼかし、チークを少しだけ乗せて、最後に——
 口角を引き上げる。ゆっくりと、形を確かめるように。
 角度を変えながら、もっと自然に見える笑顔を練習する。

 誰に向けるでもないその笑顔は、けれど、何百回も重ねてきたものだった。

 “これで大丈夫。今日も、ちゃんと明るい私でいられる”

 そう心の中で唱えながら、小さく息を吐く。

 「大丈夫。今日もちゃんとやれる」

 小さな声で呟いたそのあと、麗衣はランドセルを背負った蓮に声をかけ、並んで家を出た。