* * *
空が夕焼けの色に染まり、街が少しずつ夜の気配に包まれていく頃。
麗衣は玄関の鍵を静かに回し、自宅の扉をそっと開けた。
「ただいま」
返事はなかった。
でも、それはもう驚くことではない。
リビングには人の気配がなく、テーブルの上には食べかけのカップラーメンと、くしゃくしゃに丸められた薬の包装が転がっている。
部屋の奥、母の寝室のドアは閉ざされたまま。
中に人がいることはわかっているけれど、声をかける勇気は出なかった。
——今日は、どうか静かに、何事もなく過ぎてくれますように。
そう願いながら、麗衣はカーディガンを脱いで、椅子の背にそっとかける。
「蓮……」
小さな声で呼ぶと、ソファの上で教科書を開いたまま、弟の蓮がうとうとしていた。
小学三年生。
まだあどけないその寝顔には、細い肩を揺らすように眠気がまとわりついている。
やわらかい黒髪には寝ぐせが浮かび、頬には鉛筆の跡がうっすらと残っていた。
「……起きて。ごはん、まだでしょ?」
そっと頬をつついて声をかけると、蓮は目を細めながら、「パン食べた」と寝ぼけ声でつぶやいた。
再び意識が沈みかける蓮に、毛布をかけて頭を撫でる。
——蓮にだけは、ちゃんとあたたかい日常をあげたい。
麗衣は制服のまま台所に立ち、冷蔵庫を開けた。
中にあるのは、賞味期限の切れた牛乳と、半分食べられたヨーグルト、しぼんだピーマン。
食材はあるようでなくて、それでも何かを作らなきゃと、冷蔵庫のドアを閉める。
「……なんとか、なるよ」
ぽつりと自分に言い聞かせるようにつぶやく声は、静かな部屋に溶けていく。
本当は叫びたくなるくらい、限界はとっくに近いのに。
それでも、麗衣の口から出てきた言葉はいつも決まっていた。
「大丈夫」
その瞬間、誰にも見えない空気の揺らぎが、室内にふわりと広がる。
心の奥にしまい込んだ想いが、ひとひらの花びらになって、音もなく、床へと落ちていった。
けれど麗衣は、それに気づくことなく、ただ黙って水をため始めた。
空が夕焼けの色に染まり、街が少しずつ夜の気配に包まれていく頃。
麗衣は玄関の鍵を静かに回し、自宅の扉をそっと開けた。
「ただいま」
返事はなかった。
でも、それはもう驚くことではない。
リビングには人の気配がなく、テーブルの上には食べかけのカップラーメンと、くしゃくしゃに丸められた薬の包装が転がっている。
部屋の奥、母の寝室のドアは閉ざされたまま。
中に人がいることはわかっているけれど、声をかける勇気は出なかった。
——今日は、どうか静かに、何事もなく過ぎてくれますように。
そう願いながら、麗衣はカーディガンを脱いで、椅子の背にそっとかける。
「蓮……」
小さな声で呼ぶと、ソファの上で教科書を開いたまま、弟の蓮がうとうとしていた。
小学三年生。
まだあどけないその寝顔には、細い肩を揺らすように眠気がまとわりついている。
やわらかい黒髪には寝ぐせが浮かび、頬には鉛筆の跡がうっすらと残っていた。
「……起きて。ごはん、まだでしょ?」
そっと頬をつついて声をかけると、蓮は目を細めながら、「パン食べた」と寝ぼけ声でつぶやいた。
再び意識が沈みかける蓮に、毛布をかけて頭を撫でる。
——蓮にだけは、ちゃんとあたたかい日常をあげたい。
麗衣は制服のまま台所に立ち、冷蔵庫を開けた。
中にあるのは、賞味期限の切れた牛乳と、半分食べられたヨーグルト、しぼんだピーマン。
食材はあるようでなくて、それでも何かを作らなきゃと、冷蔵庫のドアを閉める。
「……なんとか、なるよ」
ぽつりと自分に言い聞かせるようにつぶやく声は、静かな部屋に溶けていく。
本当は叫びたくなるくらい、限界はとっくに近いのに。
それでも、麗衣の口から出てきた言葉はいつも決まっていた。
「大丈夫」
その瞬間、誰にも見えない空気の揺らぎが、室内にふわりと広がる。
心の奥にしまい込んだ想いが、ひとひらの花びらになって、音もなく、床へと落ちていった。
けれど麗衣は、それに気づくことなく、ただ黙って水をため始めた。



