* * *

 九月。

 夏の名残をわずかに引きずりながらも、風の中には金木犀の香りが混じりはじめていた。

 学校全体がそわそわと浮き足立っていて、文化祭の準備が始まった校舎には、いつもより明るくて騒がしい空気が流れていた。

 「ポスター貼る画鋲、もうないかも」

 誰かの声に、麗衣は手を止めて立ち上がった。

 「じゃあ、見てくるね」

 そう言って、麗衣はひとり廊下に出て準備室へ向かう。

 文化祭の準備でざわつく教室を抜けた先の廊下には、少しだけ秋の風が流れ込んでいて、窓の外からは、かすかに吹奏楽部の練習音が聞こえてきた。

 準備室のドアを開けたとき、誰かの背中が目に入った。

 窓際に立ち、棚の上の何かをぼんやりと見つめている。

 その横顔に見覚えがあって、麗衣は思わず声をかけた。

 「……朝比奈さん?」

 彼女はゆっくりと振り返り、少し驚いたあと、すぐにふわりと笑った。

 「麗衣さん……お久しぶりです」
 「うん、学校で会うのは初めてだね」
 「ですね」

 朝比奈さんは、夏休みの間、一緒の屋根の下で暮らしていた子。

 一番歳が近くて、蓮のことでいっぱいいっぱいで自分は馴染もうとしなかった麗衣の隣に、そっと座ってくれた優しさを思い出す。

 制服姿で並ぶのは、少しだけ不思議だった。
 でも、なんだかちょっと安心もして、嬉しくなる。

 けれど、見慣れたはずのその笑顔の奥に、かすかな翳りがあるように見えた。

 「……何かあった?」

 問いかけると、一瞬だけ目を伏せて——それから、首を横に振る。

 「大丈夫です。私が不器用なだけなので」

 朝比奈さんがそう言って笑ったそのとき、視界の端で、ひらりと何かが舞った気がした。

 思わずその影を目で追いかける。

 (……え、桜の花びら?)

 秋の風に揺れるように、すぐにどこかへ消えてしまったそれは、たしかに花びらのかたちをしていた。

 白くて、小さくて、風に揺れていたそれは、桜の花びらに似ていた。

 でも、今は秋の始まり。
 桜なんて、どこにも咲いていない。

 私は思わず、彼女の足元を見つめた。

 でも、足元に落ちた花びらに、彼女自身も気づいた様子はない。

 (……気のせい?)

 そのとき、麗衣の心には違和感だけが心に残った。