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 別の日の放課後。
 校舎のざわめきの中、麗衣は図書室の奥にある窓際の席へ向かった。

 この日は、蓮が友だちの家に遊びに行っているとのことで、久しぶりに自分だけの時間ができた。
 慌ただしい毎日に慣れすぎていた麗衣にとって、ぽっかり空いた放課後は、かえって不思議なほど静かだった。

 本棚の間を抜けて、埃の匂いと紙の静けさに包まれる。
 誰にも触れられないこの場所では、自分の呼吸を確かめられるような気がする。

 手に取ったのは、ジャンル分けしづらい一冊の本だった。
 伝記のようでいて、少しファンタジーめいた世界観を含んでいる。
 ふとした拍子に誰かの心の奥へそっと入り込んでくるような、不思議な物語。

 そのページには、こんな一文があった。

 “人が嘘をついたとき、その想いは目に見える形でこぼれ落ちる。まるで、花びらが静かに散るみたいに——”

 「……そんなの、ほんとだったら、わたしなんて花びらまみれだよね」

 思わずぽつりと呟いて、小さく肩をすくめた。
 くすっと笑ってみたけれど、その笑い声が少しだけ震えていたのを、自分でも気づいていた。

 ——机に散らばる大量の薬の袋。冷えたカップラーメン。母の部屋の閉ざされたドア。
 そして、小さな背中でうとうと眠る弟の姿。

 (……大丈夫、隠せてる。ちゃんと“普通”にできてる)

 頭に浮かんだ情景をかき消すように、ページをそっと閉じかけたとき、不意に隣から人の気配がした。
 独り言を聞かれていたかもしれないと思うと、一気に心臓が跳ねる。

 「それ、俺も読んだことある。面白いよね」

 振り向くと、そこには優真が立っていた。
 焦げ茶色の髪が少し乱れていて、光を受けた瞳が穏やかに揺れている。

 「びっくりした……後ろから来ないでよ」
 「ごめんごめん。麗衣がいるって気づいたから」

 そう言って、彼は窓の外へ視線を向けた。

 春風が吹き抜ける校庭。
 枝先には、ようやく数輪の桜が咲き始めている。

 風が触れるたび、ほんのわずかな花びらが空気に混じって、ゆっくりと舞った。

 そのうちのひとひらが、図書室の窓の隙間からふわりと入り込んでくる。

 ふたりの間に落ちたその花びらを、優真がそっと指先でつまんだ。

 「……花びらが落ちるときって、なんとなく切ない気持ちになるよね」

 まるでそれが、桜の話じゃない“何か”の比喩であるかのように。

 麗衣は答えられなかった。
 けれど、その言葉の温度だけが、胸の奥にじんわりと残る。

 「麗衣、困ったことあったらいつでも言ってよ。最近、ちょっと……大変そうだから」

 優真はそう言って、ふっと笑った。
 その一言が、なぜか怖かった。

 ——大変そう。

 その言葉に、麗衣の呼吸が一瞬止まる。

 (……やばい。隠せてない?)

 顔に出たかもしれない。
 声が少し上ずったかもしれない。

 心のどこかで、優真の“目”は特別だと、麗衣は感じていた。

 でも——学校では、しっかりしてなきゃ。明るくいなきゃ。

 それが、自分の居場所を保つためのルールだから。

 「え、全然。元気だよ」

 何事もなかったように笑い返す。
 目元までちゃんと笑えていることを祈りながら。

 優真は何も言わずに、本棚の向こうへと歩いていった。
 残された麗衣は、開いたページの上に視線を落とす。

 “人が嘘をついたとき、その想いは目に見える形でこぼれ落ちる。まるで、花びらが静かに散るみたいに——”

 その一文が、どうしてか、やけに胸に刺さった。

 まるで、今この瞬間をまるごと、誰かに言い当てられたようで。