* * *
別の日の放課後。
校舎のざわめきの中、麗衣は図書室の奥にある窓際の席へ向かった。
この日は、蓮が友だちの家に遊びに行っているとのことで、久しぶりに自分だけの時間ができた。
慌ただしい毎日に慣れすぎていた麗衣にとって、ぽっかり空いた放課後は、かえって不思議なほど静かだった。
本棚の間を抜けて、埃の匂いと紙の静けさに包まれる。
誰にも触れられないこの場所では、自分の呼吸を確かめられるような気がする。
手に取ったのは、ジャンル分けしづらい一冊の本だった。
伝記のようでいて、少しファンタジーめいた世界観を含んでいる。
ふとした拍子に誰かの心の奥へそっと入り込んでくるような、不思議な物語。
そのページには、こんな一文があった。
“人が嘘をついたとき、その想いは目に見える形でこぼれ落ちる。まるで、花びらが静かに散るみたいに——”
「……そんなの、ほんとだったら、わたしなんて花びらまみれだよね」
思わずぽつりと呟いて、小さく肩をすくめた。
くすっと笑ってみたけれど、その笑い声が少しだけ震えていたのを、自分でも気づいていた。
——机に散らばる大量の薬の袋。冷えたカップラーメン。母の部屋の閉ざされたドア。
そして、小さな背中でうとうと眠る弟の姿。
(……大丈夫、隠せてる。ちゃんと“普通”にできてる)
頭に浮かんだ情景をかき消すように、ページをそっと閉じかけたとき、不意に隣から人の気配がした。
独り言を聞かれていたかもしれないと思うと、一気に心臓が跳ねる。
「それ、俺も読んだことある。面白いよね」
振り向くと、そこには優真が立っていた。
焦げ茶色の髪が少し乱れていて、光を受けた瞳が穏やかに揺れている。
「びっくりした……後ろから来ないでよ」
「ごめんごめん。麗衣がいるって気づいたから」
そう言って、彼は窓の外へ視線を向けた。
春風が吹き抜ける校庭。
枝先には、ようやく数輪の桜が咲き始めている。
風が触れるたび、ほんのわずかな花びらが空気に混じって、ゆっくりと舞った。
そのうちのひとひらが、図書室の窓の隙間からふわりと入り込んでくる。
ふたりの間に落ちたその花びらを、優真がそっと指先でつまんだ。
「……花びらが落ちるときって、なんとなく切ない気持ちになるよね」
まるでそれが、桜の話じゃない“何か”の比喩であるかのように。
麗衣は答えられなかった。
けれど、その言葉の温度だけが、胸の奥にじんわりと残る。
「麗衣、困ったことあったらいつでも言ってよ。最近、ちょっと……大変そうだから」
優真はそう言って、ふっと笑った。
その一言が、なぜか怖かった。
——大変そう。
その言葉に、麗衣の呼吸が一瞬止まる。
(……やばい。隠せてない?)
顔に出たかもしれない。
声が少し上ずったかもしれない。
心のどこかで、優真の“目”は特別だと、麗衣は感じていた。
でも——学校では、しっかりしてなきゃ。明るくいなきゃ。
それが、自分の居場所を保つためのルールだから。
「え、全然。元気だよ」
何事もなかったように笑い返す。
目元までちゃんと笑えていることを祈りながら。
優真は何も言わずに、本棚の向こうへと歩いていった。
残された麗衣は、開いたページの上に視線を落とす。
“人が嘘をついたとき、その想いは目に見える形でこぼれ落ちる。まるで、花びらが静かに散るみたいに——”
その一文が、どうしてか、やけに胸に刺さった。
まるで、今この瞬間をまるごと、誰かに言い当てられたようで。
別の日の放課後。
校舎のざわめきの中、麗衣は図書室の奥にある窓際の席へ向かった。
この日は、蓮が友だちの家に遊びに行っているとのことで、久しぶりに自分だけの時間ができた。
慌ただしい毎日に慣れすぎていた麗衣にとって、ぽっかり空いた放課後は、かえって不思議なほど静かだった。
本棚の間を抜けて、埃の匂いと紙の静けさに包まれる。
誰にも触れられないこの場所では、自分の呼吸を確かめられるような気がする。
手に取ったのは、ジャンル分けしづらい一冊の本だった。
伝記のようでいて、少しファンタジーめいた世界観を含んでいる。
ふとした拍子に誰かの心の奥へそっと入り込んでくるような、不思議な物語。
そのページには、こんな一文があった。
“人が嘘をついたとき、その想いは目に見える形でこぼれ落ちる。まるで、花びらが静かに散るみたいに——”
「……そんなの、ほんとだったら、わたしなんて花びらまみれだよね」
思わずぽつりと呟いて、小さく肩をすくめた。
くすっと笑ってみたけれど、その笑い声が少しだけ震えていたのを、自分でも気づいていた。
——机に散らばる大量の薬の袋。冷えたカップラーメン。母の部屋の閉ざされたドア。
そして、小さな背中でうとうと眠る弟の姿。
(……大丈夫、隠せてる。ちゃんと“普通”にできてる)
頭に浮かんだ情景をかき消すように、ページをそっと閉じかけたとき、不意に隣から人の気配がした。
独り言を聞かれていたかもしれないと思うと、一気に心臓が跳ねる。
「それ、俺も読んだことある。面白いよね」
振り向くと、そこには優真が立っていた。
焦げ茶色の髪が少し乱れていて、光を受けた瞳が穏やかに揺れている。
「びっくりした……後ろから来ないでよ」
「ごめんごめん。麗衣がいるって気づいたから」
そう言って、彼は窓の外へ視線を向けた。
春風が吹き抜ける校庭。
枝先には、ようやく数輪の桜が咲き始めている。
風が触れるたび、ほんのわずかな花びらが空気に混じって、ゆっくりと舞った。
そのうちのひとひらが、図書室の窓の隙間からふわりと入り込んでくる。
ふたりの間に落ちたその花びらを、優真がそっと指先でつまんだ。
「……花びらが落ちるときって、なんとなく切ない気持ちになるよね」
まるでそれが、桜の話じゃない“何か”の比喩であるかのように。
麗衣は答えられなかった。
けれど、その言葉の温度だけが、胸の奥にじんわりと残る。
「麗衣、困ったことあったらいつでも言ってよ。最近、ちょっと……大変そうだから」
優真はそう言って、ふっと笑った。
その一言が、なぜか怖かった。
——大変そう。
その言葉に、麗衣の呼吸が一瞬止まる。
(……やばい。隠せてない?)
顔に出たかもしれない。
声が少し上ずったかもしれない。
心のどこかで、優真の“目”は特別だと、麗衣は感じていた。
でも——学校では、しっかりしてなきゃ。明るくいなきゃ。
それが、自分の居場所を保つためのルールだから。
「え、全然。元気だよ」
何事もなかったように笑い返す。
目元までちゃんと笑えていることを祈りながら。
優真は何も言わずに、本棚の向こうへと歩いていった。
残された麗衣は、開いたページの上に視線を落とす。
“人が嘘をついたとき、その想いは目に見える形でこぼれ落ちる。まるで、花びらが静かに散るみたいに——”
その一文が、どうしてか、やけに胸に刺さった。
まるで、今この瞬間をまるごと、誰かに言い当てられたようで。



