* * *

 「ねえ、麗衣」

 ふいに名前を呼ばれて、麗衣は驚いて顔を上げた。

 気を抜いた瞬間だったことに気づいて、慌てて口角を引き上げる。
 いつもより、ほんの少しだけ丁寧に。

 声の主は、同じクラスの男の子、望月優真だった。

 教室の窓際、柔らかな春の光を背にしたその姿は、相変わらずのんびりした空気をまとっている。

 ——その目だけが、まっすぐだった。

 焦げ茶色の髪が風で揺れ、くっきりとした瞳が、まるで胸の奥を見透かすみたいにこちらを捉えている。
 その目には、言葉よりも早く、何かが映っている気がして、なぜか背筋がすっと伸びる。

 「どうしたの? 優真」

 麗衣は、少し首を傾けながら問いかけた。

 優真とは、去年から同じクラス。
 特別親しいわけじゃないけど、気負わず話せる相手だ。
 たわいない会話も、ときどき交わすくらいには。

 「ん、花びらが落ちそうだったから」
 「え……?」

 思わず眉を寄せて、窓の外へ視線を向けた。
 校庭の桜は、まだ固いつぼみのまま。

 風に枝が揺れるたび、影だけが静かに地面を撫でていた。

 花びらが舞うには、もう少し時間がかかるはず——

 「そう?まだかかりそうじゃない?」
 「確かに。それもそうだね」

 肩をすくめて笑うその表情は、優真らしい穏やかさの中に、どこか冗談めかしたものが混ざっていた。

 麗衣は、つかみどころがない彼に首を傾げる。

 ふだんは誰にでも優しくて、先生にも頼られる気のいい男子。
 だけどときどき、こういう不思議な表情を見せる——。

 じっと見つめる視線と目があい、私は耐えられずその目をそっと逸らした。

 「はやく、咲くといいね。桜」

 話の流れでそんな風に会話を繋げる。
 すべてを見透かすような目が、なんとなく、苦手だった。

 「そうだね……」

 ぽつりと呟くようにそう言って、優真の手がふわりと動いた。

 彼の指先が、宙をつまむような仕草をする。
 何もない空間に、やさしく触れるように。

 誰も気に留めることのないその動きが、麗衣には、なぜか目を離せない光景だった。

 (……なにか、飛んでた?)

 尋ねかける言葉は出てこなかった。
 胸の奥で、小さな波紋がじんわりと広がる。

 「麗衣は、最近大丈夫?」

 ふと、優真がそう尋ねた。

 その声音は、あまりにも自然で、さっきの問いとは関係のない、ふつうのクラスメイトの気遣いだった。

 「え? うん、全然。元気だよ」

 麗衣は、いつもと変わらない笑顔を返した。
 ちゃんと目元まで笑えているか、心の中で確認しながら。

 優真はそれ以上何も言わず「そっか」とだけ言って、静かに席へ戻っていった。

 窓の外では、まだ咲かない桜が風に揺れている。

 でも——咲いていないはずのその枝の下、麗衣の足元に、誰にも見えない花びらが、ひとひら。

 静かに、落ちていた。

 その落下点に、ふとだけ、優真の視線がやさしく流れた。

 何も言わず、何も聞かず——けれど、優真の視線は、確かに“それ”を捉えていた。