* * *

 「優真。お昼、一緒に食べよう」

 授業が終わると同時にかけられたどこか決意を帯びたその声に、優真は「うん」と頷いて、何も聞かずに立ち上がった。

 昼休み、屋上へと続く階段の踊り場。

 誰も来ない、静かな場所で、優真と麗衣は並んでお弁当を開く。

 風がカーテンを揺らしていて、夏の匂いがかすかに漂っていた。

 「……思ったよりあっという間だった」

 麗衣が、笑いながら言う。

 「ちょっとは、落ち着いたの?」

 麗衣は「うん」と小さく頷いて、ゆっくりとこの1ヶ月の話を始めた。

 「児童相談所の人が来てくれて、いろいろ話す中で……お母さん、症状の悪化がかなり進んでるって分かったの。それで、入院することになった。病院の手続きとかも全部手伝ってもらっちゃって……こんなことまで頼っていいんだって、ちょっとびっくりした」

 そこまで話して、ふうっと小さく息を吐く。

 その表情には、ほんの少しだけ肩の力が抜けたような安堵があった。

 「蓮は、あれからちょっと塞ぎ込んじゃってて……しばらくはカウンセラーさんと会って様子をみてもらってた。夏休み中は、そういう施設に泊まったりもしてて」

「蓮は小さいからそのまま施設で暮らすことも考えてたんだけど、何回か会議を重ねて、私と一緒にいた方がいいって判断してもらえて……だから、ちょっと前からは二人暮らし」

 優真は、小さく頷きながら彼女の言葉を受け止めていた。

 迷いながらも、自分の居場所をきちんと選び取ったその姿勢に、思わず胸が熱くなる。 

 「でも、放課後にはケアワーカーさんが来てくれて、蓮のこととか、家事とか、いろいろ手伝ってもらえるんだって。……すごいよね」

 語尾に混じった小さな笑い声が、ようやく心からのものに聞こえた気がした。

 それが嬉しくて、優真は静かに息をついた。

 「あとね、いろんな補助金の手続きも教えてもらって、一緒にやってきたの。それで……体を壊すくらいならバイトを減らしなさいって、怒られちゃった」

 言いながら、少し照れたように笑う。

 それは、どこかくすぐったそうな、でもあたたかい笑顔だった。 

 きっと、これまで、自分を蔑ろにして生きることが当たり前だったんだ。

 誰にも迷惑をかけないように、弱音を吐かずに頑張ってきた彼女にとって、その言葉は、きっとはじめて本気で心配してくれた誰かからの叱責だった。

 だからこそ、少しだけ、嬉しかったのかもしれない。

 「全く辞めるのは、やっぱりできないから……休日だけにしようかなって」

 ぽつり、ぽつりと語られる言葉のなかには、これまで誰にも頼れなかった時間が滲んでいた。

 その声の奥には確かな前進の気配があり、それが、優真には何より嬉しかった。

 もう、ひとりで抱えなくてもいいんだと。

 麗衣がようやく、そう思えるようになったことが。

 「そっか。……ちゃんと、変わってきたんだね」
 「うん。だからもう、大丈夫」

 大丈夫——

 麗衣のその言葉が、本当に大丈夫そうに聞こえたのは、たぶん初めてだった。

 優真は、そっと麗衣の横顔を見つめた。

 かつては、笑顔のたびにふわりと落ちていた花びらが、今はもうどこにも見えなかった。

 (……もう、嘘をついてないんだ)

 その静かな確信が、胸の奥であたたかく広がっていく。

 ああ、麗衣はちゃんと助けられたんだ。

 誰かの手を借りて、ちゃんと声をあげて、自分の足で立っている。

 そう思えたことが、嬉しくてたまらなかった。

 「だから、優真にも、ありがとうって、ちゃんと伝えたくて。
 ……あのとき、優真が来てくれなかったら、きっと何も変わらなかった」 

 「ううん、俺なんか……ほんと、なんもしてないし」

 俯きがちにそう返した優真に、麗衣は小さく首を振った。

 そして、もう一度、まっすぐに目を見て、言葉を重ねる。 

 「ううん。ありがとう」

 優真は、目を細めて微笑んだ。
 けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった。 

 感謝されるようなことなんて、自分は何ひとつしていない。

 優真は本気でそう思っていた。

 そばにいたのは、ただ放っておけなかったからだ。

 誰かを救いたいと思ったのは、優しさからではなく、もっと自己中心的な理由だった。 

 あのときと同じ過ちを、もう二度と繰り返したくなかった。

 「大丈夫」という言葉を信じてしまったあの日の自分を、もう見たくなかった。 

 だから、助けたかった。

 麗衣を救うことが、自分を少しでも救うことになる気がしていた。

 優真は、麗衣の「ありがとう」にそっと笑みを返したまま、まぶしそうに目を細めていた。