* * *
そのあとは、まるで力が抜けたみたいに、座り込んだ。
外の夜風が、やさしくカーテンを揺らす。
(……疲れたな)
色々なことがありすぎて、疲れていた。
疲れているのに、頭は妙に冴えていて、眠気が来る気配が全くない。
身体は重たいのに、心がずっと走り続けているみたいだった。
その様子を見ていたのか、近くにいた優真が、そっと声をかけてくる。
「ちょっとだけ、喋ろうか」
優真はそう言って、部屋を移動し、リビングから縁側につながる窓を静かに開けた。
夜の風が、すっと部屋の中に流れ込んでくる。
涼しさと一緒に、少しだけ気持ちもほどけていく気がした。
縁側に出ると、夜風が頬を撫でた。
優真がキッチンから持ってきてくれたのは、コンビニのカップアイスだった。
木のスプーンを差し出され、麗衣は小さく笑った。
「冷たいもの、久しぶりかも」
「なら良かった」
ひとくち口に運んだ瞬間、甘さと冷たさがじんと沁みた。
「……おいしい」
そう呟いた声が、震えた。
気づけば、頬をひとすじ、涙が伝っていた。
理由はもうどれなのかも分からない。
それほどいろんなことがあって、感情が追いついていなかった。
止めようとしても、次々とあふれてくる涙をそのままに麗衣は俯く。
「あは、ごめん、なんでだろ……」
アイスを握る手を震わせながら、呟いた。
優真は隣に座ったまま、静かに麗衣を引き寄せる。
肩にそっと手を回し、麗衣の頭を自分の肩へとあずける。
そして、もう片方の手でやさしく髪を撫でた。
言葉よりも、温度のあるやさしさだった。
しばらく、ふたりとも何も言わずに、ただ風の音だけを聞いていた。
縁側に吹き込む夜風が、肌に心地よくて、言葉を出すタイミングを見失っていた。
そんな沈黙を破るように、優真が小さく息を吐いた。
そして、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。
「麗衣。明日、学校に相談しよう」
その声は穏やかだったけれど、どこか決意のにじむ響きがあった。
麗衣は、思わずぱちりと瞬きをした。
「……え?」
その提案に、胸の奥がざわついた。
まったく予想していなかったわけじゃない。
むしろ、心のどこかで。
優真なら、そう言うかもしれないと、思っていた。
けれどーーこれは家庭のこと。
家の中だけで解決すべきことで、学校に相談するなんて、きっと大げさで、迷惑で、恥ずかしいことのはずだった。
「でも……これは、家の問題だから……」
視線を落とす麗衣に、優真はすぐに返す。
「いいんだよ。家のことでも、ちゃんと相談していいんだ。児童相談所っていう機関もあるし、ひとり親家庭の支援制度とか、いろんな助け方があるんだよ」
優真の声は、まっすぐで、やさしかった。
説得というより、当たり前のこととして伝えてくれているような口ぶりだった。
でも、麗衣にとっては、その当たり前が、まったく知らなかった世界だった。
(児童相談所……支援制度……)
今までどこか他人事のようにしか感じてこなかった言葉が、急に自分の現実に重なってきて、思わず、目を見開いた。
「どうして、そんなこと知ってるの?」
声に驚きがにじんでしまったのは、自分でも気づいていた。
そのくらい、世界が少しだけ傾いたような気がした。
麗衣が顔を上げると、優真は少し照れたように笑った。
「ちょっと……調べてたんだ」
その表情が、なんだか少しだけ幼く見えて、ふっと笑ってしまう。
けれど、その直後にまた、ぽろりと涙がこぼれた。
「優真って、すごいね……」
言葉にした途端、胸の奥がじんと熱くなる。
「私、ずっと必死で頑張ってるつもりだったけど……全然、冷静じゃなかった。そんなこと、調べようなんて思いもしなかった」
言いながら、情けなさと悔しさが込み上げてきて、下を向く。
「優真だったら……蓮に怖い思いをさせる前に、ちゃんと対処できてたんだろうな」
声が少しだけ震えていた。
自分で自分を責めるように、痛みをごまかすように、ただそう言った。
「違うよ」
優真の声は静かで、でもはっきりとしていた。
「外から見る景色と、中からの景色は、ぜんぜん違う。きっと冷静になるなんてできないよ。それでも麗衣は、蓮を守った。だから、俺を呼んでくれたんだろ」
その一言に、胸がぎゅっと締めつけられた。
たったそれだけの言葉なのに、今までどれだけ求めていたかわからないくらい、心の奥に染みていく。
「……明日、学校で相談してみる」
小さく決意を込めて言ったその言葉に、優真はすぐ頷いた。
「優真も……一緒にいてくれる?」
視線を向けると、彼は当たり前のように言った。
「もちろん」
その何気ない一言が、胸の奥までじんわり沁みた。
手にしていたアイスをふと見て、麗衣が苦笑する。
「アイス、ちょっと溶けちゃった」
「溶けかけくらいが美味しいんだって」
「……ほんとだ、美味しい」
スプーンを口に運びながら、ふたりしてふっと笑い合った。
さっきまであんなに泣いていたのに、不思議なくらい穏やかな気持ちだった。
笑い合った空気が、夜風に混じって、やさしく庭先へ溶けていく。
少し湿った夏の匂いが、ふたりのあいだをそっとつなぐように、漂っていた。
しばらく、くだらない話をしながら縁側で過ごしていた。
夜風が心地よくて、気づけばまぶたが少しずつ重くなってくる。
そんなとき、優真がふいに口を開いた。
「……あの、さ」
少しだけ声を低くして、ためらいがちに言葉を探す。
「ちょっとだけ、いい?」
「うん?」
不思議そうに首を傾げたその瞬間、優真がそっと、麗衣を引き寄せた。
予想していなかったその動きに、体がわずかにこわばる。
「……い、いたっ」
背中と腰に、さっきの痛みが走って思わず顔をしかめる。
「ご、ごめん」
優真がすぐに力を緩める。
けれど、腕は離れなかった。
まるで、離してしまえば何か大事なものが崩れてしまうとでも思っているかのように、彼の手は、確かにそこに留まっていた。
麗衣は、驚きながらも、彼の背中が小さく震えていることに気づく。
ぽん、ぽん、と背中をやさしく叩いた。
「大丈夫だよ」と言葉にする代わりに、ぬくもりでそう伝えるように。
背中をやさしく叩くと、彼の呼吸がふっと緩んだ。
「……はは、ごめん、俺」
ようやく離れた優真の目元が、ほんのり赤く濡れていた。
麗衣はその涙に、胸がきゅっと締めつけられるような思いがした。
「怪我……させちゃったけど」
ぽつりとこぼれた声は、自分を責めるように低く震えていた。
「それでも、無事で……ほんとに、よかった」
たったそれだけの言葉に、どれだけの気持ちが詰まっているんだろう。
麗衣は、返す言葉をすぐには見つけられなかった。
ただ、その声から、自分の存在を大切に思ってくれていることが伝わって。
胸の奥が、じんわりとあたたかくなった。
「じゃあ、おやすみ」
優真はふっと笑って、手を振るようにして部屋を出ていく。
その背中を見送ったあとも、麗衣はその場から動けなかった。
頬がぽうっと熱を持ち、心臓がドクドクとうるさく鳴っていた。
さっきまで泣いていたのに、今はまるで違う理由で、胸がいっぱいだった。
——なに、今の。
戸惑い。照れ。うれしさ。安堵。
いろんな気持ちが入り混じって、うまく整理できない。
麗衣は、そっと視線を空に向けた。
夜空は曇りがちだったけれど、雲の切れ間から、小さな星がひとつだけ瞬いていた。
涼しい風が頬を撫でていく。
さっきまで火照っていた顔に、それがやけに心地よかった。
そのあとは、まるで力が抜けたみたいに、座り込んだ。
外の夜風が、やさしくカーテンを揺らす。
(……疲れたな)
色々なことがありすぎて、疲れていた。
疲れているのに、頭は妙に冴えていて、眠気が来る気配が全くない。
身体は重たいのに、心がずっと走り続けているみたいだった。
その様子を見ていたのか、近くにいた優真が、そっと声をかけてくる。
「ちょっとだけ、喋ろうか」
優真はそう言って、部屋を移動し、リビングから縁側につながる窓を静かに開けた。
夜の風が、すっと部屋の中に流れ込んでくる。
涼しさと一緒に、少しだけ気持ちもほどけていく気がした。
縁側に出ると、夜風が頬を撫でた。
優真がキッチンから持ってきてくれたのは、コンビニのカップアイスだった。
木のスプーンを差し出され、麗衣は小さく笑った。
「冷たいもの、久しぶりかも」
「なら良かった」
ひとくち口に運んだ瞬間、甘さと冷たさがじんと沁みた。
「……おいしい」
そう呟いた声が、震えた。
気づけば、頬をひとすじ、涙が伝っていた。
理由はもうどれなのかも分からない。
それほどいろんなことがあって、感情が追いついていなかった。
止めようとしても、次々とあふれてくる涙をそのままに麗衣は俯く。
「あは、ごめん、なんでだろ……」
アイスを握る手を震わせながら、呟いた。
優真は隣に座ったまま、静かに麗衣を引き寄せる。
肩にそっと手を回し、麗衣の頭を自分の肩へとあずける。
そして、もう片方の手でやさしく髪を撫でた。
言葉よりも、温度のあるやさしさだった。
しばらく、ふたりとも何も言わずに、ただ風の音だけを聞いていた。
縁側に吹き込む夜風が、肌に心地よくて、言葉を出すタイミングを見失っていた。
そんな沈黙を破るように、優真が小さく息を吐いた。
そして、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開く。
「麗衣。明日、学校に相談しよう」
その声は穏やかだったけれど、どこか決意のにじむ響きがあった。
麗衣は、思わずぱちりと瞬きをした。
「……え?」
その提案に、胸の奥がざわついた。
まったく予想していなかったわけじゃない。
むしろ、心のどこかで。
優真なら、そう言うかもしれないと、思っていた。
けれどーーこれは家庭のこと。
家の中だけで解決すべきことで、学校に相談するなんて、きっと大げさで、迷惑で、恥ずかしいことのはずだった。
「でも……これは、家の問題だから……」
視線を落とす麗衣に、優真はすぐに返す。
「いいんだよ。家のことでも、ちゃんと相談していいんだ。児童相談所っていう機関もあるし、ひとり親家庭の支援制度とか、いろんな助け方があるんだよ」
優真の声は、まっすぐで、やさしかった。
説得というより、当たり前のこととして伝えてくれているような口ぶりだった。
でも、麗衣にとっては、その当たり前が、まったく知らなかった世界だった。
(児童相談所……支援制度……)
今までどこか他人事のようにしか感じてこなかった言葉が、急に自分の現実に重なってきて、思わず、目を見開いた。
「どうして、そんなこと知ってるの?」
声に驚きがにじんでしまったのは、自分でも気づいていた。
そのくらい、世界が少しだけ傾いたような気がした。
麗衣が顔を上げると、優真は少し照れたように笑った。
「ちょっと……調べてたんだ」
その表情が、なんだか少しだけ幼く見えて、ふっと笑ってしまう。
けれど、その直後にまた、ぽろりと涙がこぼれた。
「優真って、すごいね……」
言葉にした途端、胸の奥がじんと熱くなる。
「私、ずっと必死で頑張ってるつもりだったけど……全然、冷静じゃなかった。そんなこと、調べようなんて思いもしなかった」
言いながら、情けなさと悔しさが込み上げてきて、下を向く。
「優真だったら……蓮に怖い思いをさせる前に、ちゃんと対処できてたんだろうな」
声が少しだけ震えていた。
自分で自分を責めるように、痛みをごまかすように、ただそう言った。
「違うよ」
優真の声は静かで、でもはっきりとしていた。
「外から見る景色と、中からの景色は、ぜんぜん違う。きっと冷静になるなんてできないよ。それでも麗衣は、蓮を守った。だから、俺を呼んでくれたんだろ」
その一言に、胸がぎゅっと締めつけられた。
たったそれだけの言葉なのに、今までどれだけ求めていたかわからないくらい、心の奥に染みていく。
「……明日、学校で相談してみる」
小さく決意を込めて言ったその言葉に、優真はすぐ頷いた。
「優真も……一緒にいてくれる?」
視線を向けると、彼は当たり前のように言った。
「もちろん」
その何気ない一言が、胸の奥までじんわり沁みた。
手にしていたアイスをふと見て、麗衣が苦笑する。
「アイス、ちょっと溶けちゃった」
「溶けかけくらいが美味しいんだって」
「……ほんとだ、美味しい」
スプーンを口に運びながら、ふたりしてふっと笑い合った。
さっきまであんなに泣いていたのに、不思議なくらい穏やかな気持ちだった。
笑い合った空気が、夜風に混じって、やさしく庭先へ溶けていく。
少し湿った夏の匂いが、ふたりのあいだをそっとつなぐように、漂っていた。
しばらく、くだらない話をしながら縁側で過ごしていた。
夜風が心地よくて、気づけばまぶたが少しずつ重くなってくる。
そんなとき、優真がふいに口を開いた。
「……あの、さ」
少しだけ声を低くして、ためらいがちに言葉を探す。
「ちょっとだけ、いい?」
「うん?」
不思議そうに首を傾げたその瞬間、優真がそっと、麗衣を引き寄せた。
予想していなかったその動きに、体がわずかにこわばる。
「……い、いたっ」
背中と腰に、さっきの痛みが走って思わず顔をしかめる。
「ご、ごめん」
優真がすぐに力を緩める。
けれど、腕は離れなかった。
まるで、離してしまえば何か大事なものが崩れてしまうとでも思っているかのように、彼の手は、確かにそこに留まっていた。
麗衣は、驚きながらも、彼の背中が小さく震えていることに気づく。
ぽん、ぽん、と背中をやさしく叩いた。
「大丈夫だよ」と言葉にする代わりに、ぬくもりでそう伝えるように。
背中をやさしく叩くと、彼の呼吸がふっと緩んだ。
「……はは、ごめん、俺」
ようやく離れた優真の目元が、ほんのり赤く濡れていた。
麗衣はその涙に、胸がきゅっと締めつけられるような思いがした。
「怪我……させちゃったけど」
ぽつりとこぼれた声は、自分を責めるように低く震えていた。
「それでも、無事で……ほんとに、よかった」
たったそれだけの言葉に、どれだけの気持ちが詰まっているんだろう。
麗衣は、返す言葉をすぐには見つけられなかった。
ただ、その声から、自分の存在を大切に思ってくれていることが伝わって。
胸の奥が、じんわりとあたたかくなった。
「じゃあ、おやすみ」
優真はふっと笑って、手を振るようにして部屋を出ていく。
その背中を見送ったあとも、麗衣はその場から動けなかった。
頬がぽうっと熱を持ち、心臓がドクドクとうるさく鳴っていた。
さっきまで泣いていたのに、今はまるで違う理由で、胸がいっぱいだった。
——なに、今の。
戸惑い。照れ。うれしさ。安堵。
いろんな気持ちが入り混じって、うまく整理できない。
麗衣は、そっと視線を空に向けた。
夜空は曇りがちだったけれど、雲の切れ間から、小さな星がひとつだけ瞬いていた。
涼しい風が頬を撫でていく。
さっきまで火照っていた顔に、それがやけに心地よかった。



