* * *

 蓮の手を握ったまま、麗衣は優真の家へと向かった。

 こんな夜に、ランドセルを背負った蓮の肩が、どこか不思議で、思わず見つめてしまう。

 優真の家に向かう前、一度だけ、家に戻って必要なものを取りに行った。

 公園からの道は、たった数分なのに、やけに長く感じた。

 アパートの階段を上がり、玄関の前に立った瞬間、胸の奥が、ぎゅっと音を立ててすぼまる感覚がした。

 空気が重い。

 さっきまで自分がいた、あの淀んだ空気が、まだ扉の向こうに漂っている気がした。

 (呑まれちゃだめ)

 そう自分に言い聞かせるようにして、麗衣は振り返って笑った。

 「蓮。明日の荷物、用意できる?」

 できるだけ明るい声で、蓮に伝える。

 けれど、蓮は動かなかった。

 ぴたりと足を止めて、玄関のドアを見つめたまま固まっていた。

 その瞳は、怯えきったまま。
 麗衣の言葉も、届いていないようだった。

 (……あ)

 その姿を見た瞬間、はっとした。

 自分の中にあった「なんとかなる」「一時的なもの」そんな希望的な言い訳が、一気に崩れた。

 帰れないのだ。

 少なくとも、今この家は、蓮が帰れる場所じゃない。

 それを、蓮の表情が、教えてくれた。

 ふと横を見ると、優真がじっとこちらを見ていた。

 帰らないでと提案してくれたことに、心の中で感謝する。

 さっきの私には、その判断はできなかったけど、それが正しい判断だったのは確かだった。

 「大丈夫?」

 優真の静かな問いかけに、麗衣は少しだけ間を置いて頷いた。

 「ごめん、蓮をお願い」

 震える蓮の手を離し、自分だけが家の中へ入る。

 暗い廊下を進み、蓮のランドセルと自分の簡単な荷物を急いでまとめた。

 リビングの扉をそっと開けると、母がソファに倒れるように寝ていた。

 口元はわずかに開いていて、薬の袋が床に転がっている。

 きっと、このまま朝まで起きない。

 それが分かっていても、また急に暴れ出したらと、そんな恐怖で足が重たくなっていた。

 麗衣は、足元に落ちていたブランケットを、そっと母にかけた。

 手を触れることも、声をかけることもできなかったけれど、これくらいしか、できないけれど。

 何度も苦しそうに泣いて謝っていた母の姿を思い出す。

 (分かってる。お母さんだって、こんな風になりたかったわけじゃない……)

 玄関へ戻ると、蓮と優真がそのまま待っていてくれた。

 「行こっか」

 そう言って、小さく微笑むと、蓮は麗衣の手を取り、強く握り返した。