* * *

(やばい、急げ急げ……)

 優真と話していて、帰るのがいつもより遅くなってしまった。

 スーパーに駆け込んで、まっすぐお惣菜と見切り品コーナーへ向かう。

 明日明後日の調理に使う食材と、今日のお惣菜を適当にカゴに入れ、レジへと急いだ。

 レジの横にあるワゴンに蓮の好きなチョコレートクッキーがあった。

 値引きはされていないけれど、思わずそのお菓子を手に取る。

 優真はああ言ってくれたけど、もし蓮がいなかったらなんて、ほんの一瞬でも思ってしまったことが、心の奥で罪悪感として渦巻いていた。

  ほんの小さな贈り物だけど、それが少しでも償いになればと願い、カゴへと入れる。

 蓮の笑顔が見たかった。
 自分の中の黒い気持ちを、打ち消したかった。

 ーけれどその日、蓮の笑顔はみられなかった。

 自転車を置き、古いアパートの階段を駆け上がる。

 鉄の手すりは湿気を含んで錆びついていて、足音が軽く響く。

 2階へ差しかかったときだった。

 男の子の泣き声が、扉の向こうからかすかに聞こえてきた。

 その瞬間、胸の奥がぎゅっと強く締めつけられる。

 血の気が引くのが自分でもわかるほど、手足が冷たくなる。

 (蓮——?)

 嫌な想像が、頭の中を一気に駆け巡る。

 麗衣はバッグを握ったまま、ほとんど無意識に階段を駆け上がった。

 ドアを開けた瞬間、荒れた空気が一気に押し寄せてきた。

 「うるさいって言ってるでしょ!?なんでわかんないのよ!」

 怒鳴り声が、部屋の奥から響く。

 それは紛れもなく、母の声だった。

 部屋の中は散らかり放題だった。

 倒れた椅子。
 散乱したクッション。
 割れた薬のパッケージ。

 その真ん中で、母が鬼のような形相で立ち尽くしていた。

 彼女の手には、テレビのリモコン。
 そして、振り上げられた先には、蓮がいた。

 状況を理解した瞬間、麗衣は反射的に叫んでいた。

 「お母さん、やめて!!」

 部屋の隅で膝を抱え、怯えた目で泣き叫ぶ蓮の姿があった。

 いつか、こんな日が来るかもしれない。

 心のどこかで、ずっと不安に思っていたことだった。

 母の気分が不安定になる日があることも、薬が効かないときがあることも、知っていたから。

 言葉が通じなくなる瞬間があることも、怒りの矛先が簡単に誰かに向かうことも、何度も見てきた。

 それでも、小学三年生の、まだ小さな蓮にだけは、矛先が向くことはないと信じていた。

 たとえ、麗衣がどれだけ怒鳴られても、突き飛ばされても、蓮だけには、と。

 麗衣の怒鳴り声に驚いたのか、母の手が、力なくリモコンを下ろした。

 麗衣は何も言わず、母の横をすり抜けて、まっすぐ蓮のもとへ駆け寄った。

 畳の上にうずくまっている蓮を、そのまま腕に抱きしめる。

 「蓮、ごめんね、怖かったよね。もう大丈夫だから」

 蓮の小さな体は、小刻みに震えていた。
 その様子に怒りと悲しみが同時に沸いてくる。

 母の存在が、まるでそこにないかのように振る舞ったその瞬間、怒りの気配が、ぴたりと背後で止まり、次の瞬間、何かが空気を裂いて飛んできた。

 リモコンが、すぐ脇の壁に叩きつけられ、鈍い音を立てて床に落ちる。

 「蓮がいるんだよ!いい加減にしてよ!」

 咄嗟に叫んだ自分の声が、部屋中に響き渡った。

 それが母の逆鱗に触れた。

 「うるさいうるさいうるさい!!私が悪いっていうの!?あんた達を産んだのは私よ!なのに、なんなのよその目は!!」

 母が叫びながら、近くのものを次々と薙ぎ倒していく。

 クッション、コップ、棚の上の箱、空のペットボトル。

 それらが床に落ちるたび、部屋がまるで小さな地震に襲われたみたいに揺れる気がする。

 (やめて、もう……やめて)

 どんどん散らかっていく部屋に泣きたくなる。

 大惨事だ。

 こんなことにならないように、いつも気を張っていたのに。

 「お母さん、ごめん。大きな声出して、ごめんね」

 静かに、いつものように、母をなだめる声で母に近付いた。

 でももう、その声は届いていないみたいだった。

 母はふらふらと、キッチンへ入っていく。

 その隙を逃すまいと、麗衣は蓮の手を引いた。

 玄関へ向かい、自分のスマホを取り出す。

 優真の名前を見つめて、ほんの一瞬だけ、迷った。

 ——でも、震える指でその通話ボタンを押す。

 「蓮、ごめんね。近くの公園でちょっとだけ待ってて。すぐに迎えに行くから」

 いいながら、優真に繋がったスマホを蓮に託す。

 「電話が繋がったら、公園の場所を伝えて。そしたらこの電話のお兄さんが、絶対来てくれるから」

 蓮は大粒の涙をこぼし、ふるふると頭を左右に振った。

 「お姉ちゃんも一緒に行こうよ……」
 「お母さんを、ひとりにできないでしょ。蓮、わかるよね?」
 「でも……」

 バッグから、さっき買ったお菓子を取り出す。

 本当は、こんなふうに渡したくなかった。

 贈り物として笑顔で渡したかった。

 「大丈夫だから。これ食べて、待ってて。ね?」

 麗衣は、完璧な笑顔をつくった。

 涙を見せないように、声が震えないように、必死で。

 蓮は震える手でお菓子を受け取り、小さく頷いた。

 「うん、じゃあ行ってらっしゃい!」

 そして、小さな背中を見送り、私は部屋を振り返った。

 玄関のドアが静かに閉まる音がして、再び家の中に重たい沈黙が戻ってくる。

 麗衣はゆっくりと母のいるキッチンへ足を運んだ。

 「お母さん、ごめんね。どうしたの?」

 声をできるだけやわらかく、静かに、ひとつひとつの言葉を選びながら話しかける。

 興奮しているときの母には、怒鳴っても意味がない。むしろ逆効果だ。

 小さいころから、何度も失敗してきた。

 何度も、突き飛ばされ、物を投げられた。
 そうやって、確かに学んできたのだ。

 怒らず、否定せず、ただ肯定するように、優しく。それが唯一の方法だと、信じてきた。

 「うるさい……うるさいうるさい、なによあんた……」

 けれど、今日の母は、食器棚の前でわなわなと震えていた。

 何かに憑かれたような目をして、麗衣を睨みつける。

 「私は悪くないのに!私がこんなになるのはあんたたちのせいよ!!」

 叫び声と同時に、母の手が突き出される。

 ——突き飛ばされた。

 重力に引かれるように、背中から倒れ込む。

 食器棚にぶつかり、強く背中を打って一瞬息ができなくなった。

 それでも、母の姿を目で追う。

 (お願い、もう落ち着いて……)

 「お母さん、大丈夫だから。話聞くから」

 笑顔がつくれているかもわからなかった。

 「なによ……その顔……」

 次の瞬間。

 キッチンのカウンターの上にあったガラスのコップが、母の手に握られた。

 叫ぶ間もなく、それが投げられる。

 ガシャンッ——!

 耳を裂くような音と共に、強い衝撃が腕に走った。
 腕にガラスの重みと痛みが残る。

 (痛い——)

 飛び散った破片が頬に当たり、じんわりとした熱と、すぐに流れ出す生ぬるい感触がした。

 触れると、頬から、血が伝っていった。

 割れたガラスの音が静まったあと、しばらくして、母は、ハッとしたように目を見開いた。

 麗衣の腕から血が流れているのを見て、口元を手で覆いながら後ずさる。

 「やだ……私……やだ、どうして……」
 「ごめんね、ごめんね、違うの、そんなつもりじゃなかったの……!」

 母はその場に崩れ落ち、泣き喚いた。

 「麗衣、本当にごめん、ごめん……」

 何度も繰り返されるごめんの声が、部屋中に反響する。

 麗衣は、崩れ落ちる母の様子をぼんやりと見つめながら、座り込んでいた。

 ずきずきと痛む腕と少し動くと感じる背中の鈍痛を感じながら。

 頬を伝う、血の感触が気持ち悪い。

 「大丈夫だから」

 口だけが、条件反射のようにそう言っていた。

 痛みなんてどうでもいい。
 この程度で、母の癇癪が治まったのならいい方だ。

 そんな、諦めの感情で心が埋め尽くされる。

 けれど、母に寄り添う気力も、もうどこにもなかった。

 身体も心も、まるで力が抜けたように動かなかった。

 ただ、割れたガラスの破片と一緒に、自分の何かが散らばっていくのを感じていた。