* * *
その日の夕方。
空が紫に染まり始めた頃、教室にはもう数人しか残っていなかった。
窓側の席に座る麗衣は、プリントの端をゆっくりと折り曲げていた。
何も考えないように、指先へと意識を逃がす。
「おー、またなんか思い悩んでるね?」
突然の声に、麗衣は驚いて顔を上げた。
心の内側を覗かれたような気がして、思わず目を大きく見開く。
「……なんで、わかるの」
問いかけながらも、自分の表情にどこか出ていたのかもしれないと思った。
優真には、ずっと、見透かされているのだから。
「そりゃ、見てたから」
何でもないような口調で返されたその一言が、思いのほか深く胸に刺さった。
優真の見てたは、ただの観察じゃない。
ちゃんと、気にかけて、見守ってくれている。
そんな温度を含んでいて。
少し前までなら、こういう優真の視線はむしろ怖かった。
「見抜かれる」ことが、自分の弱さを暴かれるようで、苦手だった。
けれど今は違う。
優真が知ってくれていること、その痛みに気づいてくれていることが、確かに心強かった。
……もし、今の私が、何も背負っていなくて、もっと自由だったら。
いまここにある気持ちを、恋って呼べるのかもしれない。
そんなことをふと思って、自分でもくだらないなと思った。
だけど、なぜだか少しだけ肩の力が抜けて、小さく笑みがこぼれた。
「……ねえ、優真って、なんでそんなに優しくしてくれるの」
自覚のないまま心の奥を差し出してしまったようで、言ったあとに少しだけ息が詰まった。
無意識に、心の奥に手を伸ばしてしまったような感覚だった。
優真は少しだけ目を見開いたあと、ほんの短く息をついた。
それから、ゆっくりと言葉を選ぶように口を開く。
「……放っておけないからかな」
ぽつりと落ちたその言葉は、まるで別の誰かに向けているようにも聞こえた。
優真はふと視線を落として、空中にそっと手を伸ばす。
——何もないはずの空間を、指先でそっとつまむように。
「見えてるのに助けられないのは、嫌だから」
たまに、彼がそうやって何かを掴もうとする場面を見かけることがあった。
風でも埃でもない、もっと見えないなにか。
それは不思議な仕草だったけれど、いつも彼は何も言わないから、麗衣もそれ以上は聞かなかった。
「放っておけない……か」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
きっと、それは、優しい優真なら、誰にでも向けられる優しさなんだと思う。
でも、今だけは、自分だけが向けられているような気がしてしまった。
「助かってるよ。私はもう十分」
独り言のようにこぼれたその言葉は、心の奥から滲み出た本音だった。
優真がくれたあたたかさに、どれだけ救われているか。
ひとりで頑張るしかなかった毎日の中で、こうして誰かに気にかけてもらえることが、どれほど力になっているか。
本当に、十分すぎるくらいだと、心から思っていた。
「私ね……今日、思っちゃったの。私だって楽しい思い出に参加したいよって」
だから、麗衣は、ゆっくりと、口を開いた。
それは決して誰にでも言えるようなことじゃなかったけれど、優真の安心感が自然と口を開かせていた。
「そんなの、思っちゃいけないのに。たったひとりの大切な弟なのに。絶対に守りたいって思ってるのに……正直、蓮がいなかったら行けたかなって、思っちゃったの」
言葉を絞り出すように吐きながら、麗衣の声はどんどん細く、掠れていった。
まっすぐに顔を上げられず、膝の上でぎゅっと手を握りしめる。
震えるその肩を、優真は黙って見つめていた。
何も言わず、遮らず、ただそこにいて聞いてくれる。
その静かな存在が、苦しいほど優しかった。
「お母さんのことも、もう……もう、嫌だって、思う日がある。限界だよ、って、叫びたくなる日がある。本当に私、最低で、嫌になる」
言葉を継ぐたびに、胸の奥にため込んできたものが少しずつあふれていく。
声ではなく、心が泣いているようだった。
「……」
優真は依然として何も言わなかった。
ただ視線だけは逸らさずに、麗衣の言葉のすべてを受け止めていた。
「ごめんね。こんなこと、さすがに重いよね」
ぽつりとこぼした言葉のあと、麗衣は困ったように笑った。
無理やり口角を上げたその表情は、どこか泣き出しそうでもあった。
優真は、少しだけ視線を伏せたまま、ゆっくりと息を吸い込んだ。
そして顔を上げ、静かに、でもはっきりとした声で言った。
「そんなの、思って当たり前だよ」
その言葉を聞いた瞬間、麗衣は小さく息を呑んだ。
(——え?)
心の中で、誰にも聞こえない驚きの声が跳ねた。
当たり前なんて、そんなわけない。
大切な家族を、嫌だと思ったり、重いと感じたり、いなければよかったなんて思うこと。
そんなの、最低だって、どう考えたって許されることじゃないのに。
優真は、それをただ、まっすぐな目で「当たり前だ」と言った。
責めなかった。
咎めなかった。
軽くも、しなかった。
その事実が、ひどく不意打ちのようで、胸の奥を強く揺らした。
「そんな状況で、嫌にならない方が無理だって。誰でもそうなる。むしろ、よくここまで我慢してるよ」
優真の声は、変わらず静かで、まっすぐだった。
その言葉ひとつひとつが、心にそっと手を差し伸べるように、あたたかく響いてくる。
「……そんなふうに、言っていいの?」
思わずこぼれた問いに、優真はほんの一瞬だけ目を細めた。それから、まるで当然のように、言った。
「言っていいに決まってる」
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がふるふると崩れていく。
涙が、にじみ始めた。
今まで誰にも言えなかった黒い気持ちが、こんなふうに、あたたかく肯定されるなんて。
信じられなくて、でもうれしくて、涙が止まらなかった。
「……ありがとう」
やっと、心からそう言えた。
すると優真は、そっと手を伸ばして、麗衣の目元に触れた。
指先で涙をぬぐいながら、まっすぐに彼女の目を見る。
「大丈夫だよ」
そう言って、優真はやわらかく笑った。
その笑顔が、あまりにもやさしくて、あたたかくて——
胸の奥が、じんわりと熱を帯びていくのを、麗衣はただ黙って感じていた。
その日の夕方。
空が紫に染まり始めた頃、教室にはもう数人しか残っていなかった。
窓側の席に座る麗衣は、プリントの端をゆっくりと折り曲げていた。
何も考えないように、指先へと意識を逃がす。
「おー、またなんか思い悩んでるね?」
突然の声に、麗衣は驚いて顔を上げた。
心の内側を覗かれたような気がして、思わず目を大きく見開く。
「……なんで、わかるの」
問いかけながらも、自分の表情にどこか出ていたのかもしれないと思った。
優真には、ずっと、見透かされているのだから。
「そりゃ、見てたから」
何でもないような口調で返されたその一言が、思いのほか深く胸に刺さった。
優真の見てたは、ただの観察じゃない。
ちゃんと、気にかけて、見守ってくれている。
そんな温度を含んでいて。
少し前までなら、こういう優真の視線はむしろ怖かった。
「見抜かれる」ことが、自分の弱さを暴かれるようで、苦手だった。
けれど今は違う。
優真が知ってくれていること、その痛みに気づいてくれていることが、確かに心強かった。
……もし、今の私が、何も背負っていなくて、もっと自由だったら。
いまここにある気持ちを、恋って呼べるのかもしれない。
そんなことをふと思って、自分でもくだらないなと思った。
だけど、なぜだか少しだけ肩の力が抜けて、小さく笑みがこぼれた。
「……ねえ、優真って、なんでそんなに優しくしてくれるの」
自覚のないまま心の奥を差し出してしまったようで、言ったあとに少しだけ息が詰まった。
無意識に、心の奥に手を伸ばしてしまったような感覚だった。
優真は少しだけ目を見開いたあと、ほんの短く息をついた。
それから、ゆっくりと言葉を選ぶように口を開く。
「……放っておけないからかな」
ぽつりと落ちたその言葉は、まるで別の誰かに向けているようにも聞こえた。
優真はふと視線を落として、空中にそっと手を伸ばす。
——何もないはずの空間を、指先でそっとつまむように。
「見えてるのに助けられないのは、嫌だから」
たまに、彼がそうやって何かを掴もうとする場面を見かけることがあった。
風でも埃でもない、もっと見えないなにか。
それは不思議な仕草だったけれど、いつも彼は何も言わないから、麗衣もそれ以上は聞かなかった。
「放っておけない……か」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
きっと、それは、優しい優真なら、誰にでも向けられる優しさなんだと思う。
でも、今だけは、自分だけが向けられているような気がしてしまった。
「助かってるよ。私はもう十分」
独り言のようにこぼれたその言葉は、心の奥から滲み出た本音だった。
優真がくれたあたたかさに、どれだけ救われているか。
ひとりで頑張るしかなかった毎日の中で、こうして誰かに気にかけてもらえることが、どれほど力になっているか。
本当に、十分すぎるくらいだと、心から思っていた。
「私ね……今日、思っちゃったの。私だって楽しい思い出に参加したいよって」
だから、麗衣は、ゆっくりと、口を開いた。
それは決して誰にでも言えるようなことじゃなかったけれど、優真の安心感が自然と口を開かせていた。
「そんなの、思っちゃいけないのに。たったひとりの大切な弟なのに。絶対に守りたいって思ってるのに……正直、蓮がいなかったら行けたかなって、思っちゃったの」
言葉を絞り出すように吐きながら、麗衣の声はどんどん細く、掠れていった。
まっすぐに顔を上げられず、膝の上でぎゅっと手を握りしめる。
震えるその肩を、優真は黙って見つめていた。
何も言わず、遮らず、ただそこにいて聞いてくれる。
その静かな存在が、苦しいほど優しかった。
「お母さんのことも、もう……もう、嫌だって、思う日がある。限界だよ、って、叫びたくなる日がある。本当に私、最低で、嫌になる」
言葉を継ぐたびに、胸の奥にため込んできたものが少しずつあふれていく。
声ではなく、心が泣いているようだった。
「……」
優真は依然として何も言わなかった。
ただ視線だけは逸らさずに、麗衣の言葉のすべてを受け止めていた。
「ごめんね。こんなこと、さすがに重いよね」
ぽつりとこぼした言葉のあと、麗衣は困ったように笑った。
無理やり口角を上げたその表情は、どこか泣き出しそうでもあった。
優真は、少しだけ視線を伏せたまま、ゆっくりと息を吸い込んだ。
そして顔を上げ、静かに、でもはっきりとした声で言った。
「そんなの、思って当たり前だよ」
その言葉を聞いた瞬間、麗衣は小さく息を呑んだ。
(——え?)
心の中で、誰にも聞こえない驚きの声が跳ねた。
当たり前なんて、そんなわけない。
大切な家族を、嫌だと思ったり、重いと感じたり、いなければよかったなんて思うこと。
そんなの、最低だって、どう考えたって許されることじゃないのに。
優真は、それをただ、まっすぐな目で「当たり前だ」と言った。
責めなかった。
咎めなかった。
軽くも、しなかった。
その事実が、ひどく不意打ちのようで、胸の奥を強く揺らした。
「そんな状況で、嫌にならない方が無理だって。誰でもそうなる。むしろ、よくここまで我慢してるよ」
優真の声は、変わらず静かで、まっすぐだった。
その言葉ひとつひとつが、心にそっと手を差し伸べるように、あたたかく響いてくる。
「……そんなふうに、言っていいの?」
思わずこぼれた問いに、優真はほんの一瞬だけ目を細めた。それから、まるで当然のように、言った。
「言っていいに決まってる」
たったそれだけの言葉なのに、胸の奥がふるふると崩れていく。
涙が、にじみ始めた。
今まで誰にも言えなかった黒い気持ちが、こんなふうに、あたたかく肯定されるなんて。
信じられなくて、でもうれしくて、涙が止まらなかった。
「……ありがとう」
やっと、心からそう言えた。
すると優真は、そっと手を伸ばして、麗衣の目元に触れた。
指先で涙をぬぐいながら、まっすぐに彼女の目を見る。
「大丈夫だよ」
そう言って、優真はやわらかく笑った。
その笑顔が、あまりにもやさしくて、あたたかくて——
胸の奥が、じんわりと熱を帯びていくのを、麗衣はただ黙って感じていた。



