* * *

 校舎の外階段を登ると、むわっとした風が頬にまとわりついた。

 雲のあいだから、ぼんやりと夕陽がにじんでいる。
 どこか遠くでセミが鳴いていて、夏休みの気配が、ゆっくり近づいてくる気がした。

 教室前の廊下に並ぶ椅子に座って待つ間、麗衣は、無意識にスカートの裾を撫で続けていた。

 やわらかく指先で折り目をなぞるこの癖は、落ち着かないときほど出やすい。

 「ありがとうございました」

 ガラっと扉が開いて、前に面談をしていた咲良と母親が揃って出てくる。

 「あ、次は麗衣だったんだ!がんばれ!」
 「ありがとう〜!また明日ね」

 元気に手を振って、母親と親しそうに帰っていく友人の姿を、しばらくの間ぼんやりと見つめてしまう。

 「麗衣さん、入っていいよ」

 待ちくたびれたのか、廊下を覗いていた担任と目が合った。
 私は慌てて立ち上がり、そのまま教室へと入っていく。

 担任の先生が座る机を挟んで、私は向かいの椅子に腰を下ろした。

 ふたつ並べられたその椅子のうち、もうひとつは、ぽつんと空いたままだった。

 「今回は、ご家族は来られなかったんだね」
 「あ……すみません。日程の調整、どうしても難しくて」
 「そっか。まあ、無理はしないで大丈夫。正式な三者面談は、また別の日に改めてやろう」

 担任がやわらかく笑いかけてくる。
 麗衣も同じように笑って頷いた。

 心の奥に浮かぶ、そんな日はきっとこないという諦めをかき消すように。

 「最近はどう?楽しい?」

 二者面談は「最近どう?」という何気ない近況の話から始まった。

 けれど私は、「大丈夫です」「楽しいです」と当たり障りのない言葉しか返せなくて、会話が広がることもなく、先生はすぐに進路の話題へと切り替えた。

 「じゃあ早速、進路についてなんだけどね……」

 担任は先日提出したばかりの進路希望票を見ながら、ゆっくりと切り出した。

 「麗衣さんは、就職で提出してたよね。これって理由聞いてもいい?……成績もいいし、進学だって十分できるのに」

 担任の声は穏やかだったけれど、その奥には本当は進学を望んでいるという思いがにじんでいた。

 麗衣は視線を机の上に落としたまま、言葉を選ぶように一拍置いてから答える。

 「私の意思です。高校卒業したら、働こうと思ってます」

 担任は少しだけ眉を寄せた。

 けれど、それ以上は何も言わず、短く息をついて頷いた。

 「そっか……うん、もちろん本人の意思がいちばん大事だけど。……業種とかは具体的に決まってる?」

 言い方は柔らかかったが、それは本当に考えてる?という確認にも聞こえた。

 麗衣は手のひらをぎゅっと握って、それを膝の上で隠すようにして言った。

 「それは……まだ決まってないですけど、早めに自立したいと思っていて」

 本当の理由を話せるはずもなかった。

 働きたいのではなく、働かないといけないだけなのだ。

 けれど、それを口に出すことはできない。

 机の下で、ひらりと小さな花びらが舞い落ちる。

 「……そっか。うん、わかった。麗衣さんの意思を尊重するよ」

 麗衣の目を、担任はしばらく見つめていた。

 その視線に少しだけ間があって、それから渋々と頷いた。

 「でもね、就職だからって、これからの勉強を適当にしていいってことじゃないよ」

 担任は声のトーンを少しだけ引き締めて言った。
 その語尾に、教師としての責任と、心配の色がにじんでいる。

 「進路って、直前で変わることもあるし。選択肢を残しておくためにも、ちゃんと課題は出さないと」

 麗衣は小さく頷いた。

 わかっている。
 わかっているけど、時間が足りない。

 課題を出せないのは、怠けているからじゃない。

 けれど、麗衣は、それを説明する言葉を持たなかった。

 「……はい」

 そう返した自分の声が、少しだけ遠く感じられた。

 「最近、提出が遅れてる課題も多いでしょ。テストは平均より上だし、元々はよくできる子なのに、もったいないよ」

 もったいないという言葉に、どこか胸の奥がちくりと痛んだ。

 ちゃんとしてる子。しっかり者。

 そのイメージのままに、自分を当てはめることに、いつからこんなに疲れていたんだろう。

 「すみません。気をつけます」

 口ではそう言いながら、またひとつ、内側の何かが擦り減っていく音がした。

 進路の話がひと段落し、少しほっとする。

 けれどすぐにまた私の体は緊張で強張ることになる。

 「……あとね、ご家族のことなんだけど」

 担任の視線が、ふと進路希望票から外れて、彼女の表情を探るように向けられる。

 「今日もだけど……入学してから、一度も三者面談ができてないんだよね」

 やわらかく言いながらも、その声にはどこか気がかりな色が混じっていた。

 「今後の面談とか、提出書類とか、大丈夫そう?困ってることない?」
 「……はい。大丈夫です」

 麗衣は笑顔を崩さずにそう答えた。

 何度も繰り返してきたその一言は、もはや反射のようだった。

 担任はしばらく視線を向けたまま、静かに瞬きをした。

 言葉では何も言わなかったけれど「本当に?」と問いかけるような目だった。

 優しくも、どこか探るようなその表情に、麗衣の心臓がわずかに強く打つ。

 「お母さんは、最近お元気?」
 「元気です。ちょっと仕事が忙しいだけで」
 「そっか……。麗衣さん、母子家庭なんだよね?家庭のことでも、何かあったら遠慮せずに相談していいからね」
 「ありがとうございます。何かあれば相談させていただきます。でも今は大丈夫です」

 本当は、大丈夫じゃないことばかりなのに。

 それでも、これは学校に相談するようなことじゃない、と思っていた。

 家のことは、家でなんとかするもの。

 誰にも頼れない現実に慣れすぎて、助けを求めるという選択肢が、最初から抜け落ちていたのだ。