* * *

 昼休み。

 教室の喧騒がひと段落した頃、麗衣はカバンを抱えてそっと席を立った。

 向かったのは、校舎の裏手。

 誰もいない小さなベンチの前で立ち止まり、辺りを見回してから、そっと腰を下ろす。

 灰色がかった雲の切れ間から、淡い光が木々の間に差し込んでいた。
 足元に落ちる影もどこかぼんやりとしていて、頬を撫でる風は湿り気を含んでいる。

 今朝、慌ただしい中で適当に握った小さなおにぎりを見つめていると、ふと蓮の姿が浮かんだ。

 蓮、大丈夫かな。
 ちゃんと給食、食べられてるといいけど——
 咳、ぶり返してないといいな……。

 そんなことを考えていたら、ふと、さっき引き出しで見た付箋の文字が頭に浮かんだ。

 思い出すだけで、胸の奥にじんわりとあたたかさが広がる。

 (……あとで、優真にも、お礼言わないと)

 さっきだって、声をかけようと思えば、かけられたのに。

 でも、なんとなく足が止まって、そのまま教室を出てきてしまった。

 話したら、たぶん、なにかがこぼれてしまいそうな気がして。

 それが、怖かったんだと思う。

 ぼんやりと空を見上げると、淡くにじんだ雲がゆっくりと流れていた。

 本当は、何も考えたくなかった。

 けれど、心のどこかに空いた隙間に、静かに染み込むみたいに、思考は勝手に入り込んでくる。

 誰かの何気ない言葉や笑い声の余韻が、薄い膜のように意識に残って、気づけばまた、遠ざけていたはずの景色が浮かび上がる。

 考えたくないのに、気づけばいつも、そこに引き戻されてしまう。

 そんな自分が、少しだけ嫌だった。

 ただ静かに過ごしたいだけなのに、心のどこかがずっとざわざわしている。

 スカートの裾に触れる指先は、落ち着かない様子で動き続けていた。

 「なんだ。やっぱり、ここにいたんだね」

 ふいに背後から声がして、麗衣は肩を跳ねさせた。

 振り返らなくても、声だけで誰か分かる。

 制服の足音が、落ち葉の上を軽く踏んで近づいてくる。

 そして、優真は、隣に腰を下ろした。

 「……あ、プリント。まとめてくれたの、優真だよね?」

 ちょうど考えていたからか、自然に言葉が出た。

 「ああ、うん。バレた?」

 肩をすくめるような、少しわざとらしい仕草に、思わず口元がゆるむ。

 「ありがとう。すごく分かりやすかった」
 「ううん。ちょっとメモしただけだし」

 ふっと、空気がやわらぐのに安心する。

 少しの間を置いて——麗衣の呼吸を読むように、優真が口を開いた。

 「……体調でも、崩してたの?」

 何気ない問いかけだったのに、言葉が詰まる。

 優真が相手だと、どうしてこんなに取り繕えないんだろう。

 「あー……うん。熱、とか、ちょっとあって……」

 優真は、どこか悲しそうな顔をした。

 以前言っていた「嘘をつかれるの苦手」という言葉が蘇って、胸の奥にじんと罪悪感が広がる。

 少しの沈黙のあと、麗衣はぽつりと口を開いた。

 「……ごめん。弟が、体調を崩してて」

 素直に口にすると、優真が驚いたように顔を上げ、目が合った。

 (今回は、嘘じゃないって伝わったんだ……)

 ——どうして、こんなにも嘘がバレてしまうのだろう。

 自分ではうまく誤魔化せているとずっと思っていたから、自信をなくしてしまいそうだった。

 まぁ、そもそも、隠し通せるだなんて妙な自信でしかないんだけど。

 「親御さんは?」
 「お父さんは、いなくて。お母さんは……」

 言葉が喉に詰まる。

 母が病気になって以来、こんな話を誰かにしたことなんて一度もなかった。

 ずっと、自分の中だけで知っている現実だった。

 「お母さんは、その……」

 言えない。

 言おうとしても、どうしても、どこかで適当な嘘を探してしまう。

 「……ちょっと、病んでて」

 やっとの思いで、そう口にした。

 優真はすぐに返事をせず、一瞬だけ、そっと視線を逸らした。

 まるで、麗衣の言葉を大事に受け取るように、そっと飲み込むように——。
 そして、そのあと、いつもより少しだけやわらかい声で言った。

 「そうだったんだ。……それは、大変だよね」

 言葉を急がず、でも真剣に耳を傾けてくれていることが伝わる。

 声のトーンだけじゃない。
 間の取り方や、頷きひとつさえも、優真の人となりが滲んでいた。

 その丁寧さに触れたとき、胸の奥に張っていた糸が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。

 「ううん。たまに、ね。弟もいい子だし。お母さんも協力してくれてるし」

 語尾をやわらげるように笑ってみせたけど、自分の声がわずかに震えていたのが分かった。

 ああ、こんなふうに話を聞いてくれる人がいるんだ。

 それだけで、少しだけ、呼吸がしやすくなった気がした。

 “ちょっと”って言ったけど、本当は“ずっと”だった。
 “たまに”って言ったけど、本当は“毎日”だった。

 でも、それでも、言えた。

 誰かに、初めて自分の家庭のことを話した。

 それだけで、これ以上ない勇気が必要だったのだ。

 優真は少し悔しそうに、「そっか」と笑った。

 ただ、何かを噛みしめるように、指先でズボンの膝をなぞっていた。

 「麗衣は、ずっと頑張ってきたんだよ。ずっと弱音を吐かないで、自分で自分を支えて、ここまで来るのは、大変だよ」

 まっすぐな声だった。
 優しくて、でもどこまでも真剣で。
 否定でも共感でもなく、ただ、ありのままを抱きしめるような言葉。

 その瞬間、麗衣はそっと目を伏せた。

 胸の奥がふるふると震えて、泣きそうになるのがわかった。

 でも、涙は出なかった。

 その事実にほんのちょっとだけ安心する。
 もし泣いてしまったら——ここまで何年間もかけて、強くあろうとした自分が壊れてしまいそうだった。

 「……ありがとう」

 ほんの一言だけ。

 それが、今の麗衣にできる精一杯だった。

 優真は何も言わず、ベンチのひじ掛けに肘を乗せたまま、静かに空を見上げていた。