* * *

 前日の夜、リビングには蓮の咳き込む声と、テレビの音を消した静寂が漂っていた。

 「けほっ、けほ……」

 麗衣は、ソファの隅で洗濯物を丁寧にたたんでいた。
 タオルを折る手元に視線を落としたまま、かすかに眉をひそめる。

 6月に入り、寒暖差の激しい日が続いていた。

学校でも風邪が流行っていると聞いていたから、蓮の咳が余計に気になる。

 「蓮、大丈夫?あとで風邪薬飲もうね」

 心配そうに声をかけながらも、麗衣の手は止まらない。
 乾いたばかりのタオルを一枚一枚、淡々と折り重ねていく。

 そのとき、キッチンの奥から、物に当たるような音と苛立ち混じりの独り言が響いてきた。

 「なんでこんな……もうやだ、ほんとやだ……全部うまくいかない!」

 洗濯物をたたんでいた麗衣は、その声に思わず顔を上げた。

 キッチンの戸口から、母がリビングに向かって出てくる。

 「……なによ、その目」

 目が合った瞬間、母の声が低く震えた。

 目元が赤く充血していて、呼吸が浅く早い。
 昂った感情に押しつぶされそうになっているのが、ひと目で分かった。

 (あ、やばい……)

 そんな焦りが頭をよぎるけれど、もう、母の感情の昂りを止めることはできない。

 「どうせ、私のこと、役立たずって思ってるんでしょ……!」

 母はそのまま、麗衣の前にあった洗濯物の山に手を伸ばし、ばさっと、力任せに崩した。
 タオルが床に散らばり、麗衣の手が一瞬だけ止まる。

 麗衣は、顔を上げることなく、小さな声で呟いた。

 「……ごめん」

 反抗してはいけない。神経を逆撫するだけだから。

 母の感情の昂りは、病状の一種だった。

 仕方ないのだ。
 お母さんだって、こんな風に怒鳴りたくないはずなんだ。

 母はしばらく立ち尽くしたあと、荒い息を吐きながら背を向けた。

 そのとき——
 「けほっ、けほけほっ……」

 ソファに座っていた蓮が、小さな肩を震わせながら咳き込んだ。

 きっと、空気を読んで咳を我慢していたんだろう。
 その目元には、涙が滲んでいた。

 「……あんたもうるさいのよ!」

 母の苛立ちが、今度は蓮に向けられたのが分かる。
 こうなっている時の母は、何をするか分からない。

 麗衣は勢いよく立ち上がり、蓮を守るように静かに立ちはだかった。

 「……」

 目を伏せた母が、何かにハッとしたように動きを止める。
 そして無言のまま、自室のドアへと引き返していった。

 「おね、ちゃん……」

 蓮がか細い声で呼ぶ。

 (……よかった)

 麗衣は安堵の息をこぼしてから、振り返って、そっと弟の背中をさすった。

 「大丈夫だよ。風邪薬飲んで、早く寝な?」

 笑って見せたその表情には、どこか諦めの色が滲んでいた。

 蓮が頷いたのを確認すると、麗衣は崩れた洗濯物を、黙って拾い直した。