* * *

 次の日の朝。
 校門をくぐった瞬間から、胸の奥がそわそわと落ち着かなかった。

 (どんな顔で教室に行ったらいいんだろう。優真きっと怒ってるよね……)

 何があるわけでもないのにずっと重く苦しい心臓を抱えながら、靴箱に向かう。

 すると、ちょうど反対側の靴箱に誰かが立ち止まった気配がした。

 ——後ろに立っていたのは、優真だった。

 昨日のことが一気に頭によみがえって、それまでの想像なんて何一つとして意味を成さず、反射的に目をそらす。

 でも、その瞬間に気づいた。
 彼も、こちらに気づいたのを。

 (……どうしよう)

 足を止めるタイミングも、笑顔をつくる余裕もないまま、視線だけが宙を泳いだ。

 なのに、優真はまるで何もなかったみたいに、ふわりと声をかけてきた。 

 「おはよう。今日、ちょっと寒いね」

 その言葉は、あまりにいつも通りで。
 むしろ、変わらなすぎて、胸が苦しくなった。

 「……おはよう」

 絞り出すように返した声は、自分でも驚くほどそっけなかった。

 けれど、それ以上何かを言う余裕なんて、やっぱりなかった。

 優真は、それでも特に気にするそぶりも見せず、「じゃ、またあとでね」とだけ言って、軽く手を振って階段を上がっていった。

 (怒ってないの?)

 その背中を見送りながら、胸の奥がきゅっと縮こまるのを感じた。

 そのまま下を向いて昇降口を抜けたけれど、心臓がうるさいくらい鳴っていた。

 あんなふうにぶつけておいて、何も言わないままやり過ごすなんて、良くないのは分かっていた。

 (だめだこんなの。ちゃんと謝らなきゃ)

 階段を上がる足が少しだけ速くなる。

 教室のドアが見えてくると、胸の奥がぐっと詰まるけど、それでも止まらずに中へ入った。

 優真は、もういつもの席に座っていた。
 窓際の陽が差す場所で、ノートをめくっている。 

 麗衣は立ち止まらず、そのまままっすぐ彼の席へ向かった。
 その瞬間、教室の空気がわずかに揺れて、数人の視線が静かに集まるのがわかった。

 「……あの、優真、昨日のこと……ごめん」

 声が少しだけ震えていた。
 もっと色々言いたかったけれど、それ以上は、喉の奥に言葉がつっかえたまま。

 優真は一瞬だけ手を止めて、顔を上げる。
 目を細めるようにして、少しだけ麗衣を見つめてから、ゆっくりと首を横に振った。

 「大丈夫。気にしてないよ」 

 たったそれだけの返事だった。

 でも、その声が。温かい表情が、いつもと変わらなかったことに、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。

 (……きっと、本当に心から優しい人なんだ)

 ただ苦手だった。

 お節介で、いつも何かに気づいてしまいそうで、目を合わせるだけで落ち着かなかった。

 けれど今、初めてその視線の奥にあるぬくもりみたいなものを、まっすぐに受け取った気がした。

 もう、迷惑がるのはやめよう。
 優しさを拒む理由ばかり考えるのは、やめてみよう。

 そう思えたことで、胸の奥に張りつめていたものが、ふっとほどけた気がした。