* * *

 登校途中、駅前の横断歩道で信号待ちをしていたとき、制服のポケットでスマホが小さく震えた。

 取り出してちらりと画面を確認し、思わず小さくため息が漏れる。

 「……ああ、忘れてた……」

 ぽつりと漏れたその声に、不意にすぐ横から問いかけが重なった。

 「なにが?」

 驚いて顔を上げると、ちょうど優真が道の向こう側から合流してきたところだった。
 自転車を押しながら歩いていたらしく、タイミングよく隣に並んだようだ。

 目が合った瞬間、優真が少しだけ微笑む。

「おはよう」

 その柔らかな声に、麗衣もようやく力が抜けるように、「おはよう」と笑みを返した。

 「忘れ物?」
 「……ううん、バイトのシフト、今日提出だったの思い出して」

 そう言いながらスマホを軽く振ると、優真は一瞬だけ表情を曇らせた。

 「平日もバイトしてるんだっけ。大変なんじゃない?」
 「いや?そんなことないよ。店長さん優しいし、楽しいから」

 言葉をつなげるように、信号が青に変わる。

「あ、変わったよ。行こ」

 そう言ってスマホをポケットにしまいながら、麗衣は先に歩き出した。
 店長が優しくて働きやすいのは本当のこと。でもそれがすべてじゃない。

 けれど、何かを見透かされそうな優真の目が、少しだけ怖かった。
 だから、あまり長く話していたくなくて、話題を切り替えるみたいに、わざと明るい足取りを作った。

 「うん」

 優真はそれ以上何も言わず、歩調を合わせて後ろからついてくる。

 けれどその静かな気配のなかに、何かを言いかけてのみこんだような気配があって——

 麗衣は、ほんの少しだけ、胸がざわついた。

 「麗衣」

 校舎の屋根が見えはじめ、校門で先生が挨拶をする声がかすかに聞こえてきたころ。

 その穏やかなざわめきのなかで、優真にそっと名を呼ばれ、麗衣は立ち止まる。

 「無理だけは、しないでね。何かあったら、俺でよければ……相談、乗るから」

 その言葉は、不意打ちのようだった。

 「え?なに、急に……」

 思わず返事が遅れてしまう。

 平気なフリには、もう何年も慣れているはずだったのに。
 こんなふうに、まっすぐに心配されることなんて、初めてで——戸惑った。

 「……大丈夫だよ。ありがとね」

 けれど、それはほんの一瞬だけの揺らぎだった。

 にっこりと、完璧な笑顔をつくってみせる。
 目元の角度も、口角の上げ方も、もう、完全に染み付いている。

 お父さんがいなくなってから、もう七年。
 お母さんが倒れてからは、六年近くが経つ。

 その間ずっと、笑い方だけは忘れずにきたのだ。

 誰かに「大丈夫だよ」って言うたびに、目元と口角の動かし方だけは、ちゃんと覚えてきた。

 それはもう、呼吸と同じくらい自然な嘘のはず。
 そう簡単に見破られるわけにはいかない——そう思った、そのとき。

 「……俺、嘘つかれるの、ちょっと苦手なんだ」

 優真の声は、まるで独り言のように静かだった。
 彼の視線は、宙に浮かぶ何かを追うようにひらひらと足元へと下がっていく。

 麗衣は、思わず足を止めてしまう。

 何かを返そうとして、けれど、言葉が見つからなかった。

 ただ、横顔をそっと盗み見る。

 優真のまなざしには、たしかな優しさと——その奥に、ふと影のような、悲しさが混ざっていた。