* * *

 夕方、玄関のドアを静かに閉めた瞬間、室内に立ちこめる湿気が肌にまとわりついた。
 梅雨にはまだ早いはずなのに、空気はどこか重たく、じめじめとする。

 「ただいま」

 小さく声をかけながらキッチンへ向かうと、テーブルの脇で、床にうずくまるように座っている母の姿が見えた。

 机の上には、薬のパッケージがいくつも、丸められたまま散らばっている。

 その様子を見た途端、明るかった気持ちが全て消えていくのを感じた。

 「お母さん?どうしたの……?」

 母は顔を上げることなく、かすれた声でつぶやいた。

 「……ごめんね。夕ご飯、失敗しちゃった……迷惑ばかりかけてるよね、お母さん」

 その声は、まるで壁に吸い込まれるように、静かに消えていった。

 麗衣は、ゆっくりと隣に近付き、安心させるようにできる限り穏やかな声で話しかける。

 「ううん、用意してくれたんだね。ありがとう。今日も廃棄のお弁当もらえたから、お母さんは蓮とこれ食べて」

 麗衣はコンビニのレジ袋を掲げて、静かに笑ってみせる。

 ソファにいた弟の蓮が、目をこすりながらキッチンへと歩いてきた。

 「お姉ちゃん、今日もコンビニ?……疲れてない?」

 優しい蓮を思わず抱きしめる。
 その声が、少しだけ不安そうに震えていたのにも気がついていた。

 「ん、大丈夫。平日はほんのちょっとだけだから」

 笑いながら答えたその瞬間、空気がほんの少しだけ揺れた気がした。

 「明日の朝はスープ作ろっか。蓮の好きな卵のやつ」

 空気を変えるように明るく言うと、蓮は嬉しそうに顔を上げる。

 「本当!?」
 「ほんと」
 「やった!僕も手伝うから起こしてね!」

 そう言って母の隣に座り、慣れたようにお弁当の蓋をあける蓮に小さく微笑む。

 けれど、視線の隅に見える、シンクの中に置かれた焦げついた鍋が、麗衣の足元にボロボロの花びらを溜めさせていた。