* * *

 「麗衣、こっち手伝ってくれない?」

 突然すぐそばからかけられた声に、麗衣が振り返ると、優真がプリントの束を片手に立っていた。

 「え、うん。いいよ」

 ほんの一拍遅れて返事をすると、そのまま自然に輪から抜ける。

 香りの話題、ヘアアイロンのコツ、笑い声。
 教室の一角で続くあの空気から、何事もなかったように距離を取る。

 プリントを手渡されたとき、優真はふと目線を合わせ、少しだけ小さな声で言った。

 「あんま、無理すんなよ」
 「……え?」

 気づかれない程度に問い返したけれど、優真はそのまま教室の反対側へ歩いていってしまった。

 後ろ姿を見送りながら、麗衣はほんの少しだけ、胸の奥にぽつんと穴があいたような気がした。

 (……変な顔、してたのかな)

 完璧だったはずの笑顔。
 誰にも気づかれないはずの“本当の私”が、どこかで顔を出していたのかもしれない——そんな不安が、喉の奥にひっかかっていた。

 だけど、それと同時に、助け舟のように差し出された優真の声が、思いがけないほど心に沁みた。

 “ありがとう”って言いたかった。
 けど、それを口にするには、まだ少し勇気が足りない。

 スカートの裾をひとつ撫で、息を整える。
 唇をきゅっと結び直して、いつもの自分を貼りつける。

 ——無理にでも自然でい続けること。

 それが、麗衣にとって“なりたい自分”でいるための、たったひとつの方法だった。  * * *

 昼休みの光が、教室のカーテン越しに差し込んでいた。
 レースの隙間から揺れる春風が、ふわりと柔らかなにおいを運んでくる。

 机にお弁当を広げながら、麗衣はそっと目を伏せた。

 白ごはんと卵焼き、端にたくあん。
 ふりかけは蓮の好きなキャラクターのものをほんの少し。

 ——色味も量も、なんだか少し寂しい。

 でも、これが今の自分にとってのふつうだった。
 本当はもう一品くらい入れたいけど、それは贅沢に思える日もある。
 冷凍食品の残りを計算しながら献立を組む癖が、いつしかこれで十分という諦めにすり替わっていた。

 (私のお弁当より、蓮の朝ごはんと夜ごはんの方が大事)

 そう心の中で繰り返しながら、箸を手に取ったそのとき——

 「麗衣」

 前の席の優真が、急にくるりと振り返った。

 反射的にお弁当を手で隠す。
 見られていると思うと、なぜか胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

 けれど優真は、その視線を麗衣のお弁当には向けず、自分の弁当箱を少しだけこちらに傾けた。

 「これさ、よかったらちょっと食べてみて?」

 差し出されたのは、煮物。人参とこんにゃくと、ちょっと焦げた厚揚げ。

 (……私、そんなに物欲しそうな顔してた?)

 焦って視線を逸らすと、優真はあくまで自然な調子で続けた。

 「昨日の夜、自分で作ったんだ。ちょっと味見してほしいなって思って」
 「え……優真、料理とかするんだ」
 「たまにね。昨日、家に誰もいなくてさ」

 どこか軽く笑ったその声に、なぜだか少しひっかかる。

 けれど、そうやって理由を添えられると、断る方が不自然に思えてしまって——

 「……じゃあ、一口だけ」

 にんじんを箸でつまみ、そっと受け取る。

 口に入れた瞬間、じんわりと出汁の甘さがひろがった。
 派手な味じゃないけど、やけに優しくて、あたたかい。

 「……おいしい」

 思わずぽつりとこぼれる。

 顔を上げると、優真と目が合った。

 その瞳は、何も言わないくせに、全部わかっているような目だった。

 ほんの少し口元をゆるめたその笑顔は、やさしくて、あたたかくて——でも。

 (やっぱり、なんか……苦手かも)

 優しいと思う。嬉しいと思う。

 でも。

 優真のそういうところは、どうしてか私の隠したい部分を見透かされるみたいで。

 自分ががんばって作っている明るくて完璧な私が、あっさり剥がされてしまうようで、ちょっと怖い。

 (なんでそんなに、やさしいの。なんでそんなに気づいてくれるの?)

 たったひと口のおかずだけで、お弁当がほんの少し、あたたかくなった気がした。

 だけどそのあたたかさは、居心地のいいものとは限らなかった。

 まるで見つけられてしまったような、逃げ出したいような——そんな気持ちが、胸の奥でふわりと舞っていた。