「トリックオアトリート!」
朝食を食べていると、リビングでつけっぱなしにされたテレビから楽しげな合言葉が聞こえた。画面に映ったお天気お姉さんが、魔女の格好でにこやかに今日の天気を伝えている。
あぁ、今日ってハロウィンか……。
恵留はぼんやりとテレビを眺めながら、コーヒーを啜った。この時期になるとどこへ行ってもそれ一色だ。駅前の商店街やスーパー、学校近くのコンビニもジャックオランタンやお化けに黒猫、魔女の装飾品で飾られる。ここ最近は都心での賑わいのせいもあって、夏休みを開けてからそれを見ない日はない。そのおかげで、ハロウィンがいつだったかという記憶も朧げになっていた。
お菓子、なんかあるかなぁ。
皿に残っていたトーストを口に放り込むと、恵留はキッチン横の棚の扉を開けた。母親が時々お菓子のストックを入れておいてくれるが、恵るは日頃あまり甘い物を欲しないし、殆どは姉が攫っていってしまう。期待薄めに中を確認すれば、案の定殆どなにもなかった。恵留は溜息と共に棚の扉を閉める。こればっかりは仕方ない。しかし、脳裏にはあの甘党で無口な男が浮かび、今日という日に何も持たずに彼と会うのはなんだか偲びない気がした。
「行きでコンビニでも寄るか」
恵留はシンクに洗い物を下げると、急ぎ足で準備をし、家を飛び出した。
恵留が教室に入ると、ふざけて猫耳カチューシャや、魔女の帽子が付いたカチューシャを付けた女の子達が、机にお菓子を広げてミニパーティーを開いていた。そのラインナップを見ると、恵留が一足遅かったことが容易にわかる。いつもより早めに家を出たというのに、コンビニのお菓子棚は殆ど空だった。スナック菓子はまだ残ってはいたが、ハロウィンのお菓子として選ぶには違う気がして、恵留は残り僅かになった棒付きキャンディ一本と、自分の飲み物を購入したのだった。
彼女達を横目に自席に座り、恵留はコンビニの袋の中を覗き込む。
コーラ味……。
元季はいちごミルクとか、プリンとか、チョコレートなどの口の中に甘ったるいのが残るものを好む。残っているだろうと踏んで見たものの、箱に残っていたのはその味だけだったのだ。
いや、別にコーラ味でも食べるんだろうけれど。
いくら見返しても味が変わるわけないと分かっていながら何度も凝視してしまう。
「せめてチョコレートぐらい残っていれば……」
きっとお昼過ぎに行けば陳列棚は補充されているに違いない。でも、こういう行事は朝が一番盛り上がっているものだ。恵留はペットボトルだけ取り出し、ビニール袋を鞄にしまう。教室の扉が開く度、女の子達が楽しそうにあの合言葉を言い合うのが聞こえた。
「おはよう」
「わっ、お、おはよう」
慌てて顔を上げると、元季が立っていた。驚いた恵留を不思議そうに見ながら、元季は前の席の椅子を引いて腰掛けた。
「びっくりした……」
「真剣にスマホ見てたもんな」
「ゲームがちょうど良いところだったんだよ」
恵留は笑いながらスマホの画面を閉じる。最近始めたアプリゲームでもハロウィンイベントが開催されており、そのクエスト周回に、つい没頭してしまった。加えて女の子達の楽しそうな声が響いていたせいもあり、元季が教室に入ってきたことに気が付けなかった。
「そういえば、今日」
今日、という単語にびくんとなったが元季の言葉はパーティー中の女の子達によって遮られた。
「宝井くん、ハッピーハロウィン!はい、手出して」
「え」
「え、じゃなくて。ほら。甘いもの好きでしょ?お裾分け。あ、めぐるんもいる?」
「あ、ありがとう」
彼女達は元季に個包装になったチョコレートとクッキーを渡すと、恵留にも同じものを手渡した。
「トリックオアトリートって、言ってないのに良いの?」
恵留がおずおずと女の子達に尋ねると、彼女達は顔を見合わせて吹き出した。
「あはは、良いの良いの。私達はイベントが好きなだけ」
「お菓子のパッケージも可愛いもんね」
そう言ってケラケラと笑いながら、再び自席へ戻る。遠くでまた楽しそうに笑う彼女達を見て、恵留は「そんなもんなんだ」と小さく呟いた。てっきり甘党には大事な行事だとばかり思っていたので、拍子抜けである。
だったら少しぐらい残しておいてくれても良いのに……。
少しムッとなったが、こればかりは口には出せない。常日頃、姉からは「レディファーストができない男はダメだ」と言い聞かせられているし、その姉が休日にディスカウントストアでお菓子も大量にカゴに突っ込み、仮装用の衣装も買い込んでいたのをこの目で見ているのだ。
「メグ」
「ん?」
元季に声をかけられ、視線を戻す。もう貰ったばかりのチョコレートの包みを開けていた。
「トリックオアトリート」
「…………え」
今の今で言われると思っていなかったため、恵留は口をぽかんと開けて元季を見た。大きな手のひらを開いて、催促するように揺らしている。
「お菓子、くれないとイタズラするけど?」
「もうイタズラって歳じゃないだろ」
「もしかしてないんだ?あ、今あの子達から貰ったやつはノーカンだからな」
そう言って元季は女の子達に貰った恵留の分を机から取り上げると、前に乗り出して恵留のカーディガンのポケットに入れ込んだ。
「ちょっと!」
「で、メグは何くれるの?」
「何って……」
恵留はバツが悪そうに吃る。あるにはあるが、渡せるのはあのコーラ味のキャンディしかない。元季がいつも選ばないやつだ。
「えっと……」
目の前の甘党は期待しているのか、にこにこと笑っている。余計に渡し辛くなったが、仕方なしに鞄に手を掛けた。
「あっ」
鞄に手が触れたと同時にチャイムが鳴り、担任の声が廊下から聞こえた。
「また後で」
「あ、うん」
元季はいそいそと自席へと戻る。後方のお菓子パーティもお開きのようで、慌ただしい声が教室に響いた。
「ねぇ、そう言えば」
昼休み、購買部で買ってきた菓子パンを山ほどたいらげた元季が、思い出したかのように手を出した。一瞬なんのことか分からず首を傾げたが、あの合言葉を再び言われ恵留は苦笑いを浮かべる。
「もしかして、メグはイタズラご所望?」
「んな訳ないじゃん。あるよ、ほら」
恵留は今朝買った棒付きキャンディを鞄から取り出した。
「好きじゃないかもって思ったら、すんなり渡せなくて……。まぁ、気に入らなかったら俺が食べるし、良いんだけどさ」
「でもその場合は俺にイタズラされるけど」
「……黙って貰えし」
「さて、どうしようかなぁ」
ニヤニヤと楽しそうに元季が笑う。恵留は口をへの字に曲げた。
「貰っておきながら随分な態度だっ」
「ハロウィンはそういうイベントだろ」
「そうだけどっ」
「…………決めた」
すると、また元季は悪戯っぽくニヤリと笑った。嫌な予感がして、恵留は眉を寄せると身体を少し後ろへ逸らした。その様子を見て元季はふっと笑うと、貰ったばかりのキャンディの包みを開け、自分の唇に近づける。
「なんだ、結局食べるん…………んっ?」
一瞬、何をされたのか分からなかった。自分の口に入れるのかと思ったキャンディを、元季は恵留の唇にほんの一瞬だけ触れさせた。ふに、という感触と微かなコーラの香りが鼻に残った。
「なにす…………んぐっ」
驚いたことに、元季はキャンディをそのまま恵留の開いた口の中に入り込んだ。
「あ、イタズラ成功」
にこりと笑ってそう言うと、数秒も我慢できず元季はくすくすと笑いだす。
「こら、人がせっかくあげたのに!」
大きなキャンディを片頬に寄せ、恵留は不満たっぷりに言った。さっきの不意打ちによって体温が上がったせいか、コーラの甘い香りが口の中にどんどん溶けていく。
「コーラよりもっと甘いのが好きなんだよね、俺」
「だから先に言ったじゃん。気に入らないかもって!」
怒る恵留を見て更に笑う元季。リスのように膨らんだ片頬にどうしたって我慢できず、また吹き出しては恵留が文句を言った。
「ごめんごめん、そういう訳だから、帰りにどっか寄ろうよ」
「お菓子が気に食わなかったって正直に言えばいいじゃんっ」
「メグだって満足してなかったくせに」
「はぁ?どの口が言うんだよ!」
恵留は図星を突かれ思わず声が大きくなった。
「あはは、ごめんって。でも、ありがとう。だから放課後、お詫びに俺が満足するスイーツ一緒に食べに行ってくれる?」
「……それってどっちのどういうお詫び?」
ジト目を向けて恵留が尋ねると、元季はまたくすりと笑った。



