「え、俺……?」
昼休み、隣のクラスの篠宮が恵留を訪ねてきた。ドアを開ける勢いから凄まじく、赤く腫らした目が痛々しい。そして開口一番に彼は言った。「倉幡、頼む。助けてくれ!」と。
そして、冒頭に戻る。物凄い気迫の篠宮に恵留が恐る恐る理由を尋ねると「キーボード担当が骨折した」と半泣きで答えた。
「それで、引き受けたんだ?」
「うん、まぁ……文化祭中だけだけど」
元季の問いに、苦笑いを浮かべた恵留は机から次の英語の教科書を出しながら答えた。夏休みを明けた今、恵留達の通う学校は文化祭一色だった。クラスの出し物を決め終わり、各部活動でもそれぞれ部の特性を活かした出し物を考え終え、準備に入る頃合いでもある。そんな矢先に、篠宮の所属する軽音学部のバンドメンバーでキーボード担当の茅野が、つい先日の雨上がりに駅の階段で勢いよく滑り、転んで腕を骨折したという。医者から全治三ヶ月と言い渡され、キーボードはおろか自分のクラスの出し物も殆ど手伝うことが出来ないらしい。そこで白羽の矢が刺さったのが恵留だった。同じ中学だった篠宮が、合唱祭で恵留がピアノ伴奏をしていたのを思い出したのである。
「体育館のライブ出演、かなりの競争率みたいで絶対外せないんだってさ。演奏の順番も良いみたい。それに、茅野くんにも頭下げられたらもうやるしかないって思ったんだよね。俺も音楽やるの好きだし、ピアノ褒められるのって嬉しいからさ」
「ふぅん」
元季は気の抜けた返事をし、昼休みから残していたミニメロンパンの袋を開けた。
「それで今日から練習に参加することになったんだ」
「え、今日から?」
「うん。だってもう二ヶ月もないし。だから、今日は先帰って良いよ」
掃除や日直とは掛かる時間も違うから、と恵留は付け加える。
「……分かった」
元季はメロンパンに齧り付いたまま返事をした。
「楽しみだな、久々に演奏ってワクワクしてきた!」
「まぁ、頑張れよ」
「おぅ!」
恵留がバンド練習に加わること一ヶ月。文化祭はもう二週間後だ。学校はどこもかしこも文化祭一色に染まり、ホームルームの時間や放課後はクラスの出し物の準備で時間が潰れていくようになった。恵留と元季のクラスの出し物は「手作りお化け屋敷」に決まり、毎日少しずつ装飾品を作り上げていった。元季は大道具を手伝いながら、おばけ役として着る唐傘小僧(じゃんけんで負けたため、仕方なく選ぶことになった)の衣装を作り上げた。恵留はじゃんけんに勝ち抜いたため、お化け役は免除されたが大道具の仕事をあてがわれていた。
文化祭準備期間中、大道具の放課後準備に恵留が遅れてやって来た。
「ごめん、遅れた!」
楽譜の入ったファイルを片手に慌てて教室に入ると、荷物を放ってワイシャツの袖を捲り上げた。
「お疲れ。メグ、こっち手伝って」
「あ、うん」
先に作業を開始していた元季が恵留を窓際に広げたダンボールの山へと引っ張った。お化け屋敷の内装に使うお墓を作っている最中で、足元にはまだ裁断の途中の物と綺麗に切り抜かれたものが積まれている。
「切り終わったやつに色塗って欲しいんだけど」
「オッケー、任せて」
恵留は準備されていた絵の具をパレットに出し、筆を持った。
「練習は順調?」
「……うーん、まあまあかな」
歯切れの悪い返事に、元季は裁断の手を止めた。
「でも楽しいよ。最近は音楽って聴くばっかりだったけど、こうやって演奏して楽しむのも久々に良いなって」
ふふふ、と静かに笑って恵留は筆をダンボールに滑らせる。
「……そう。あんまり、頑張りすぎんなよ」
「あはは、なんだよそれ。頑張るよ。俺、人の代わりにステージ立つんだから」
眉を寄せて笑う恵留に、元季は一瞬顔を曇らせた。
「……そこの山になってるやつ、全部よろしく」
「はーい」
それから元季と恵留は、黙々と作業を続けた。
日を追うごとに恵留は、昼休みや放課後は殆ど軽音部の部室で過ごすことが増えていた。クラスで割り振られた仕事もこなしていたため、元季とは以前よりも一緒にいる時間が減った。授業の合間の休み時間に話すことはあったが、その授業も文化祭の二日前からなくなり、大道具の中でも内装準備と外装準備とで別れてしまった二人は、各々自分の仕事で手一杯になってしまった。
文化祭が明日に迫った今日。恵留は昼休みにヘッドホンで音楽を聴きながら、それに合わせて指を動かし自分のパートを確認していた。いつもならこの時間は軽音学部の部室で練習をしていたのだが、楽器はもう体育館へ移動され、練習は他のバンドとの交代制になってしまった。恵留と篠宮のバンドは放課後に練習時間を取ることができたが、リハーサル込みで行うため、恵留は最後の悪あがきでエアキーボード練習を試みたのだ。机の上で指がトントンと音を立てて軽やかに動き、時折り軽く宙を飛ぶ。その小さな指のダンスを、元季は黙って眺めていた。
「もう明日だけど……練習の出来は?」
元季はいつものように菓子パンの包みを開けながら尋ねた。曲の奥から聞こえた元季の声に、恵留は困ったように眉を寄せて「ウーン」と唸る。
「やっぱ、ピアノやってただけじゃ無理だな」
「そんなに違う?」
「うん。全然違う」
恵留はヘッドホンを外し、肩にかけるとそのまま机に項垂れた。
「頼まれたから嬉しくて、頑張ろうって思うんだけどさ。勝手が違うんだよ、練習方法も、演奏方法も……」
恵留の口から大きな溜息が漏れる。幼い頃に姉が習っているのを見て始めたピアノ。他人と協奏したのは小学生の合奏が初めてで、殆ど一人で演奏することしかしてきていない。更に言えば有名な邦楽バンドのカバーなどしたことがなかったし、キーボードはピアノと違って鍵盤が軽く、指も滑る。どちらも似たようなものだろうと思い込んでいたのは、恵留だけでなく頼んできた方も同じで、ここまで苦戦するとは思っていなかった。それでも、引き受けたからには中途半端には出来きず、恵留は隙間時間を見つけては確認や練習を重ねてきた。
「毎日練習しても全然上達しないし……。キーボードの鍵盤から指が滑るんだ。ピアノの癖がなかなか離れなくて……。せっかく代役に選んでくれたのに、ダメダメすぎて茅野くん達に申し訳ないよ……」
重苦しく喉につっかえていた言葉がスルスルと抜けていく。
「本番……間違えるかも……」
週末の文化祭本番の体育館を想像して、恵留はぶるっと身震いする。ピアノの発表会では大して緊張はしなかった。中学の合唱祭の伴奏でも、クラスの全員が一緒に舞台に上がっていたおかげなのか、全く緊張しなかった。ここまで人前で演奏をすることに緊張などしてこなかったはずなのに、出来ないことが多すぎて明日はどうなるか分からない。ここに来て急に怖くなり、思わず弱音が溢れた。
間違えたって良いって茅野くんは言ってくれた。だけど、出れない茅野くんにそんなこと言わせてしまうのは、俺の力不足だ……。
「……ほら」
項垂れた恵留に、元季は持っていた菓子パンを一つ差し出した。パッケージには季節限定のマロンクリームたっぷりコッペパン、と書かれている。
「メグがへこむなんて、明日文化祭なのに雨降りそうだ」
「……だって」
口を開けばまた弱音が溢れそうになり、恵留は口を噤む。奥歯を噛み締めた苦しそうな表情を見た元季は、呆れたと言わんばかりの溜息を吐いた。
「代役だからって棍詰めてやることないだろ。メグはメグらしい演奏をすれば良いんじゃないのか?」
「俺らしいって……。そんな難しいこと言うなよ」
そんなこと出来たら悩んでないっつーの。
「誰もメグに苦しめなんて言ってないだろ。間違えたって良いって、みんな言ってくれてるんじゃないの?」
「……そうだけど」
代わりに選ばれたんだから、きちんとこなして彼らのバンドに恥をかかせてはいけないんだって……。
「メグ」
「……なに」
「俺、楽しそうに演奏するメグが見たい」
「…………え?」
「演奏で楽しめたの、久々だって言ってたから。なら、楽しんで終わらせれば良いし、楽しそうに演奏するメグをちゃんと見たい」
「でも……」
真剣な目を見ていられず、恵留は思わず目を逸らす。
そりゃ、楽しめたら良いけれど……代役だって言われてる以上、頼まれた仕事はきちんとこなせなければ意味がないっていうか……。
「じゃあ、こうしよう」
うじうじしたままの恵留を見て、再び元季が先に口を開いた。
「俺のために楽しんで」
「…………は?」
恵留は一瞬耳を疑った。
「ちょっ……え、なに?なんでそうなるのさ」
「責任ばっかり気にしているから、新しい責任背負わせようかと思って」
「はぁ?」
「俺、一人でいるのは割と好きだけど、やっぱりメグといる方が良い。俺を一人にしたんだから、楽しんでくれてないと割に合わないだろ。その責任を取ってくれって言ってんだよ」
「いやいやいや、日本語おかしいって!」
「全然おかしくない」
またさっきと同じ真剣な目に恵留は目を逸らす。反論しようにも、心臓が変に騒いで言葉が上手く出てこない。
「メグ」
「あーーっ、もう!わかったよ、もうウジウジやめるからっ!そのよく分からない元季理論やめて!」
教室に響きわたる大きな声で恵留が喚いた。クラスメイト達の視線が彼らに集まり、恵留は更に顔を赤くする。
「……元季のせいでっ!」
頬を膨らませ、恵留はジト目を元季に向けた。
「明日、楽しみにしてる」
「はいはい。責任でしょ、まったく……分かったよ、仕方ないから取ってやるよ」
元季は静かに笑うと、恵留が手をつけなかった菓子パンの包みを開いた。
「無理すんなよ」
「うん。ありがと」
「大丈夫、肩の力さえ抜いちゃえば何とかなるから」
篠宮がバシバシと恵留の背中を叩く。それに対して何か言える訳でもなく、恵留は「そうだね、そうする」と苦笑いを返した。舞台袖がこんなにも暗くて安心するとは思わなかった。
ほんの数分前、最後に少しだけ合わせた時は問題なく演奏が出来た。それでもぎこちなさが残り、彼らの通常通りの演奏にはまだ遠い。だが、もう時間も時間だ。体育館の入口が運営係によって開かれる音が舞台袖にも聞こえてきた。
「それじゃあ、俺はここまでだから。代わりに楽しんできてくれ」
そろそろ時間だと、照明係の放送委員に声を掛けられると、茅野が恵留に耳打ちした。
「うん。分かった。俺も責任取らないとだし、楽しんでくる」
「責任って……。怪我は俺の不注意だろ」
「あはは、そうじゃなくて……。でもありがとう、行ってくる」
恵留は茅野にそう伝えると、篠宮達と一緒に照明の消えた暗いステージへ向かっていった。
「それでは、軽音学部によるバンドパフォーマンスです」
アナウンスが体育館に響いた。事務的なその案内文句が学生らしいのか、観客席に座る保護者達がくすくすと笑う。元季はお化け屋敷の当番で出遅れて、座席を取ることが出来なかったが、どうにか壁沿いに滑り込んだ。毎年軽音学部の発表を観にくる人は大勢いて、今年も大盛況なのは一目で分かった。
開演のブザーが鳴ると、暗い体育館に拍手が響く。数秒後、舞台の照明がパッと付いて、そこに恵留の姿が見えた。緊張で強張った表情が遠くからも分かり、元季は思わずくすりと笑う。観客席側の照明は全て落としていても、あんなに明るく照らされてしまえばはっきりと顔まで見えてしまうだろう。その証拠に、恵留の視線はキーボードの鍵盤に落とされたままだった。
「責任って、よく考えたらめちゃくちゃ重いな……」
今更ながら自分の言葉選びに呆れてしまう。だけど、全力で楽しんで欲しいと思ったのは本心だった。
「メグ、頑張れ」
元季の呟きが、音にかき消された。心臓に響く音を感じたと同時に、舞台上の恵留が顔を上げたのがはっきりと見えた。照明の光が眩しそうだったが、その中にいる恵留が元季の瞳の中でキラキラと綺麗に光って、思わず目を奪われた。
「あ……」
元季と恵留の目が合った。光の中の恵留が一瞬目を細めると、同時にキーボードの軽やかな音が耳を抜ける。それは昨日まで蹲っていた者が奏でるものとは考えられず、元季は目を見開いた。すると、恵留がニヤリと口角を上げた。その表情に背中がぞくりとして、元季は寄りかかっていた壁から背を離す。
なんだ、心配損か……。
「ふふふ」
我慢できずに元季は笑い、眩しそうにステージを見上げ、目を細めた。
「お疲れ、メグ」
「元季っ!どうだった、俺のキーボード!」
「超カッコ良かった」
「やっぱり?俺もめちゃくちゃ楽しかった!」
「そりゃ、責任押し付けたかいがあったよ」
「あははは。本当、無茶苦茶言うよ。でもぶっちゃけ、元季が来てなかったら俺弾けてなかったかも」
「ん?」
「ううん、なんでもない。ほら、なんか買いに行こ!緊張とけたらもうお腹ぺっこぺこ!」
「なら、三組のクラスのクレープが良い」
「えー、そこは五組のたこ焼きだろ」



