オレンジ色の夕陽が群青色の空に溶け始め、静かに黒へと変わる時間帯に恵留は家を出た。昼間より幾分か涼しい風が肌を滑り、思わずハミングする。今日は幼い頃から毎年楽しみにしている夏祭り。普段着慣れない藍色の甚平を着て、カンカン帽を被り、下駄を引っ掛け待ち合わせ場所へと向かう。祭り会場である近所の神社は、自宅から歩いて十分程度の場所。大規模な祭りではないことはそれこそ何年も前から分かっているのに、楽しみが勝って少し早めに家を出てしまった。
だんだんと会場に近付き、周りに浴衣を着て歩いている人がチラホラと見えてきた。朝顔や紫陽花など、涼しげな柄が並んでいる。前方からは風に乗って笛や和太鼓、チャンチキの音が聞こえ始め、微かにソースの焦げた香りも漂ってきた。
よぉし、今年もたくさん屋台メシ食べるぞ……!何から行こうかな、うーんと。たこ焼きに焼きそば、イカ焼きにじゃがバター。それからソースせんべいに、焼きとうもろこし、焼き鳥も捨てがたい……。
恵留は頭の中で屋台の並びを勝手に想像する。高校生の財布の中身には限度がある。端から端の屋台メシに手を出してはいられない。大したご馳走でもないことは分かっているのだが、お祭りで食べるからこそ美味しいことだって分かっていた。
「ウーン……」
恵留が唸りながら歩いていると、後ろから肩を軽く叩かれた。振り向くと、濃紺色の浴衣を着た元季が立っていた。
「あ、元季」
「人が多いんだから、下向いて歩くな」
危ないだろ、と最後に付け加えるが恵留の耳にはその言葉は入って来ず、見慣れない姿の元季に釘付けになっている。
「なに、変?」
「え、ううん。似合ってるなぁって」
そう言ってもう一度襟元からつま先までゆっくりと視線を下ろし、最後にふっくらとした喉仏に再び視線を向けると、心臓がどくんと音を立てた。
「折角なら着てけって母さんが煩くて」
「へ、へぇー。相手俺なの知ってるのに?」
「そ。メグだって言ったら、尚更恥ずかしいことないだろって」
元季は軽めの溜息を吐いた。その横で恵留は元季に知られないよう、静かに深呼吸した。
神社の石造りの階段を上りきると、日の暮れの暗がりが一変し、赤やオレンジの淡い光が目に飛び込んできた。
「うわぁ、混んでる!」
「まぁ、この辺で唯一の祭りだしな」
思わず口に出すほどの混雑具合に、二人は感嘆の声を漏らした。会場は普段の神社の様子から想像出来ないほど、たくさんの人が足を運んでいた。視線の先には出店がずらりと並び、その通りを沢山の赤い提灯が連なっている。さっき香ってきた香ばしいソースの香りが強く鼻腔をくすぐり、恵留の腹の虫を刺激した。
「元季、何からいく?」
恵留は入り口すぐのソース焼きそばの屋台を見つめながら言った。恵留と同じようにその香りに釣られた人達が屋台の前で結構な列を作っている。
「わたあめ」
「えぇ、この香り嗅いでそれ?」
「メグこそ、焼きそばは家でも作れるだろ」
「お祭りで食べる焼きそばは俺を裏切らないんだよ」
「誰かに裏切られたことあるのかよ」
元季は笑いながら答えると、焼きそばの屋台の列に向かう。
「え、わたあめ行くんでしょ?」
「行くけど、こっちのが長くなりそうだし」
「だから先に行っても良いって。俺一人で並ぶから、その間に食べたいもの買ってきて良いよ?」
すると元季は不思議そうな顔をした。
「なんで」
「なんでって……だって時間かかるし」
自分の都合で待たせるのは偲びない。せっかく楽しみにしていたお祭りの最初を、人の買い物で並ぶことに使わせてしまっては流石に悪いと思った。すると、申し訳なさそうな顔をした恵留に元季はフッと笑いかけた。
「俺、メグと話してる方が好きだから。俺が一緒に並びたいだけ」
「えっ」
恵留の心臓がまた跳ねた。さっきまで夕方の涼しい風を心地よく感じていたのに、急に顔のまわりも熱く感じた。
「……ダメ?」
恵留の顔を覗き込み、元季が言う。どくん、という音が耳の奥で響く。見慣れない浴衣のせいもあってか、目の前の元季がいつもと違って見える。
やばい、熱い。いや、違くて……!つーか何言ってんのこんな人前で!
ゴクン、と唾を飲み込んで震える唇を恵留はゆっくりと動かした。
「ダっ、メじゃない…………っけど!」
「けど?」
「あぁっ、もういいっ!とりあえず、焼きそば並ぶからっ!」
ムキになった恵留は元季を置いて列へ並ぶ。その赤くなった顔を見て、元季は静かに笑うと「後でわたあめも並んでくれ」と言った。
焼きそばとわたあめ、それから焼きとうもろこしを二人分に、あんず飴を一つ。かき氷は恵留も食べるつもりでいたので、とりあえずは今買った分を食べてしまおうと、二人は出店の通りから外れて植え込みの石段に腰掛けた。
「あー、お腹すいた!」
「良い匂いしかしてないもんな、今」
「本当それ。見るもの全部食べたくなる……」
「わかる。あ、あとでチョコバナナ買いに行こう」
「いいね!またジャンケンのやつでどっちが沢山貰えるか勝負しよ!今年は俺が勝つ!」
「のった。絶対負かす」
元季がニヤリと嬉しそうに笑い、手に持っていたわたあめにかぶりついた。昔からこの祭りに出店しているチョコバナナ屋台には、子どもには嬉しい特別ルールがある。一本三百円で買えるのだが、屋台のおじさんとじゃんけんに勝てば三本、あいこなら二本、負けたらあめ玉一つおまけ、というルールだ。二人は一緒に夏祭りに来るようになってから、その屋台で何本チョコバナナを貰えるか競っていた。去年は元季があいこで二本。恵留は負けてあめ玉とチョコバナナ一本という結果で終わっていた。
元季の宣戦布告を受け、恵留はケラケラと笑うと楽しみにしていた焼きそばのパックを開けた。買ってから少し経った焼きそばだったが、ふわりと香るソースの匂いに思わず口角が上がる。
「いただきます!」
嬉しそうに頬張る恵留の横では、すでにわたあめを食べ切った元季が焼きとうもろこしに手を伸ばしていた。
「ん、まい」
大きな口で元季ががぶりと一口かじると、あまじょっぱい香りが隣に座る恵留の鼻を掠めた。
「あ、ずるい」
「ずるいって、メグのもあるけど」
「人が食べてると美味しそうに見えるんだよ」
「じゃあ、交換する?」
「やだよーだ」
恵留は一瞬でいつだったかの放課後に間接キスと言われたことを思い出し、焼きそばのパックを元季から遠ざける。
「あれ、今日はケチじゃん」
「こ、これは!俺の勝負メシなんだよっ」
「あはは、じゃんけんは運だろ」
そう言って笑う元季に恵留はジト目を向ける。口はへの字に曲がり、面白くなさそうな顔をする。人の気も知らないで、と喉元では言えそうで言い出せない悪態が引っかかる。すると、そのなんとも言えない表情を見た元季はさらに吹き出した。
「笑いすぎ」
「なら、景品つける?」
「景品?」
「負けた方はかき氷を奢る、とか?」
「良いよ。俺、メロンね」
「まだ勝負してないだろ」
「今年は勝つの!勝負メシも食べたし」
最後の大きな一口を放り込むと、恵留は自分の分の焼きとうもろこしを手に持った。
「絶対負かす」
「……それ俺のセリフ」
「なんで勝つかなぁ!」
二本のチョコバナナを両手に持った恵留が悔しそうに言った。
「やっぱりバナナが俺を呼んでいたんだと思うな。元季くん、食べてって」
聞いたことない元季の裏声に恵留は「うわぁ」と思わず声を出す。じゃんけんの勝利によって三本のチョコバナナを手に入れた元季はいつも以上に上機嫌だ。器用に全部片手で持ち、ハミングまでしている。
「あーあ、負けちゃった」
「まぁまぁ。去年より良い成績ですよ」
「勝負は勝ってこそだよ」
不貞腐れた言い方をし、恵留はバナナにかじりついた。ねっとりとした甘さが口の中に広がった。
「かき氷何味が良いの?」
一本を食べ切ると、恵留が聞いた。
どうせあの味だろうけれど……。
「いちご」
「やっぱり。じゃあ、待ってて」
諦めて負けを認めた恵留は、もう一本のバナナにかじりつきながら、かき氷の屋台へ向かった。
「お待たせ」
ピンク色のシロップと緑色のシロップがかかったかき氷を両手に持って恵留が戻って来た。
「え、まだ食べ終わってなかったの?」
元季の片手にはまだチョコバナナが三本あり、一本目がようやく半分にたどり着く頃だった。
「もぅ。早くしないとそのチョコもかき氷も溶けるんですけど?」
すると、元季は片手で持っていたバナナを一本だけもう片方の手に持ち変え、一気に食べ進めた。
「元季?」
チョコバナナを一本ペロリと食べ切ると、棒をすぐ近くのゴミ箱に捨て、恵留の持っていたいちごかき氷を受け取った。
「ありがと」
「え、あぁ……うん?」
両手に食べ物を持った元季を不思議そうに見つめる恵留。どう考えてもかき氷など食べれる体勢ではない。
「困った」
「は?」
「……メグ、かき氷溶ける」
「いや、俺そう言ったよね?」
「食べさせてよ」
「………………は?」
「溶ける前に食べ…………んぐっ」
最後まで言い切らせる前に、恵留は元季の持っていたチョコバナナを一本、彼の口に突っ込んだ。
「こ、これで食べれるだろ!」
「…………ふぉい」
(あーもぅ!本当、馬鹿元季っ!さっきから変なことばっか言いって……!)
(…………やりすぎたな)



