昼休み、教室の女の子達がきゃあきゃあと楽しそうに談笑している声が響く。話題は明日に迫ったバレンタイン。教室全体が浮き足立っているのは数日前から分かっていた。何を作るか、誰に渡すのか、女の子達は楽しそうで何よりだが、男子側としてはそんな話で盛り上がられて溜まったものではない。貰えるのか、貰えないのかを考えるだけでもソワソワと落ち着かないのに、女の子達の会話の中で名前が出てくるだけで眠れない。どの学校、どのクラスを覗いてもこの時期は全体的こうなってしまう。そんな中、元季は窓際の席で楽しそうに話す女の子達を恨めしそうに眺めていた。
「なに、チョコ欲しいの?」
ニヤニヤと笑いながら恵留が顔を覗き込んだ。元季の机にはいつも通り、菓子パンの山。そしてカバンの中は季節限定のチョコレートの箱が数箱入っているのが先程見えた。
「まぁ……普通に貰えるなら」
「去年結構貰ってたじゃん。また鞄に入り切らないほど貰えるでしょ」
恵留はモテる男の発言は嫌だねぇ、と嫌味を付け加えた。
「あれは掃除当番から戻ったら鞄に入ってただけだよ」
「ふぅん。そういうことにしといてやろう」
「そう言うメグも去年貰ってた」
「俺のは全部義理って言われました」
笑う恵留をジト目で見ながら、元季は手元の菓子パンを開ける。
俺の分はお前のついでだからなぁ。
恵留の小さな溜息でより元季は怪訝そうな顔をした。不貞腐れるのも無理はない。元季自身、チョコを貰えるなら貰いたい。しかし、それは好意を伝える術ではなく、ただ単にお裾分けの一環でだ。以前ハロウィンの際にクラスの女の子から貰えたような、そんな単純なノリが良い。特別な気持ちが込められたチョコレートほど対応に困ってしまう。
「まぁ、良いじゃん。貰えるものは貰っておけば。チョコの数は男の勲章だよ」
「……そうかもしれないけど。そのニヤニヤやめて」
「ごめんって」
元季はがぶりと手に持っていたメロンパンに齧り付く。いつの間にかもう菓子パンは三つ目だった。
本当……よく言うよ、俺も。
恵留は不貞腐れながら自分の菓子パンの山を崩していく元季を横目にし、自分の弁当を再度つつき始めた。
「めぐるん、おはよう。これ、チョコレートね」
「私からも」
「私もー!」
「あ、ありがとう」
翌日、恵留は教室に入るなり女の子に囲まれた。断る隙もなく、手には可愛くラッピングされたチョコレートが積み上がっていく。
どうすんだよ、こんなに。来月はお返し破産じゃん……!
すると、恵留の心中を察したのか、女の子達はくすくすと顔を見合わせて笑った。
「お返しはいらないから大丈夫だよ。今年はクラス全員に配るって決めてるから」
「えっ、そうなの?」
よく見ればきちんとラッピングされた既製品が多数だった。
「あはは、本命って言えばお返し貰えたパターンだ!」
困惑する恵留を揶揄いながら、今度は別の席に座る男子を囲む。宣言通り、仲が良いなど関係なくクラスの男子全員に配ろうとしていた。彼女達なりの気遣いなのかも知れないが、なんとなくその配慮も虚しくなる。
まぁ、貰えないよりか全然良いか……。
自宅に帰って姉や母親に幾つ貰ったんだと聞かれる身としては有り難い。嬉しそうに受け取る子もいれば、恵留のように複雑そうな顔をする者もいる。所詮はお菓子メーカーの策略だが、こうも大きな行事化されると話は別物だ。恵留は苦笑いを浮かべながら、自席に着く。彼女達を見ていると、これはこれで一種の挨拶にも捉えられて良いのかもしれない。そんな風に思うと、鞄の中に忍ばせた箱も少しは軽くなる気がした。
今時は男同士も交換は普通だし。最近は元季みたいなスイーツ男子だって珍しくはないもんな。
そう自分に言い聞かせ、鞄の中に入れた黄緑色の箱を覗き見る。それを見ると心臓がやけに煩く鳴り始めた。昨晩、アルバイトの後に立ち寄ったコンビニで目に入ったバレンタインチョコ。まだ数種類が綺麗に棚に並んでいた。元季が好きそうなホワイトチョコだなぁ、とぼんやり考えていると、思わず手に取ってしまった。レジ前近くの棚だったこともあって、なんだか戻すのも気が引けてしまい、母に頼まれた牛乳と一緒にレジへ持って行ったのだった。
友チョコって、男同士でも通用するんだっけ……。
適当に渡す理由を考えていると、丁度元季が教室に入って来た。案の定、恵留同様に女の子達から大量のチョコレートを持たされている。
これなら元季もすんなり受け取れるじゃん。なら、俺もついでにサラッと渡せば良いか。
恵留は持って来たノート類を机へしまうと、ブレザーのポケットに黄緑色の箱を忍ばせて、自席へ向かう元季の方へ移動した。
「おはよ。やったね、大漁だ」
「おはよ。まぁ、これなら別に……」
ふわっと緩む頬を見て、恵留も口角が上がる。好きなものを貰うのは、やはり嬉しいものなのだろう。これが何かの漫画なら、元季の周りには今、花が飛んでいるだろうと思って、恵留は笑った。
「なに?」
「ううん。嬉しそうだなぁって」
「チョコに罪はないからな」
「またまたぁ」
元季が席に座り、持って来た文具を机へ入れると、貰ったばかりのチョコレートを鞄へしまう。すると、ひらりと何かが落ちた。
「なんか落ちたよ」
「ん?」
恵留が机の下から拾い上げたのは、小さな封筒だった。
「手紙っぽいね」
「手紙?貰った覚えないんだけど……」
「でも、元季から落ちた気がする」
「まさか」
元季はそう言うが、確かに今この机の方から落ちたのを恵留ははっきりと見ていた。元季は恵留からその封筒を貰うと、不思議そうに眉を寄せ、中を確認する。それと同時に、恵留は嫌な寒気を感じた。
「えっと、元季宛だった?」
恵留は奥歯を噛み締めながら尋ねた。
「……あぁ」
元季の小さな返事に、恵留は「そっか」と静かに答える。元季はその手紙を見つめたまま、ゆっくりと席に着いた。恵留の視線が自然とクラスの男子を囲む女の子達に向く。すると、数人と目が合った。一人が恵留にウィンクをし、口に人差し指を当てる。
あぁ、全員に渡すって……そういうこと。
彼女達の中に、元季へ淡い恋心を持った子がいたのだろう。おそらく、その子の気持ちを伝えるべくしてこの『クラスの男子全員にチョコを渡す』という計画が立てられたのだ。
ずきん、と胸の奥が締め付けられる。女の子達は決して悪い事をした訳ではない。これは気持ちを伝える有効手段だと考えたんだろう。恵留は手紙を封筒にしまう元季を見つめた。
「どうかした?」
「いや?手紙とか羨ましいなぁって思ってさ。俺には無かったし」
誤魔化すように言うが、複雑そうな元季の顔が胸に刺さる。どう返答しようか困っているのがわかりやすくて、なんだか気まずい。
「俺はメグのが良い男だと思う。誰にでも優しいし」
「恥ずかしいからやめろってば。元季だって良い男だよ。俺が女の子なら元季にチョコ渡すし」
男でも渡そうとしてたけど、とは言わずふざけた口調で恵留は返した。すると、さっきまで複雑そうな顔をしていた元季がまたふわりと静かに笑った。
「……なに。今ので笑うとかめちゃくちゃ恥ずかしいじゃん」
「ううん、ごめん。ありがとな」
くすくすと笑うと、元季は鞄から自分で持って来たであろうチョコレート菓子の箱を取り出した。ビスケットにチョコレートがかかった、よくテレビでも宣伝されているきのこの形をした定番菓子だ。
「あれだけ貰ってそれ開けるの?」
「これは違うの。メグ、食べる?」
「……いや、今はいいかな」
恵留はやんわりと断わった。その返事と同時にタイミング良く予鈴が鳴った。
「メグ、今日バイトは?」
「……ないけど」
「分かった。じゃあ、放課後待ってて」
「え、あぁ……うん。了解」
恵留はそう答え「じゃ、また後で」と自席へと戻った。
今朝、何があるとは聞かされず、咄嗟に聞かれて返事をしてしまったことを一日中悶々と考えていた。昼休みに尋ねようとしたが、クラスの女の子達から貰えるとは思っていなかった男子達が、自分のためにと飲み物を購入ついでに買ったというカモフラージュチョコレートを元季へ貢ぎに来たため、そんなタイミングがなかったのだ。しかし、掃除当番でも日直でもなんでもない元季から「待っていて」なんて言われてしまえば、放課後に何があるのかなんとなく分かってしまう。今日はバレンタインなのだ。他に考え用がない。恵留は授業中に静かに溜息を吐いた。同時にはっきりと言わない元季にも苛立ちが増す。濁すような言い方は手紙の差出人のためなのか、恥ずかしさ故なのか。どう考えても前者であることに間違いない。そういう優しさも今は何故か全て憎くて仕方がない。余計な不安と悔しさが増して、板書をノートに書き取る手も止まり、教室の時計をじっと見つめる。もう間も無く授業は終わり、ホームルームに切り替わる。そうしたらもう、放課後だ。
急にチリと、胸が痛くなった。耳元が熱くなり、恵留は奥歯をぎゅっと噛み締める。背中にぞわりと冷気が走った気がしたかと思えば、急に指先が冷たくなった。指先をカーディガンで隠し、擦り合わせるが、それでも緩和されない。教室は暖房が効いていて暖かいはずだった。
掃除当番の時間が終わる頃、元季は恵留を教室に残して手紙に書かれた約束の場所へ向かった。どこに行って来るのかも言われなかった恵留は、元季の席に座るとゆっくりと息を吐きながら机に頬をくっつけた。夕日を少しだけ浴びた机の天板は、お日様の匂いがしてほんの少しだけ温かい。
あーあ。行っちゃった。
窓からオレンジ色と群青色の入り混じった空を見上げた。行かせて良いのか、とこの時間になるまで何度も自分に問いたが、止める理由が見つからなかった。はっきりとした理由がないのに、元季へ気持ちを伝えようとする女の子の邪魔をする権利は自分にはない。だが、このモヤつく感じがどうしても気持ち悪く、スッキリとしなかった。
教室の引き戸が静かに開く音がした。顔を上げて振り向くと、今朝、クラスの男子にチョコを配ることを教えてくれた女の子の一人が立っていた。
「良かった、いた」
彼女は恵留の姿を見てにこりと笑う。
「あれ、忘れ物?」
ホームルームはだいぶ前に終わり、掃除当番だった人達ももうとっくに下校しているはずだ。
「ううん。宝井くん、呼び出されてるだろうから倉幡くんはここにいるかなぁって」
「え……?」
「あぁ、ごめん。宝井くんを呼び出したのは私じゃなくて。でも、きっと倉幡くんは待ってるだろうと思って。だから、ちょっとだけ良い?」
「う、うん?」
困惑する恵留に、彼女は一歩近付いた。片手に小さな紙袋が下がっている。
「今朝、あげたのは皆んなで買ったチョコなんだけど……。やっぱり、好きな人には手作りの物渡したいなぁって……」
だんだんと尻すぼみになる声が小さく震えた。彼女の目は緊張で少し泳いでいて、顔もほんのり赤く染まっている。
「好きな人って……えっと、それって……」
恵留の言葉に、ぎゅっと目をつぶって彼女はゆっくり頷いた。心臓がばくんと音を立てて、ゴクリと恵留の喉が鳴る。暖房は既に切られているはずなのに、身体中がやけに熱い。驚きと焦りと、目の前の彼女の表情がその熱をどんどんと上げていく。
数秒の沈黙の後、恵留が椅子から立ち上がった。椅子と床の擦れるが教室に響き、同時に女の子は目を伏せた。
「……あの、ありがとう。気持ちはすごく嬉しい……」
心臓の音が耳の奥で煩く鳴り、自分の声がぼんやりと聞こえる。辿々しくて、はっきりとしないこの口調に申し訳なさが募った。ぐっと拳を握ると、ブレザーのポケットに拳が当たる。今朝から入れっぱなしだったチョコレートの箱がそれに触れた。それと同時に、頭の中にあのモサモサ頭が一瞬で浮かび、自分の中で何かがすっと腑に落ちた。
そっか………俺……。なら、きちんと言わないと。じゃないと、気持ちを伝えてくれた彼女に失礼だ。
ゴクリともう一度恵留が唾を飲み込み、ゆっくりと口を開いた。
「でも、俺……。好きな人がいるんだ」
恵留が静かに答えると、目を伏せていた彼女は顔を上げた。
「そ……そっかぁ」
彼女は同時に溜め込んでいた空気をゆっくりと吐き出して、手に持っていた紙袋を自分の後ろに隠した。一瞬だけ唇を真一文字に結び、喉を鳴らす。そして、一呼吸吐くとゆっくり口を開いた。
「……話、聞いてくれてありがとう。なんか、スッキリしちゃった」
「ううん、こちらこそ……。ありがとう」
同時に二人の目が合ってにこりと微笑む。夕焼けが彼女を眩しく照らし、眉の寄った彼女の顔が恵留の胸にチクリと刺さった。
「チョコ、好きな子から貰えると良いね」
「……うん。でも俺、その人との今の距離感に満足してるとこもあるから……。そりゃ、貰えたら嬉しいけど……」
「ふぅん……」
彼女は恵留の言葉のどこかに納得し、ぴくりと眉を動かした。一瞬だけ口をへの字に曲げると、吹っ切れたようにくすりと笑った。
「あ、せっかく用意してくれたのに、受け取れなくて、その……ごめん」
「ちょっと、そういうこと言わないで。貰われても複雑でしょ。これはフラれた者同士で食べるから大丈夫っ」
「え、フラれた者同士って……」
すると彼女はやんわりと微笑み、小さな溜息を吐いた。
「じゃあ、倉幡くん。ありがとう、また明日ね」
「あ、ちょっ」
もう一度悪戯っぽく笑うと、彼女は下を向いたまま教室を出て行った。
「……あ、そうだ。元季、手出して」
校門を出たところで恵留がコートのポケットに手を入れながら行った。
「なに?」
元季が言われるがまま手を出すと、恵留はポケットから黄緑色の箱を取り出した。
「はい、バレンタインチョコ」
「……え」
一瞬固まり、元季は恐る恐るその箱を受け取る。
「……良いの?」
「うん……まぁ、男でしかも俺からですけど」
すると、元季はふっと笑ってその箱をそそくさとコートのポケットにしまい込む。
「返せって言われてももう返さない」
「いや、あげたもの返せなんて言わないし」
「じゃあ、俺からも」
そう言って元季が鞄から取り出したのは、今朝封を開けたあのきのこのチョコレート菓子だった。
「えー、それ食べかけじゃん」
「食べてないよ。今は要らないって言われたからそのままだし」
そう言われて恵留は固まった。
「ウッソ……。これが元季のバレンタインチョコ?うわぁ、色気ねぇー……」
「……要らないなら自分で食べる」
「あはは、ごめんってば。食べる食べる、ちゃんと大事に食べるからっ!」
ケラケラと笑う恵留が、元季の持つ箱に手を伸ばす。結局、手紙の相手とはなにがあったのかも聞き出せないままだった。聞いたところで相手に嫉妬するのは目に見えていたし、恵留は自分に伝えたい気持ちがあることもついさっき自覚したばかりだ。そして同時に、初めての本命チョコレートだったことは、互いに知らなくても良いと思った。



