「……お腹すいた」
 帰りのホームルームが終わり、昇降口で上履きからスニーカーに履き替えている最中、珍しく恵留がそう呟いた。
「弁当、足りなかった?」
「うーん、っていうか絶対体育のせいだよね」
 元季の問いに恵留は唇を尖らせながら答えた。十二月に入ってから体育の授業では持久走が多く、今日も六時間目に校庭のどでかいトラックを数周させられた。担当教諭の話では年明けからは学外を走るマラソンに移行するらしい。どちらにしても運動が苦手な恵留には嬉しくないニュースだ。
「じゃあ、何か食べに行くか?」
 そう言って元季はスマホをコートのポケットから取り出した。画面に映し出したのは、この季節限定のクリスマススイーツを出しているカフェのサイトだった。それを覗き見た恵留は「また限定スイーツ?」とジト目を向ける。
「違うのにして」
「ならメグは何食べたいの」
「そりゃ、あったかーいもの!」
 さっきの体育で冷たい風に当たったせいもあり、鼻声になりかけていると加えて訴えた。
「肉まんとか?」
「それも有りだな。でももっとしっかり食べたいから……」
 恵留はスニーカーの潰れた踵を直すため、しゃがみ込んだ。
「しっかりか……」
 元季がもう一度スマホに視線を落とす。駅前に何の店があったか確認するために地図アプリを出した。
「あっ」
 しゃがんでいた恵留は、思いついたとばかりに勢いよく立ち上がった。
「ラーメンにしよ、ラーメン!俺、最近食べてないっ」
 最後に食べたのは月を二つ跨ぐほど前のことだと、恵留は言った。文化祭の練習でアルバイトのシフトに殆ど入れなかったため、金欠だったのだ。食べたといえば家で兄に作らされたインスタントだし、それも麺だけで寂しい出来のものだった。食べたいと思った瞬間、もう口はラーメンの口になってしまい、どうでも食べに行きたくて仕方ない。懇願するように元季の顔を覗き込むと、小さく息を吐いて「良いよ」と答えた。




 どうせなら、近場で一番人気の店に行こう。恵留がそう言って元季を引っ張って来たのは、二駅先の駅だった。学校帰りに途中下車をしたのはほんの数回目。久々に降りたこの駅は、改札口からはまるで知らない場所に見え、妙にソワソワした。
「どっちだっけ?」
 この駅で降りようと言い出した恵留が言った。てっきり道を知っているのだと思っていた元季は目を丸くする。
「覚えてないの?」
「だいぶ前に兄ちゃんに連れて来てもらっただけだからさぁ」
 恵留は悪びれもせずそう答え、スマホを取り出すと、駅名とラーメンという単語を入れて検索をかけた。
「分かった?」
「んーとねぇ……あ、あった!」
 うっすらと覚えていた店名を地図上で見つけた恵留は、スマホを片手に元季を連れて歩き出した。



 駅から数分歩くと商店街に着いた。昔ながらの八百屋や豆腐屋、魚屋の前を通り過ぎ、精肉店の前で揚げたてのコロッケに心を奪われながら歩き進む。しばらく進むと、飲食店がチラホラ見える通りに出た。定食屋に喫茶店、ファーストフード店や町中華の店が並び、外に貼り出されたメニューを見てはまた誘惑される。その先を進んで暖簾を出し始めた居酒屋の角を曲がると、目当てのラーメン屋の藍色の暖簾が目に入った。
「ここだ、そうそうここ!めちゃくちゃ美味いの!」
「へぇ、随分歩いたな」
 元季が店の暖簾をまじまじと見つめる。暖簾には白い文字で『わかば』と書いてあった。引戸の中から醤油の良い香りがし、甘党の元季も思わずゴクリと喉を鳴らす。恵留が引戸に手を掛け戸を開けると、勢いの良い声で「いらっしゃい!」と声がかけられた。中はカウンター席が数席並び、四人掛けのテーブル席が二つというシンプルでこぢんまりとした造りだった。カウンターの向こうが厨房になっており、店員が一人出てくると二人をカウンター席に案内した。時間も早かったためか、まだ恵留達の他には一人の男性客が座っているぐらいだった。
「何食べようっ」
 恵留はカウンターに立てかけられたメニュー表に目を光らせる。目の前の厨房から湯気に乗ったスープの香りが腹の虫を更に刺激し、見るもの全て口にしたくなるほどだった。
「俺、豚骨醤油!」
「俺も同じやつ」
 二人は人気メニューを頼むと、恵留はスマホを取り出して冬休みのスケジュールを確認し始めた。
「元季は冬休みどうしてんの?」
「うーん。バイト?」
「あはは、ケーキ屋はもうすぐ年に一度の稼ぎ時だもんなぁ」
 元季のバイト先は駅近くのケーキ屋で、この時期になるとクリスマスのケーキ予約や販売で忙しい。また、年末年始になればお年賀だ何だと帰省や新年の挨拶の手土産販売と書き入れ時だった。
「メグは?」
「俺もそんな感じ。あ、でも大晦日は大掃除ぐらいかな」
「じゃあ、初詣は一緒に行けるな」
「それを言うなら『来年は一緒に行けるな』でしょ」
 恵留は不機嫌な顔を向けた。今年の年始にも同じように初詣に一緒に行く約束をしていたのだが、際になって元季に寝落ちされてしまった恵留は、神社で待ちぼうけを食らってしまった。そのせいもあり、恵留は高熱を出すという散々な年明けとなったのだった。
「あれはメグがちゃんと起こさないから」
「いや、何度も電話したからね」
「一回はちゃんと出ただろ」
「すぐ寝たじゃんかっ!」
「だったらもっと可愛く起こさないと。俺が眠れないぐらいドキドキさせるとかさぁ」
「んだよそれっ!」
 恵留が顔をほんのり赤らめて言い返そうとすると、丁度目の前で二人分の麺が鍋から上がり、ものの数秒後には美味しそうなラーメンが目の前に運ばれた。
「お待たせしました、豚骨醤油ラーメンです」
 バーナーで炙られた厚めの焼豚に、器の半分を覆うよに並べられた焼き海苔。綺麗な緑色のほうれん草に、とろりとした半熟の黄身を見せて浮かんだ味玉。それらを乗せた黄金色のスープは、彼らの食欲を更に増幅させる香りを放っていた。
「うわぁ、いただきます!」
 念願のラーメンだと言わんばかりに、恵留は手を合わせた。さっきまで今年の年始のことを思い出して怒っていた者とは思えないほどの切り替わりに、元季は思わずくすりと笑った。
「なんだし」
「ううん、別に。いただきます」
 元季も手を合わせて、箸を器に入れた。焼豚の下に隠れた太麺を持ち上げると、ぶわっと湯気が立ち昇り、掛けていた眼鏡のレンズを一気に曇らせた。
「ふはっ、真っ白」
「笑うな」
 まったく、と一言つぶやくと、元季は掛けていた眼鏡を外した。ぼんやりとした視界だが、ラーメン一杯食べるのに何の問題もない。メニュー表の横に張られていた年末年始の営業時間も難なく読めた。しかし、どうしても眼鏡を外すと眉間に皺が寄る。険しい表情が目に入り、思わず恵留がくすりと笑った。
「……なに」
「いや、久々に外してるとこ見たなぁって」
「たかが眼鏡だろ」
「眼鏡キャラの眼鏡なしほどレアなんだよ」
 そう言って恵留はもう一度、ふふふっと笑うと、今度は黙って食べ始めた。




「あー、お腹いっぱいっ!」
「夕飯、入らないな」
「とか言って、帰ったらケーキとか食べてそうだよな」
「甘い物は別腹だから」
「うげぇ」
「……メグ」
「ん?」
「また来よう」
「うん」
「初詣の後とかに」
「あはは、元季が起きてたらね」