吸い込む空気がつんと冷たい。つい最近までなんとかの秋と騒がれていたはずなのに、今朝は布団から出るのも億劫なほど冷えていた。駅のホーム周りの木々を見上げると、知らないうちに所々へたくさんの電飾が巻きつけられている。ふぅと吐く息も白く、元季がマフラーに鼻を埋めると眼鏡が半分曇る。寒さに耐えかねて早足になるが、駅のホームに着いても外には変わりはない。ただいつも乗る電車より三本早くホームに着いてしまっただけだった。
 しまったな……。
 もっとゆっくり歩けば良かった、そう思ったところでもう遅い。体育の持久走の時よりペースは落としていたつもりだったのに、なんて呑気に考えながら、元季はホームの待ち合い室に入り込む。中は暖房が効いていて外よりかは全然暖かく、また眼鏡が曇った。元季が入った数分後、急行電車がホームに到着するアナウンスが鳴った。それと同時に待ち合い室から人がホームへと出ていく。すかさず元季は空いた椅子に座り、鞄から読みかけの文庫本を取り出した。ホームに入ってきた急行電車には、もう入りきれない程の人が、ぎゅうぎゅうに詰め込まれている。いつ見てもあれには乗りたいと思えない。元季は満員電車を避けるため、少し早く出て各駅停車に乗るほどだ。小さな隙間に上手く乗り込んでいく人達を眺めながら、文庫本に挟んでいた栞を取った。ここ最近はミステリー小説にハマっていて、時間さえあれば齧り付くように読んでいる。昨晩もベッドの中で読み更けていて、寝落ちした。そのせいか、栞を挟み込んだ場所の前後が微妙に抜けている気がした。一つ前の頁に戻って読み直そうと思うのだが、指先まで乾燥して上手く捲れない。
「くそっ……」
 思わず声に出し、顔を上げた。しかし、待ち合い室には向かい側の席に一人のサラリーマンが鞄を抱えながら眠っているだけで他に人はいなかった。元季は安堵し、再び本に目を落とす。もう一度頁を捲ろうとした時だった。
「あ、やっぱり元季だ。おっはよー」
 顔を挙げると、待ち合い室に恵留が入ってきた。元季と同じくマフラーで顔を半分隠しているが、寒さで赤くなった鼻がひょこりと顔を出した。
「おはよ。珍しい、早いな」
「たまたま早く起きれたんだ。でも、まさか元季も同じ時間とは思ってなかった」
 ふふふ、と恵留は笑って「運命じゃん」とふざけて付け加えると、すぐ横の椅子に腰掛けた。
「見た?もうイルミネーションの準備してたね」
「見たよ。あれ見ると余計に寒くなるよな」
「あはは。確かに」
 元季は先程外した栞をもう一度文庫本に挟んだ。
「あ、ごめん。朝読書邪魔した?」
 鞄に文庫本を入れる元季を見て、恵留が申し訳なさそうに言った。
「いや、大丈夫。読もうと思ったんだけど、手がカサついて全然頁が捲れないんだ」
 右手の人差し指と親指を擦りながら元季は言った。耳元に持ってくれば、かさかさと乾いた音が鳴る。
「おじいちゃんかよ」
「まだぴちぴちの高校生ですが」
「あははは。あ、そうだ」
 恵留は鞄の中に手を突っ込み、「俺、良い物持ってるんだ」と言った。
「良い物?」
「そ、これ」
 そう言って取り出したのは可愛らしいクマのイラストが描かれた小さなハンドクリームだった。
「姉ちゃんに貰ったんだ」
 得意気にそう答えると、チューブの蓋を開けクリームを自分の手のひらに出した。ほんのりはちみつの甘い香りがし、元季の鼻がすんと鳴る。恵留はハンドクリームの蓋を閉めると元季に手渡した。
「使って良いよ」
「……どうも。随分可愛いやつだな」
 まじまじとパッケージを見ながら元季が言った。高校生男子が持つには確かに可愛らしく、香りも華やかだ。でもそれが恵留らしく思えて、思わずふっと笑みをこぼす。
「どうせまとめて買ったら安い的なのだよ。俺もうそんなにピアノも弾かないのにさ、指は大事だろって押し付けられたんだ」
 だから仕方なく受け取って鞄に突っ込んだと言い、クリームを手に馴染ませた。
「んー、ちょっと多かったかも。元季待って、まだ出さないで」
 突然、恵留がクリームを塗った手で元季の手を掴んだ。
「ん、え?」
「お裾分け」
 恵留は元季の手に自分の手を擦り合わせた。
「ちょっ……」
 恵留の温かい手が元季の手の甲を滑り、指と指を絡めた。クリームの甘い香りが指の先や間に移り、同時に温かくてしっとりとした感触が手の平に染み渡る。
「足りないかも」
 指先を撫でながら恵留が呟くと、先程元季に渡したハンドクリームの蓋を片手で開け、少量を元季の手の甲に出した。恵留はクリームを優しく伸ばし、元季の指先に念入りに塗り込む。
「元季、マジで手がおじいちゃんだなぁ」
「大きなお世話。もう自分でやるから」
「ダメ。ハンドクリーム普段塗らないやつが綺麗に塗れるわけないじゃん」
 なかなか引かない恵留に、元季は小さく溜息を吐く。待ち合い室にはあれから数人入って来たものの、みんなスマホに夢中だったり、さっきのサラリーマン同様に鞄を抱いたまま居眠りをしている。ホームには疎に人が集まっており、元季達の乗る一本前の電車が来るのももう直ぐだった。
「メグ、もう良いよ」
「えー。あ、照れてる?」
 くすくすと笑いながら恵留は元季の指に自分のを絡ませる。
「……もうすぐ電車来るんだよ」
「あ、誤魔化した。あと一本後じゃん」
 まったく、こんなの別に大したことないんだからー。恵留は小さく揶揄うように呟いた。
「……じゃあさ」
「ん?」
「学校でもやってよ」
「…………へ?」
 恵留の手がぴたりと止まった。
「トイレ行ったら落ちちゃうよ。教科書だって捲れないかもしれないし……」
 元季は理由を適当に並べた。本当は別に落ちたって気にしない。手のひらが乾燥するのはしょっちゅうだし、帰りに薬局に寄れば事足りるのは分かっていた。すると、するりと恵留の手が元季の手から離れた。途端にヒヤリとした感覚が手肌を撫でる。
「それに、大したことないんだろ。だったら学校でも…………メグ?」
 元季は下を向いた恵留の顔を覗き込んだ。マフラーで半分隠れていた顔がさらに埋まり、赤く染まった額と耳が見えている。
「……ご、ごめっ…………!俺、今、めちゃくちゃ恥ずいことしたっ……」
 無意識の親切だったのだろう、言われて自分の行動に急に恥ずかしくなり、顔すら上げれず持っていた鞄にまで顔を押し付ける。ここまで顔を真っ赤にするとは思っていなかった元季は一瞬驚いた顔をすると、ふっと笑った。
「なっ、なに笑って」
「あ、ううん、ごめん。メグのが照れてるじゃんなぁって」
 元季がくすくすと笑うと、恵留は言い返す言葉が見つからず、再び顔を鞄に押し付けた。
「煩い……」
 外だということを一瞬忘れかけた自分を呪う。穴があったら入りたい。待ち合い室に居る人数は少ないが、ホームで電車を待つ人は徐々に増えている。その中に同じ学校の制服だっていたし、とにかく沢山の目に自分達は異質に映った可能性があった。
「メグ」
「なに……」
「顔上げて」
 しっとりとした自分の手を擦り合わせ、元季は顔を隠そうとする恵留と視線を合わせた。
「やっぱ学校でもやってよ」
「……この状況でそれ言う?」
 恥ずかしいって言ってんじゃん。聞こえるか聞こえないかの小さな声で恵留は付け加えた。
「分かった。でもひとつお願いしていい?」
「……なに」
 またいらんことを思いついたりするなよ、と心臓を鳴らしながら恵留は返事した。
「そのクリーム、俺にちょうだい」
「……え?」
「香りも気に入ったから」
 甘いはちみつの香りのする自分の手を鼻の近くに持って来ると、元季は鼻をくん、と鳴らした。
「……別に良いけど」
 口をへの字に曲げ、恵留はハンドクリームを元季に渡した。可愛いらしいクマの絵が少しだけ憎らしくも見え、恵留は目を細める。
「ありがと」
 嬉しそうに受け取ると、元季はそれをコートのポケットにしまった。
「じゃあ、帰りに薬局行こうか」
「クリームなら今あげたじゃん」
「違うよ。今度は俺がメグに塗るやつを用意するから」
「……は?」
「これは俺用。メグ用は帰りに買う」
「い、いらないってばっ!」
 思わず大きな声が出て、恵留は口に手を当てた。ふふふ、と笑いながら元季は立ち上がる。同時にアナウンスがなり、ホームの奥から電車が入り込むのが見えた。

「絶っっ対、塗らせないからなっ!」
「えー。俺の初めてはとったくせに」
「ちょ、言い方!」