巡る季節のその中で


 まだ暖かいとは言えない四月の風がカーディガンとその上に羽織ったブレザーの隙間に入り込み、倉幡恵留は背中を丸めた。さっきまで乗っていた電車との気温差にげんなりする。今日は春一番が吹くと、朝の天気予報でお姉さんは清々しく言うものだから他に大した防寒具を持ち合わせていない。周りを見ると、同じ制服を着た学生の首にはまだ暖かそうなマフラーが巻かれていた。時刻は午前八時過ぎ。まだ朝も早く、それなりに冷え込む時間帯だった。しくった、と思ってももう遅い。つい先日開けたばかりのピアスホールがその冷たい風に当てられ、背中がぞわりとする。付けている小ぶりのピアスが揺れたせいかもしれない。そうか、やけに風が気になるのはこれのせいだ。

 春休みが終わる一週間前のこと。恵留は、兄がピアスを開けると言うから便乗した。氷で耳朶を冷やし、ピアッサーで開ける。そう説明された時、もちろん「痛い?」と恐る恐る聞いたが、兄は「全然。てか、一瞬のことで痛さなんてわかんねぇよ」と、けろりと言ったのだ。兄の耳には既に数ヶ所ピアスが付いていたから、それを信じて彼に全てを委ねた結果、じんじんと時間差で現れた痛みに耐えかねて片耳だけしか開けれなかった。
 三日ほど続いた痛みは綺麗に消えたが、こう冷たい風が当たるのはなんだか心許ない。なんとなくひやっとして、背中がまたぞわりとする。耳朶を触るとそれがずっと気になってしまいそうで、恵留はブレザーのポケットに両手を突っ込むと、足早に改札を抜けた。

 恵留の通う高校は、最寄りの駅から歩いて十分もかからない場所にあった。西口の短い商店街を通り、川沿いの桜並木を真っ直ぐ進むと、校門前の難関とも言われる急な坂が目の前に現れる。在校生からは心臓破りの坂とも呼ばれ、運動部に至ってはランニングコースにもなっている坂だった。満開に咲く桜並木に、ほんのりと春の暖かさを感じながら歩くと、じわりと汗が滲む。追い風が冷たくて気持ちがいい。しかし、久しぶりの急坂はふくらはぎを追い込んで、上り切った時には足が張るような違和感があった。

 校門を通り、昇降口へ向かうと、腕章を付けた教員が数名立っていた。クラス替え発表のプリントを配布しているらしい。恵留は二学年分を貰うと、自分の名前を探した。
「えーと……倉幡、倉幡…………あった」
全六クラス中、三組。去年入学した時は六組で探すのが大変だったが、今年は案外早く見つかった。上履きに履き替え、さっそく教室へ向かう。
 そういえば、元季はどこのクラスだったのだろう。
まだ違和感のあるふくらはぎを気にしながら、もう一度クラス替えのプリントを開いた。
恵留の気にしている元季というのは、中学から同じ学校へ進学した親友の宝井元季のことだ。高校に入学してからも同じクラスでいつも一緒にいる。互いを知り尽くしているからこそ、会話にも飽きなければ、傍にいることが当たり前で居心地が良い。唯一無二の関係だ。だから今年も、元季と同じクラスが良い。純粋にそう思って恵留は自分のクラス表をもう一度確認する。
「…………あっ」
 恵留は階段を駆け上がった。最後の二段は一つ飛ばして上り切り、大股で廊下を跳ねるように進む。廊下の真ん中に在る二年三組の教室が見えると、勢いよく教室の戸を開いた。
「元季ぃ!」
 朝の挨拶をすっ飛ばし、恵留は弾んだ声で元季の名を叫んだ。既に教室内にいたクラスメイトの半分は、目を見開き、戸を開け放った恵留に視線を投げる。
あぁ、恵留か。
 宝井くん、呼ばれてる。
 またこの二人一緒なんだ。
 本当、仲良いなぁ。
 そんな声が飛び交う中、ニコニコと嬉しそうに恵留は教室へ入り込むと、一目散に机の上に突っ伏している元季のもとへ駆け寄った。
「おーはよっ!」
 後ろから思いっきり体重をかけ、覆いかぶさる。ぐえ、と小さな潰れた声がした。
「……メグ、重い……」
「また同じクラスだな、よろしく!」
「分かったから、降りろ……なんか出る……」
「あはは、ごめんごめん」
 ケラケラと笑いながら恵留は元季の上から降りる。自分の席だろうところに荷物を置くと、もう一度元季の席へと戻ってきた。
「息潜めてたのに、良くわかったな」
 元季は大きく伸びをしながら言った。突っ伏していた上に、恵留の体重もかかったせいで掛けていた黒縁眼鏡の跡が鼻筋にくっきりと残っている。
「潜められてないんだよなぁ。その頭じゃ、誰だってすぐ元季だってわかるし」
 そう言って恵留は元季の髪を触る。触るというより、手を当てて髪を弾ませた。弾力のあるように動く元季の黒髪は癖毛がすごい。そのモサモサヘアーは元季の特徴の一つで、恵留曰く、遠くからでも見つけられる目印の一つだ。
「元季と同じクラスで一安心したら、なんか腹減ってきた」
 恵留は元季の前の席に座り込みながら、両手のひらを元季に向ける。その「なにかちょーだい」のポーズに、元季は欠伸をしながら返事を返した。
「今日は午前で終わるから何も持ってない」
「えー。いつもメロンパン持ち歩いてるじゃん」
「メグが来る前に食べた」
「ウッソ」
「本当」
「いつも半分くれるくせにっ」
「それはメグが勝手に食べるから…………あ」
「ん、どうした?」
 元季の視線がぴたりと恵留の顔で止まる。今朝はきちんと寝癖を直して来たし、そもそも恵留は元季と違って髪の毛はサラサラで寝癖もつきにくい。気になる場所なんて何処にもないはずだ。
「ねぇ、俺の顔になんかついてる?」
「開けた?」
「え?」
「これ」
 元季は手を伸ばし、恵留の左耳に触れた。
「ちょっ……」
 思わず声を出し、身体をのけぞらず。ピアスが揺れ、その振動で背中はぞくりとし、驚きと恥ずかしさに恵留の頬がぴくりと震えた。
「左だけ?」
「え、あぁ……うん」
 痛かったから、と本当のことは言わずに恵留は左耳を隠しながら言った。
「去年は髪染めて……今年はピアス?来年は右耳開けるの?」
「は?」
「春休みのメグの奇行」
「なんだよ、奇行って。オシャレだってば」
「言い方がオシャレじゃないな」
「煩いなぁ。良いだろ、やってみたかったんだもん」
 不貞腐れ、恵留は元季の机に突っ伏す。顔が熱くなったのを感じた。
「……別に、悪くないけどさ」
「けど、なに?」
「どうせ痛くて右は断念したんだろ」
「はぁ?ち、違うしっ」
 図星を突かれ、更に恵留は顔を埋める。見なくても分かる、元季の顔は今とんでもなく意地悪で楽しそうな顔に違いない。悔しさと苛立ちと羞恥に恵留は「むかつくっ」と声を漏らした。
「ごめん。顔上げてよ」
「いやだ」
「じゃあ、帰り昼ご飯おごる」
「……マジ?」
 膨れたままの恵留は、顔を半分隠しながら視線だけを元季に向ける。
「その代わり条件な」
「条件?」
 元季の手が、今度は恵留の右耳朶を触った。
「右、やる時は俺にやらせて」
「は、はぁ?」
 恵留の声が教室に響き渡る。同時にクラスメイトの視線が真っ赤な顔をした恵留に集中した。触られた両耳が熱い。熱を帯びたそこからどんどん熱が伝染し、顔中が火を吹くように熱くなった。沸々と湧き上がったものは爆発寸前。いや、もう半壊に近く、それが決壊して恵留の口から悪態となって勢いよく飛び出ていく。
「だ、ダメに決まってんだろ!」
「俺、痛くしないよ」
「そ、そういう問題じゃないっ!今日はもう絶交っ!」
 大きな声でそう叫ぶと、恵留は教室から飛び出した。
「メグ、もうすぐ始業式だぞ」
 背後から聞こえた元季の声は謝るどころか、欲しい言葉でもなんでもなくいつも通り。周囲からは溜息が一斉に漏れ、哀れみの視線が恵留の出て行った教室の引き戸に集まった。





「もう最悪っ!ピアス痛かったのバレたし、みんな見てたのに耳触るし!俺、絶対度胸ないやつだって、新しいクラスの子にもバレたじゃんっ!」
「メグが大騒ぎしたからだろ」
「誰のせいだよっ!今日ファミレスでランチセット大盛りだからなっ」
「絶交って言ったの誰だっけ?」