【完】さよならの向こうで待つ君へ



「山下、大丈夫か……!?」
「うん、平気平気」

 腰に手を当てながら土手を上がり、心配げに駆け寄ってくる朔良先輩に笑う。
 あちこちが土まみれになってしまったけれど、動いてみたところ大きな怪我はしていないようだ。

 私は軽く上体を倒し、おばあさんと視線を合わせる。
 とても上品な人だった。透明感があり、丸眼鏡の奥の青とグレーが混ざった瞳は宝石みたいだ。そしてなぜか心を委ねたくなってしまうかのような不思議な安心感がある。

「おばあさん、お怪我は?」
「ええ、わたしは平気よ。でもお嬢さんが……」
「無事でよかった。私も大丈夫です! 大事な巾着なのに汚してしまってごめんなさい」

 泥をはらって桜模様の巾着を差し出す。するとおばあさんは安堵したように顔を綻ばせて受け取った。
 笑ったときにできる目元の皺は優しさを象徴するようだ。

「ありがとうね、助かったわ……。とても親切な子なのね」
「いえいえ! このくらい当たり前ですから」

 すると不意におばあさんが私の胸元に視線をやった。

「あらまあ、素敵なペンダントをしてるのね」

 おばあさんの目線の先には、波琉くんの形見のシーグラスのペンダントがあった。いつもは服の下にしまっているけれど、走っている間に服の襟から飛び出してしまったのだろう。
 思わずシーグラスに触れる。

「これは……」
「お嬢さん、なにか過去に未練を抱えているようね」
「……っ」

 突然核心をつかれて私はおばあさんを見つめた。
 私の驚きもなにもかもすべてが想定の内だというように、おばあさんはにこにこと穏やかな笑みを浮かべている。そしておばあさんの口は、思いがけない言葉を謳った。

「知っているかしら。この地に伝わる言い伝え――過去と未来に繋がる鏡があることを」
「え……?」

 唐突なことに目を見張る。意味がわからない。
 おばあさんの言葉の質量と密度があまりに大きく、すぐに脳が処理することができない。

「その鏡を通じて、過去に行くことも未来を覗くこともできるの」
「過去、に……?」
「探してごらんなさい。その鏡はきっとお嬢さんの心を導いてくれるはず」

 意味が分からず立ち尽くす私の手を、おばあさんが包み込む。柔らかくて優しくて温かい手だった。

「それじゃあわたしはそろそろお暇するわね。優しいお嬢さんたちに幸せが待っていることを祈っているわ」

 呆然としている間におばあさんが私と朔良先輩の横を通り過ぎていく。
 風に乗ってハーブの香りが鼻を掠める。
 おばあさんと話をしている間、ずっとふわふわと思考が宙を舞い夢を見ているようだった。けれどその香りがした瞬間、意識が引き戻されて我に返る。

「待って……!」

 振り返る。けれどそこにおばあさんの姿はなかった。さっきまでいたはずなのに、まるで幻だったかのように忽然と消えたのだ。

「なんだ、今の」

 隣で困惑する朔良先輩の様子に、私がたった今経験した数分の出来事が現実だったことを知る。
 けれど私の思考の行く先はそこにはもうなかった。

「おばあさんはどこに……」
「朔良先輩……っ」

 朔良先輩の腕を掴む。朔良先輩が勢いよく引っ張られ、つんのめるようにして振り返る。

「山下?」
「私、過去に行かなきゃ……波琉くんに会わなきゃ……」
「え?」

 まるでなにかに追い立てられるかのように、私は理性を失っていた。
 縋りつかれた朔良先輩は、私の言葉に目を見張る。朔良先輩のその反応は至極当然のものだった。

「でも、あれは」
「わかってるよ、私だって。過去や未来に行き来できるなんて、そんなのありえないって。でも……」

 過去や未来に行けるなんて馬鹿げてる。嘘だ。――否定の言葉はいくらでもすらすら出てくる。
 けれど一言、信じたい。その思いだけをどうしても振り切ることができない。

「波琉くんを取り戻せるかもしれないなら……その可能性があるなら信じたいの……」

 朔良先輩の腕を握りしめた手が、そして声が震える。

「私、ずっとどうして波琉くんがあの日あの選択をしたか考えてた……。それでね、思ったの、もしかしたらピアノが原因なんじゃないかって」
「ピアノが……?」
「波琉くん、ピアノを弾けなくなって、自棄になっちゃったんじゃないかな……」

 波琉くんがピアノを弾くのを辞めたのは――いや、弾けなくなったのは、去年の夏のことだった。
 あの日、体育館で体育の授業の見学中だった波琉くんは、機材の落下事故に巻き込まれてしまった。その事故で右手の薬指と中指の神経を傷つける怪我を負い、麻痺が残った指ではピアノを弾くことができなくなってしまったのだ。

 波琉くんは、あまりにあっさりした表情で『飽きてたからちょうどよかった』と言っていて、私はそれを真に受けてしまっていたけれど、そんなはずなかったのだ。だってなににも執着しない波琉くんがピアノだけは唯一愛していたのだ。
 いつだって世界をつまらなそうに傍観しているその目はピアノの前では生気が宿り、病気のせいで満足に遊べない体は息を吹き返したようにピアノと一体となって音を奏でた。
 家族から虐げられ、幼い頃から体が弱かった波琉くんにとって、ピアノは救いであり生きがいだったはずだ。
 もしかしたらあのとき、波琉くんの中でなにかがぷつんと切れてしまったのでは――。

 もう一度波琉くんに会いたい。そしたら私はなんとしてでも波琉くんの手を捕まえる。

「過去に戻ってやり直したい。波琉くんの命を取り戻したい」

 きっと私は今、あまりに馬鹿げたことを言っているのだろう。
 頭の一部はこうして必死になっているけれど、大部分は冷静な目で私を傍観していた。だって過去に戻れるなんて、そんなことあるわけない。どんなに願ったって波琉くんが戻ってくるわけない。
 けれどそのとき鼓膜を揺らしたのは朔良先輩の声だった。同時に肩に手が置かれる。

「――探そう」
「え?」

 呆けた顔で朔良先輩を見る。ずっと目の前にいたはずなのに、久しく目が合っていなかった気がする。
 朔良先輩はたしかな意思のこもった瞳で私を見つめていた。

「その過去と未来に繋がる鏡、俺も一緒に探す」

 そこに揶揄や軽蔑の色はなかった。前向きな眼差しだけが私を捕らえる。
 あまりにあっさり受け入れられて、こちらが呆気にとられてしまう。

「いいの……?」
「当たり前だろ。協力した方が早いし」
「そうじゃなくて、信じてくれるの……?」

 よれよれの声で尋ねれば、朔良先輩は顔をくしゃりとさせて苦笑した。

「たしかにまだ少し戸惑ってはいる。でも信じてみなきゃなにも始まらないだろ」
「朔良先輩……」
「俺がついてる。もしその先になにも見つからなくても、そのときは一緒に思いっきり泣こう」

 眩しかった、朔良先輩の笑顔が。ふとしたときにほどける笑顔は、いつだって屈折することなく柔く瑞々しくあたりを満たす。そんな朔良先輩の笑顔を見ると、つい目が離せなくなるのだ。

 私は鼻を啜り、そして何度も頷いた。

「うん……」

 私を照らす希望の光、それはまさに朔良先輩だ。