そしてまた、金曜の夕方がやってきた。私にとってかけがえない時間。私が輪郭を取り戻す時間。
これは息をすることのできる自室にいても、得難い感覚だった。
不登校になり、私という存在は社会から消えた。世界から切り離されて、自分が今どこにいるのかわからなくなっていく。
そんな私は出来損ないなんだと、何度も自分を責めた。みんなが当たり前にできていることがどうしてできないのだろう。"普通"ではなくなった自分が恥ずかしかった。
だから何度も学校に行こうとはしたけれど、体と心はそれを許してくれなくて、家を出ようとするたびに足が動かなくなる。波琉くんがいなくなって色を失った世界は、突然それまでと姿形を変え、私を拒もうとしているように見えた。私が知っている世界はそこにはもうなかった。
そうしている間にも社会はどんどん私を置き去りにして進んでいく。この世界に私の居場所はないのだと――そう思い始めた矢先、朔良先輩が私に一週間のうち一日だけでもいいから俺に付き合ってほしいと提案してくれた。
朔良先輩と会うためなら、少し時間はかかるものの体が動いて家を出ることができた。塞ぎ込んだ心よりも、朔良先輩に会って話したい、その気持ちが大きいのだと思う。
朔良先輩はその目に私を映してくれる。朔良先輩の眼差しが私の存在を肯定してくれるのだ。外に出て朔良先輩と会っているときだけ、私は疎外感を忘れることができた。
だから今日も私は朔良先輩の元に行く。まるで一種の救いを求めるように。そしてなにより会いたくて。
駆け足で河原に向かうと、朔良先輩の姿はすでにそこにあった。華奢ながら広いその背中を見ると、いつもじんわりと温かい気持ちが胸に広がる。
けれど今日は少しだけ心が強張っていた。笑顔を準備してから声をかける。
「朔良先輩」
私の呼びかけに朔良先輩が振り返る。
「山下」
「待たせてごめんね」
「いや、待ってない」
3月頭の河原はまだ寒々としている。地面には土が露わになり、緑の色はひどくまばらだ。今年は冬が長引くようだと、昨日か一昨日あたりの天気予報で言っていた気がする。
「でも、なにかあったわけじゃないよな?」
「え?」
「いつもはいる時間にここにいなかったから」
意表を突かれて思わず二度瞬きをする。それから朔良先輩の隣に腰を下ろしてへらりと笑った。
「実は準備中にテーブルの向こうに洋服を見つけてね、回り込むのが面倒でテーブルの上に体を伸ばして取ろうとしたら、小指を箪笥の端っこにぶつけちゃって。いやあ、急がば回れって本当だなあってしみじみ実感しちゃったよ」
頭をかきながら自嘲トークを広げたあと、矢継ぎ早に続ける。
「そういえばそろそろ進級だよ。朔良先輩も3年生だって、早いねえ。進路調査とかあるんでしょ? 朔良先輩はかっこいい大学生になるんだろうな。大学でモテモテだよ、だって……」
「山下、ストップ」
不意に朔良先輩が私の名を呼び話を遮った。
はっとして口を噤む。無心で舌を動かしていたけれど、朔良先輩の様子をまったく見ていなかった。目の前にある朔良先輩の顔はちっとも笑っていなかった。むしろ険しい。
ひやっとした冷たい氷柱が心臓を撫でる。
「あ……私の話面白くなかったよね、ごめんごめん」
焦って自嘲の笑みを浮かべると、朔良先輩が上目遣いで私の顔を覗き込むようにして問いかけてくる。
「なんかあったのか?」
「え?」
「そしてそれを俺に隠そうとしてるだろ。違うか?」
冷たい風が私の髪を乱暴に揺らしていった。
その風は目の前にいる朔良先輩の栗色の髪をも揺らしていくけれど、視界を遮られながらもその下にある瞳の光線はぶれなかった。その瞳にはいつだって偽りはない。それに見つめられると、私の心はありのままの弱虫になってしまう。
偽るのが苦しくなって、俯いた。
「なんで朔良先輩は気づいちゃうの?」
波琉くんもそうだった。私が元気ないと、どれだけ明るく振る舞っていたって易々と気づいてしまうのだ。
「言っただろ、俺の前では無理に笑わなくていいって」
「うん……そうだよね」
つい相手に心配をかけまいと強がってしまう癖があるけれど、それはもうやめようと決めたのだった。だって、嘘をつくことは朔良先輩を裏切ることになるから。朔良先輩は本当の私を受け止めてくれるって信じられるから。
「実は今日、小谷先生が家に来たんだ」
私は両の膝を引き寄せて、ぽつりと声を落とした。
突然家を訪問してきた小谷先生は、出張の前に私の家を訪れたのだと言った。
小谷先生は30代後半の私の担任だ。妻子を持ち、来年からは学年主任という規範のような生活を送る先生は、間違ったことは許さない熱血漢だ。
案の定、小谷先生は私を懸命に諭そうとした。
『仲の良かった先輩が亡くなって悲しいのはわかる。でもいつまでそうやってひとりで閉じこもっているつもりだ? 前を向かなきゃ一ノ瀬も悲しむぞ』
『山下が学校に来ないのは甘えなんだ』
『あっという間に3年生になるぞ。進路を決める大切な時期なんだ。人生が決まるんだ』
『まわりのみんなを見てみろ。みんな大なり小なり悩みながらも頑張ってるんだぞ。悩んでない人なんていないんだ』
『そんなんじゃ社会に出てもやっていけないぞ』
小谷先生が並べ立てる悪意のない正論は、私を容赦なく攻撃した。私はなにも返せず、ただ黙って話を聞いていることしかできなかった。だってだれがどう聞いても小谷先生が正しいと言うだろうから。そんななにも言えない自分が悔しくもあり、そしてきっと大人に私の気持ちなんてわからないのだろうと諦念を抱いてしまった。
結局見るに見かねて、お母さんが小谷先生を無理やり帰らせた。
「こんなんじゃだめだって……そんなこと私が一番わかってるのにね」
私が一番焦っているし、苦しんでいる。
わかっているけれどどうにもできない。そんな自分に自己嫌悪が湧いて、無限の負のループの中でもがいている。本当はもうもがくのにも疲れてしまった。
過去と未来の狭間で、私は自分を見失った。
するとじっくり私の思いを咀嚼するような間の後で、静かに朔良先輩が口を開いた。
「そうだよな……なんて、俺が山下の気持ちを全部わかったつもりになるのは驕りだよな」
風が吹き、柔らかそうな髪をそよがせながら朔良先輩が目を細める。その瞳はまっすぐ前を見据えていた。
「だけどきっと悩んで苦しんだ分、強くなれるし優しくなれる。これは受け売りだけど、でも俺はそう信じてる。どんな宝石だって傷ついて輝くようになるんだ」
その言葉はすうっと胸に迫り、そして優しい羽根になって傷だらけの心を包み込んだ。
熱い波が喉元に込み上げ、声が詰まる。
小谷先生と話したことで閉じた頑丈な心の扉が開き、暗闇の中に一縷の光が差し込んだ感覚。
朔良先輩の声には透明な芯が通っていた。朔良先輩もその言葉に救われたことがあるのだろうか。
「少しくらい立ち止まったっていい。生きてる限りいつだって取り戻せる。それにもし迷っても、そのときは俺が山下の手を引っ張ってみせるから……って今のはくさかったな、忘れてくれ……」
気恥ずかしくなったのか、首に手を当て、赤らめた顔をふいっと逸らす朔良先輩。
そんな朔良先輩がなんだか可愛くて、私は思わず笑みをこぼした。
「忘れない。大切だから」
「あ、こら」
目が合って、お互いの瞳と空気がふっと緩んだ。
朔良先輩が腕を伸ばし、頭に手が触れる。そしてその手は優しく私の頭を撫でた。
「なにが正しいかとかそんなのはどうでもいい。俺は山下が元気でいてくれたらそれだけでいいんだよ」
実直でいて切実なその声音に、心が揺れる。どんな思いが朔良先輩にそう言わせたか痛いほどわかってしまうから。
すんと湿った鼻を啜って、そして笑った。
「ありがとう、朔良先輩。私は朔良先輩に助けられてばっかりだね」
いつだって朔良先輩は魔法みたいに私の傷を治してしまう。私もいつか朔良先輩に恩返しができるだろうか。いや、恩返しができるように強くなるのだ。
すると口元には笑みを残したまま、ふと朔良先輩が瞳に濃い色を灯した。
「そんなつまらないことは考えなくていい。だって俺は、」
そのとき、背後でどさりとなにかが崩れ落ちるような音がして、直後。
「ああ、巾着が……っ」
小さな悲鳴があがった。
はっとして朔良先輩とほぼ同時に振り返れば、背後の道端でおばあさんが倒れていた。そしておばあさんが持っていたらしい桜模様の巾着は――土手をころころと転がっていた。その先には川がある。
咄嗟に状況を把握した私は立ち上がった。
「朔良先輩はおばあさんを……!」
そう言い終えないうちに私は斜面を駆けだしていた。
「え、山下……!?」
まるで球が中に入っているのではないかと思うほど軽快に斜面を転がる巾着。
一昨日の大雨で川は嵩を増し、水面はいつもよりも近くなっている。この勢いでは、そのまま川に落ちてしまう危険がある。川の流れは速く、落ちてしまえばあっという間に流されてしまうはずだ。
ほぼ足がもつれた状態で斜面を駆け下る。普段運動なんてしていないから、足が弱っているせいで踏ん張って走ることができない。
あと少し、もう少し――手を伸ばしたそのとき、ついに足が絡まった。大きく前に傾ぐ体。そして私は成す術もなく斜面を転げ落ちていく。
「……あっ」
「山下!」
2メートルほど転がり落ち、平面になった土の上に投げ出されてようやく体が止まる。全身を地面に打ちつけた痛みをこらえながら、私は右手を土手の上にいるふたりに向かって掲げた。
「とっ、取りました……!」

