【完】さよならの向こうで待つ君へ





 朔良先輩と出会ったのは高校1年生の夏のことだった。
 波琉くんが突然朔良先輩を連れてきて、たった一言"友達ができたから"と私に紹介してきた。
 それまで波琉くんには友達の類はいなかった。私には友達はそれなりにいたけれど、波琉くんはそうではない。唯我独尊な振る舞いと徹底的な近寄りがたさで同性からは特に嫌われていたし、波琉くん自身も他人には無関心だった。
 だから最初は驚いた。そして今ではなんて傲慢だろうと思うけれど、波琉くんが私以外の存在を必要としたことを寂しいと思った。だってそれまで波琉くんの世界には私しかいなかったのだ。

 もちろん朔良先輩のことは快く思っていなかった。
 朔良先輩のような優等生は波琉くんが特に毛嫌いするタイプだったし、クリーンなイメージの朔良先輩もまた問題児と呼ばれる波琉くんとは距離を置くように思えた。そんな正反対なふたりが仲良くなるなんて、朔良先輩にはなにか目論みがあって波琉くんに近づいているのではないかとあまりに突飛な想像をして、穿った見方で怪しんでいた。
 朔良先輩と友達になったからといって波琉くんが私をぞんざいに扱うようになったわけではないけれど、私にとって朔良先輩は大袈裟でもなんでもなく波琉くんを奪った人だった。
 自分は自由に友達を作っておいてなんて思われるかもしれないけれど、それほどまでに衝撃的な大事件だったから、そこは大目に見てほしい。

 そういうわけで出会ってから1か月くらいは、朔良先輩とは距離を作って過ごしていた。波琉くんの友達だからといって仲良くする必要なんてないと思っていたのだ。
 けれど高校1年生の夏休みに行われた合宿で、私たちの関係は大きく変わることになる。

 当時の私は美化委員に所属していた。生徒は全員なんらかの委員会に所属しなければならず、優柔不断な私は残りものとなったこの委員会の一員になった。
 時を同じくして波琉くんも授業をサボった罰で一番人気のないこの委員会に所属することになり、さらに波琉くんと同じクラスの朔良先輩もまたこの委員会に所属していた。

 この委員会が不人気である理由は、夏休みに合宿があることだった。
 例によってこの年も合宿がおこなわれ、初日にはナイトウォークが催された。
 ナイトウォークは空が暗くなってから、宿泊施設の近くの林でおこなわれ、委員会全体でシャッフルをして二人一組のチームが組まれた。
 ナイトウォークの前に、宿舎のエントランスに組み合わせが書かれた紙が掲示される。

『きゃあ! 一ノ瀬くんと一緒になっちゃった……!』

 自分の名前を探し当てる前に、可愛い先輩が黄色い声をあげて意識が遮られた。ふと視線で波琉くんを探せば、波琉くんは輪から外れたところでつまらなそうな表情でスマホをいじっている。
 波琉くんは敬遠されているけれど、その人並外れたルックスから密かなファンを抱えている。だからこうしてもやもやすることは日常茶飯事だけれど、それを本人に話したらくだらないと一蹴されたのであまり気にしないようにしている。

 波琉くんのことは少し気がかりに思いながらも、自分の名前を探す。――と、そこでつま先立ちをしたまま固まる。
 見間違いでなければ、山下瑠果と北原朔良の名前が並んでいる。考え得る限り最悪な組み合わせだった。
 そしてようやく組み合わせ表から視線をずらしたとき、人だかりの中の数メートル先にいる朔良先輩となぜか引き寄せ合うように目が合った。それは神様が意地悪しているかのような偶然で、私は咄嗟に顔を逸らす。
 ナイトウォークは林の中の決められたコースを一周する。一周で約15分ほどかかるらしい。なるべく距離を置きたい朔良先輩と15分もふたりきりだなんて息が詰まる苦行だ、このときの私は本気でそう思っていた。



『はい、次の組スタート』

 スタート地点にいる先生が、腕時計に目を落としたままこちらを見ずに出発の合図を出す。
 私はひとつ息を吐き出し、支給されたマップと懐中電灯を手に歩き出した。波琉くんはもう何組か先にスタートしている。もしかしたらもうゴールしているかもしれない。私も速足で時間を縮めて、さっさとこの息苦しい時間から抜け出したい。

『こんな暗い中、そんなに急ぐと危ない』

 私を窺うように余計な口出しをしてこなかった朔良先輩が、初めて私に声をかける。

『大丈夫です、早くゴールしたいので』

 振り向きもせず、物理的にも精神的にも絶妙な距離感を保ったまま、背後から追いかけてくる足音から逃げるように鬱蒼と茂った暗い林の中を進んでいく。

 そもそもどうして高校生にもなってナイトウォークなんてしなければいけないのだ。こんな暗闇の中、10数分ほど一緒に歩いて縮められる親密さなんてたかが知れている。地図の端っこには今夜見られるはずの星座やなんかが載っているけれど、あいにく空を見上げている余裕はない。
 顧問の先生お手製のなんの罪もないマップを睨みつけ、視線を上げたとき。不意に前方から黒い影が飛んできたかと思うと――その勢いのまま私の顔面に直撃してきた。ぶつかる寸前、私はその正体をしっかり視認していた。その正体はコウモリだ。

『……ぎゃあああああああっ!』

 一瞬のタイムラグののち、私の喉からは自分のものとは思えないほど甲高い叫び声が飛び出ていた。
 私は動物――中でも虫がこの世で一番苦手だ。もちろんコウモリは哺乳類だけれど、私にとっては虫との差なんてわからないし同じようなものだ。暗闇の中で顔面にぶつかられたら、虫よりも怖いかもしれない。
 パニックになった私は、恐怖に目をぎゅっとつむったまま悲鳴を撒き散らして走り出していた。
 正常な判断なんてもちろんできない。突然のことに錯乱状態だった。
 前後左右も方角もなにもわからないまま走り、けれど私の悲鳴と足が止まったのは、足の裏がすかっと宙を蹴ったときだった。気づけば私は崖の縁にいたのだ。
 ぐらりと大きく傾ぐ体。重力に手を引かれるまま底の見えない暗闇に吸い込まれそうになったとき、暗闇の中に一本の光線が見えた気がした。それと同時に手首を掴まれる。

『山下……!』

 ――あ、初めて名前呼ばれた……。っていうか私の名前知ってたんだ……。
 その声はもちろん朔良先輩で。
 けれど朔良先輩が私を引っ張る力よりも、幾分重力の方が勝っていたらしい。私と朔良先輩はふたりで崖から転げ落ちた。



『いった~……』

 尻から落ちた私は、腰をさする。
 すると暗闇の中、声が耳に届いた。

『山下、大丈夫か?』

 はっとして声の方へ顔を向ければ、近くに月明かりに照らされる朔良先輩の姿を見つけた。四つん這いになるような体勢のままずいっと顔を寄せて私の安否を確認してくる朔良先輩。思いがけず心配されて、『は、はい……』圧され気味に答える。
 眉根を寄せて気遣わしい表情を作っているけれど、そう言う朔良先輩もぼろぼろだった。脛のあたりのジャージの生地が大きく裂けて、血の滲む切り傷が露わになっている。

 とりあえず今すぐ助けを呼ぼうとして、ジャージのポケットからスマホを取り出そうとする。――が、ポケットの中にはなにも入っていない。

『うそ……スマホ忘れた……。スマホ持ってますか?』

 意識的に名前を呼ばないようにしながら問いかけると、朔良先輩は首を横に振った。

『悪い、俺もスマホは宿舎に置いてきた』
『えっ……』

 咄嗟に視線を巡らせ懐中電灯を探す。けれど落ちた拍子に手放したのか、懐中電灯も見当たらない。
 自分が置かれた状況が明白になった瞬間、さああっと血の気が引いていき体温が下がる。今更夜風の冷たさに気づいた。
 つまり今私たちは、崖に落ちて迷子になり助けを呼べないというピンチに陥ってしまったのだ。

『崖、登れそうですか?』

 そう訊きながら頭上の崖を見上げる。高さは2、3メートルほどだろうか。それほど高くはなかったらしいけれど、この足首では登ることはできない。

『ああ、登れるだろうけど……』
『じゃあ、先輩は助けを呼んできてくれませんか』
『山下は?』
『えっと……私は足が駄目なので』

 正直打ちつけた尻よりも、足首の痛みの方がひどかった。落ちそうになって足掻いたときに足首を捻挫したらしい。

 するとなにを思ったか、一度は立ち上がった朔良先輩が私の隣に腰を下ろす。
 
『じゃあ俺も残る』
『え? なんでですか』
『崖を登ったところで、方角もわからないまま進んでも余計に迷うだけだし。それに山下のことを置いていけないよ』
『でも……』
『大丈夫、そのうちだれかが探しに来るから。それまで一緒にいる』

 朔良先輩の揺るぎない言葉は、私の抵抗の意をねじ伏せた。説き伏せられた私は思わず唇を噛みしめて俯く。
 ……本当はひとりになるのが怖かったとは言えなかった。
 ここがどこだかわからない上に寒くて暗い。おまけに足はずきずきと痛い。ほんの些細な物音さえにも過敏になっていて、暗闇からなにかが突然現れたりでもしたらと思うと、心細くて仕方なかったのだ。
 けれど意外にも物怖じしない朔良先輩の心強さと、そしてなにより隣に人がいるという安心感が、不安に押し流されそうになる私を引き留めていた。

 凍えるような夜風にきゅうっと首を竦めて膝を抱えたとき。不意に朔良先輩が長袖のジャージを脱いだ。そしてそれを私の肩にかける。

『これ、かけてろ。寒いだろ』
『え……、でもそしたら先輩が』
『俺は大丈夫だから』

 私の肩にジャージをかけたその腕は半袖の体操着から伸びており、夜風に晒されている。
 朔良先輩の方が寒いに決まっているのに、朔良先輩は私の視線も苦情も受け付けないというように空を見上げる。

 私は朔良先輩がくれた温もりに包まれながら、三角に折った膝をぐっと引き寄せた。そして瞼を伏せて消え入りそうな声で囁く。

『……ありがとうございます……あとごめんなさい、私のせいでこんなことになっちゃって。私が、先輩を巻き込んじゃった……』

 ずっと張っていた意地を取っ払い、ようやくお礼と謝罪の言葉を口にできた。
 すると静寂が降り立つ前に朔良先輩が口を開いた。

『でも俺がいなかったら山下がひとりになってたから。だからよかった』

 はっとして隣を見れば、青白い月明かりの中、朔良先輩が柔く微笑んでいた。
 きゅうっと心臓が緩やかに締めつけられるような感覚に、私は慌てて視線を逸らす。

 ――このときだってそうだった。朔良先輩はいつだって自分を犠牲にするのを厭わない人だった。

『あ、あれ流れ星じゃないか?』

 突然、それまでとは少しトーンの違う弾んだ朔良先輩の声が聞こえてはっと我に返る。
 咄嗟に顔を上げて空を見るけれど、木の間から覗く空には無数の星が浮かぶだけで、些細な動きも見受けられない。

『え? まさかぁ』

 そう言いながら、ふとジャージのポケットに突っ込んでいたマップの存在を思い出す。
 マップを広げると、ナイトウォークのルートの絵の横に星座コーナーがある。そこにはたしかに、今夜はしし座流星群が見られると書いてあった。

『ほんとだ……。しし座流星群らしいです』
『やっぱりそうだよな』

 もう一度空を見上げる。そうしてじいっと目を凝らせば、ひとつ……いや、ふたつみっつと続けざまに星が流れているのを見つける。

『わ、すごい……! 本物の流星群だ! 綺麗……』

 小さい頃私の家のベランダから波琉くんと流れ星を見たことがあるけれど、その記憶はぼんやりとしていたから、目の前の流星が新鮮に目に映る。それに空気が澄んでいるからか、くっきりとその動きを視認することができる。
 自然の美しさに感激していると、淀みない声が不意に鼓膜を揺らした。

『山下のおかげだな』
『え?』
『こういう状況じゃなきゃ空なんて見上げないから』

 そう言って空を見つめる横顔は、吸い込まれるほどに綺麗だった。
 その横顔を見つめながら、この人は心がどこまでも綺麗なんだろうなと、そんなことをぼうっと思った。

『あの』
『ん?』
『朔良先輩、って呼んでもいいですか? 綺麗な名前だから』
『どうしたんだ急に』
『そう呼びたくなったんです』

 言いながら顔が綻ぶ。
 すると朔良先輩は、くすぐったそうに目を細めて『いいよ』と苦笑した。

 それから十分ほどが経った頃、巡回の先生に見つけてもらえて救助された私たちは、このことが他の生徒に伝わらないように先生には黙っていてもらうことにした。朔良先輩が波琉くんには心配させたくないと申し出たのだ。
 こうしてあの夜、私と朔良先輩だけの秘密ができた。