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「朔良先輩! お待たせ!」
翌日の夕方河原に出向くと、朔良先輩の姿はすでにそこにあった。ジャケットのポケットに手を突っ込んでベンチの前に立ち、どこか寒そうに小さく首をすくめている。
朔良先輩と出会って半年以上が経つけれど、私服姿を見るのは初めてだったことに気づく。モノトーンでまとめられたコーデは甘いマスクとのバランスが絶妙で、すらりとした体の線が制服よりもいっそう際立つ気がする。
朔良先輩は私の声に気づくなり顔を上げ、目が合うたびに緩む眼差しが――ぎこちない。
「山下。ごめん、急に呼び出して」
「ううん、大丈夫だよ。家にいたって暇してるだけだし」
私は笑って見せる。
朔良先輩がいつもの河原ではなくて公園を指定したのは、土曜日は河原が草野球で賑わうのを避けたためだろう。
この街にひとつしかない公園は寂れていて人もあまり寄りつかない。公園と言っても遊具の類はひとつもなく、ベンチが一脚置かれただけで、雑草も好き放題に生い茂りとてもではないが子どもが遊ぶには適さないのだ。
「どうしたの? 休みの日に会うなんて初めてだよね」
そう言いながらベンチに腰を下ろす。
朗らかに話しかけるけど、朔良先輩の表情は硬いままだった。
「昨日のこと、謝りたくて」
「え?」
それは意外な言葉だった。海に行こうと、現実を見ろと、そう説得されるとばかり思っていた私はほんの少したじろぐ。
けれど朔良先輩は自戒を込めたような眼差しで尚も私を見据えてくる。
「山下の気持ちを急かしたんじゃないかって」
「そんなこと気にしてくれてたの? 全然大丈夫だって~!」
へらりと笑う。
律儀な人だ。でもそんなに重く受け止めないでほしい。だってそんなふうに真面目に向き合われたら、深刻なものになってしまう。これはあくまでもっと軽く捉えるべき話題なのだ、少なくとも今の私にとっては。
すると朔良先輩は眼差しを強くして、ぴしゃりと。
「……笑うな」
ひゅうっと音をたてて木枯らしが吹き耳元を掠めていった気がしたけれど、それは気のせいかもしれない。
息をのみかけて寸前で吐き出す。崩れかけた笑顔の鎧を、慌てて引っ掴むようにして装着する。
「やっぱりひどいかな? 幼なじみが自殺したっていうのに、へらへら笑ってるなんて」
自虐めいて躱そうとするけれど、朔良先輩の表情は厳しいままだ。
「そうじゃない。寂しくても哀しくても笑ってもいい、笑う権利はだれにだってある」
「え~? じゃあなんで」
瞬間、それまでずっと厳しく強張っていた朔良先輩の表情が緩んで、切なさとやりきれなさに染まる。
「山下が無理してるから」
「え……?」
体と魂が分離したような感覚だった。体はそこにいるはずなのに、意識が体から切り離されて剥き出しになった魂だけがそこに在るかのような感覚。
「ほら今も。哀しいとかつらいとか無理やり押し込んで笑ってる。それをやめろって言ってるんだよ」
なんで朔良先輩はそんなに悔しそうなのだろう。変なの、朔良先輩のことじゃないのに。
けれどそんなふうに切り込まれ、それまで必死に均衡を保っていた心が大きく揺らぐ。笑顔がぐにゃりと歪む。
そして弱い心は核心をついた朔良先輩を敵と見做し、震える声で彼を突き放そうとする。
「ぅ……私の気持ちなんてわからないよ……っ。朔良先輩は優しいから、自分まで離れたら私が独りで可哀想だと思って一緒にいてくれるんでしょ? 朔良先輩の負担になってることは私が一番わかってるの……っ」
「……そんなことを思ってたのか……?」
抑えられた低い声に、びくっとして顔を上げる。そこには怒りの類いなんかよりもよっぽど深い悲しみに染まった瞳で私を見つめる朔良先輩がいた。
「ごめん、私……」
すると朔良先輩は小さく息を吐き出した。そしてそれまでと変わらない重みを持ったまま、まっすぐに声を紡ぐ。そこには私と向き合おうとしてくれる風合いがたしかにあった。
「俺は同情だけで山下と一緒にいるわけじゃない」
「え……?」
「たしかに山下が抱えてるもの全部はわからない。だから教えてほしいんだ。俺は山下の気持ちを知りたい」
朔良先輩は自分の首元から深緑のマフラーを外すと、心許ない私の首に巻いた。マフラーに残った朔良先輩の体温と、淡いシトラスの香りが私を包み込む。
そして私の前にしゃがみ、こちらを見上げた。ガラス玉のような瞳から送られる真摯な眼差しが怯える私の心に寄り添う。
その眼差しに促されるようにして声を絞り出す。
「でも……」
「俺を信じて」
私の躊躇いを即座に力強く振り払われ、その揺るぎなさに鼻の奥がつんとする。
「無理をする山下を見ていたくない。胸の中に重いものがあるなら、少しでもいいから俺にくれないか」
……もうだめだった。きつく蓋をして閉じ込めていた哀しみが溢れてしまう。
「……私は、波琉ちゃんの生きる理由になれなかったんだよ……」
私の存在は、波琉ちゃんをこの世に引き留めるものにはなり得なかった。死にたいという気持ちを凌駕するほどの存在ではなかった。そう突きつけられ、その絶望は私を激しく苛んだ。
私にとってあなたは生きる理由そのものだったのに。
私がもっと波琉ちゃんにとって大事な存在に、支えてあげられる存在になれていたら、波琉ちゃんは今も足を止めることなく未来を歩めていたかもしれない。
そう思うと足元が崩れていくような後悔にどうにかなりそうだった。
「近くにいたのに助けてあげられたかった……」
波琉ちゃんが家庭の事情で悩んでるときも、なんの力にもなれなかった。私は無力な子どもでしかなくて、ぼろぼろになった波琉ちゃんをただ抱きしめて代わりに泣くことしかできなかった。
――最後のやりとりを覚えている。
いつもとなんら変わらない、ありふれた金曜日の放課後だった。遠回りをして海辺を歩いて、歩速を合わせながら帰路につく。
毎日一緒にいれば、新鮮な話題が常にあるはずもない。けれど取り留めのないような些細な会話も心地いいし、そんな会話さえなくてもいい。ただ隣にいるのが心地よかった。
あのときどんな会話をしていたか覚えていない。多分、本当に他愛ない話だった。
けれど自分の家の前に着いたところで、私は急に思い出した。
『あっ、今日は早く帰って来いって言われてたんだった』
その日はお母さんと出かける予定があり、寄り道をしないで帰ってくるように言われていた。なんでも洋服を買うのに私の意見がほしいとのことだった。そのお礼に、私の服も買ってあげるとの交換条件も受けている。
すると波琉ちゃんは私の頭に手を置いて笑う。
『ばーか』
そして後ろ向きに数歩下がりながら、右手を挙げて言った。
『ばいばい、瑠果』
それが"またな"ではなかった意味に気づけていたら。あのとき異変を感じていられたら。
こうしていたら、こうできていたら。そんな尽きることない後悔はまるで鉛のように心に沈んで嵩を増していく。そしてそれはきっといつか私を飲み込むのだろう。
……好きだった。どうしようもなく好きだった。
いつからかなんてわからない。波琉ちゃんへの想い、それはたとえば桜を見れば当然のように美しいと思うような、心の中にあるのが自然な感情だったから。
けれどある日突然彼を喪い、私のすべてが崩れてしまった。波琉ちゃんを想って波琉ちゃんで満ちていた心に、塞ぎようのない大きな風穴が開いたのだ。それは心が丸ごと抜け落ちたにも等しかった。
「いつまでもめそめそしててごめん……」
鼻を啜る。無理やり涙の気配を飲み込む。泣きたくなかった。
すると不意に私の手の甲に、手が重ねられた。
目の前のその人に向かって話していたはずなのに、いつの間にか心は迷子になっていたのかもしれない。体温が重なったことで自分がそこにひとりでいたわけではないことを思い出す。
朔良先輩は直向きで、そして強い意志を込めた眼差しで私を見上げていた。
「どれだけ時間がかかっても俺は山下の隣で待つよ。だから哀しみに無理やり強くなろうとしなくていい」
「朔良先輩……」
どくんと鼓動が波打つ。体の奥の一番暗いところに仄かな光が灯ったような実感。
前に進めと、強くなれと、朔良先輩は無理やり私の背中を押そうとしない。私にそっと寄り添い、歩幅を合わせようとしてくれている。
その手に縋りたくて、でもやはりまだ躊躇いがあって、震える声で念を押す。
「でも私愚図だし後ろ向きだし泣き虫だし、朔良先輩、愛想つかすかもよ……?」
「そんなことない」
朔良先輩はふわっと苦笑し、私の手を包む手にわずかな力を込める。
「俺の前では無理に笑わなくていい。俺が山下を笑わせてやるから」
「朔良先輩が私を?」
言いながら少しだけ笑ってしまう。だって朔良先輩がふざけるところも冗談を言うところも、ちっとも想像できない。
すると場違いにも吹き出す私に、朔良先輩がちょっぴり不服そうに口を尖らせる。
「そうだよ」
けれど私の笑いは朔良先輩にも伝播した。ちょっとの間のあとで朔良先輩も小さく吹き出す。
そうしてふたりで笑い合っていると、辺りを覆っていた重く暗い靄が晴れていくようで。心の強張りが雪解けして素直な思いが口から出る。
「ごめんね、さっきはひどいこと言って」
「気にするな」
朔良先輩は軽いトーンで私の罪悪感を払いのけ、立ち上がる。
そして私よりも目線が高くなったかと思うと、その目を斜め上へと逃がす。
「だから結局なにが言いたいかって言うと、……大丈夫、俺がいるから」
「……ありがとう、朔良先輩」
朔良先輩の存在が私の心に勇気の灯を灯してくれる。
やがて私は、いつの間にか目の縁にじんわりと熱いものが押し寄せていたことに気づいた。

