【完】さよならの向こうで待つ君へ




 あれは中学生になってすぐのことだった。
 その日ははるちゃんのピアノのコンクールの日だった。はるちゃんはなかなかコンクールの日程を教えてくれなかったけれど、SNSでこっそりコンクール情報を調べては、勝手に応援に行ったりしていた。
 その日も例によってはるちゃんの応援のために内緒で会場に駆けつけていた。電車を乗り継ぎ、会場に向かう。
 はるちゃんにバレるときもあればバレないときもある。はるちゃんに気づいてもらえなくても構わなかった。ただ、はるちゃんに贈られる拍手のひとつになりたかったのだ。

 はるちゃんの家は複雑だった。実のお父さんは、妻の浪費癖や男癖の悪さに呆れてはるちゃんがまだ幼かった頃に家を出て行ったらしい。その後養父となった人は気性が荒く、おばさんやはるちゃんにも日常的に暴力を振るっていた。けれどその養父もまた、ある日突然はるちゃんとおばさんを捨てて出て行った。
 おばさんははるちゃんのことにまるで無関心だった。この世には自分と男の2種類しか存在しないと思っているのだと、前にはるちゃんが話していた。

 コンクール会場は応援に駆けつけた大勢の家族や友人であふれている。参加者にどのくらいの拍手に向けられるか、それは審査員の心証にも響くだろうし、なにより参加者の背中を少なからず押すことにもなるだろう。
 けれどもちろんはるちゃんには応援に駆けつける家族も友人もなく、はるちゃんにとって会場の檀上は最大のアウェーであるに違いなかった。ただでさえはるちゃんは悪目立ちをしているから、他の人はみんな目くじらをたてるのだ。

 だから私は割れんばかりの拍手を送る。はるちゃんの味方はここにいるのだと、そうわかってほしかった。

 エントリーナンバーが繰り下がっていき、はるちゃんの出番が近づいてくる。
 他の人のピアノの音色を聴くと、素人の耳にもはるちゃんの生み出す音色がいかに美しいかを改めて実感する。濁りがなく、それでいて奥行きがある。情緒を鷲掴みされているかのように大きく揺さぶられるのだ。
 ピアノを弾いているはるちゃんの姿は、とても生き生きとしていてまるで光のベールを纏っているかのように美しい。ピアノを弾いているときだけ、仄暗い影から解き放たれたかのように開放的になるのだ。
 そんな姿が愛おしく大好きだった。

『エントリーナンバー12番、一ノ瀬春さん』

 いよいよはるちゃんの名前がアナウンスされる。背筋を伸ばして見守る中、舞台袖からはるちゃんが現れた。
 大人たちが高そうなスーツやワンピースを着る中、はるちゃんはくたびれたYシャツにところどころすり減ったスラックスという姿だった。その姿を見た途端、会場中がざわめく。

『またあの子だわ。ほんと場違いよね』
『ああやってわざと目立とうとしてるのかしら』

 そんな潜めき声が聞こえてきて、私はそれをかき消すように大きく拍手を鳴らす。
 まばらな拍手の中、はるちゃんがピアノの前に座る。
 ――けれどなにかがおかしい。ピアノの前なのに、はるちゃんを包む空気が重く覇気がないのだ。異変を感じたとき、急にはるちゃんが体を丸めて胸元を押さえた。

『はるちゃん……?』

 直後ぐらりとその体が大きく傾ぎ、そしてスローモーションのように壇上に倒れた。



 真っ青な顔のはるちゃんがベッドに横たわっている。突然倒れたはるちゃんは救急車で近くの病院に運ばれ、コンクールスタッフの人と私が付き添った。
 応急処置を受けて一般病室に戻ってきたはるちゃんは、まだ目を覚まさない。太い点滴に繋がれ酸素マスクをつけているその姿は、深刻な現実を生々しく突きつけてくる。

 手が震える。涙が止まらない。
 私はベッドの横ではるちゃんの骨ばった力ない手を握りしめ、声を押し殺して泣いていた。
 主治医だろうか、若い男の先生がスタッフの男の人に告げているのを聞いてしまったのだ。持病の心臓病の発作でしょう、と。そしてポケットからは大量の薬が発見された。
 けれどこのときの私は、はるちゃんが心臓病を患っていたことを知らなかった。生まれつき体が弱いことは知っていたし、体育を休むのもそれを言い訳にサボっているだけだと思っていたのに、まさかそんな大病を抱えていたなんて。なんでずっと隣にいたのに気づけなかったのだろう。
 絶望と恐怖と自責の念が込み上げて、心が圧迫される。もう少し力を込めれば、耐え切れずにぱりんと音をたてて粉々に割れてしまいそうだった。

 怖い、はるちゃんを喪ったらと想像するだけで怖くて仕方ない。このまま目を覚まさなかったらどうしよう、そう思うと身が竦んで息ができなくなりそうだ。

『はるちゃん……』

 懇願するようにはるちゃんの手を握りしめる。と、そのとき。

『いたんだ、お前』

 まだぼんやりと靄のかかった声が鼓膜を揺らした。
 はっとして目を開ければ、はるちゃんが目を覚ましたところだった。

『はるちゃん……っ、大丈夫!?』
『ああ、平気。てかお前顔ぐちゃぐちゃ』

 泣きじゃくる私を見て、はるちゃんが呆れたように小さく鼻で嗤う。

『ほんと、よくそんなに泣けるよね、俺のことで』
『だって……心臓の病気って本当なの……?』

 嗚咽が洩れるように、声がこぼれた。意識を取り戻したばかりのはるちゃんにぶつけるには尚早な問いだとわかっていたけれど、それでも頭で考えるより先に口をついて出てしまった。
 するとはるちゃんがわずかに目を見張る。薄い瞼の下の淡い瞳が露わになる。世界を見透かすようないつだって揺るぎない不遜な眼差しが、私を見つめて揺れている。

『なんで、それ』
『やだ……はるちゃんがいなくなったらやだ……。はるちゃんがいれば他になにもいらない、だから死なないではるちゃん……っ』

 まるでおもちゃを手放したくない子どものようにぎゅうっと手を握りしめていると、はるちゃんは煩わしそうに目をつむって腕を額に乗せる。

『死なないよ、余命宣告されてるわけでもないし、緊急性があるわけでもないし。ちょっと心臓が馬鹿ってだけ』

 酸素マスク越しのはるちゃんの声はどこか他人事で。そうやって自分の心と距離を置き、今日までひとりで折り合いをつけてきたのだと、そんなことが透けて見えてしまって心がきつく絞めつけられる。

『でも……っ』
『だから言いたくなかったんだよ、お前がぴーぴー泣いて鬱陶しいから』

 はるちゃんがまだ怠そうな腕を伸ばして、ぽろぽろと涙をこぼし続ける私の頬を拭う。温度の違うふたつの体温が重なる。そしてはるちゃんは忌々しそうに吐き捨てた。

『お前の泣き顔は世界で一番可愛くて、世界で一番大っ嫌いだよ』