「瑠果ちゃん、本当に大丈夫なの?」
その言葉は一昨日あたりからすでに十数回目だ。私は制服に袖を通しながら、心配そうに部屋を覗き込んでくるお母さんに向かって苦笑した。
「大丈夫だって」
久しぶりに腕を通すブレザーは生地が少し硬くなっていて、クリーニングしたての匂いがする。
私は今日、5か月ぶりに登校する。
登校したいという思いをお母さんに打ち明けたのは先週のこと。もちろんお母さんは反対した。
『瑠果ちゃんにはまだ無理よ』
台所で皿洗いをしながら話を切り出した私に、皿を拭いていたお母さんは真剣な声音でそう言い切る。
私は泡だらけの手で水を止め、お母さんに向き合った。
『心配してくれてありがとう。でも今度は私を信じてほしい。私ね、少しだけ強くなれたんだよ』
本当は怖い。波琉くんがいない学校に登校するのも、私に向けられるだろう憐みの目も、クラスメイトの前で嘔吐してしまったトラウマも、もうすでに形ができあがっているであろうクラスに馴染めるのかも。
不安は言いだしたらきりがない。けれどそれを乗り越えたら、私は自分をもっと好きになれるはずだから。前に進んでみたい、そう思えるほのかな強さが自分の中に芽生えたから。
制服に着替え、スクールバッグを肩にかけると、私はそっとその存在をたしかめるように胸元に手を当てる。
そこには肌身離さずつけているシーグラスのペンダントの感触があった。私が手放さなければあなたはずっとここにいてくれる。
……見守っていてね、波琉くん。
玄関へ降り、ローファーを履いた私はお母さんを振り返った。
「行ってきます」
ドアを開け放てば新鮮な空気が私を抱き留める。眩しい朝の光に目を細めたとき、耳に馴染んだあの声が鼓膜を揺らした。
「山下」
じわり。心に水滴が滲む。
スクールバッグを掴む手にぎゅうっと力を込めながらそちらを見れば、門扉の向こうにふたりの姿があった。
「朔良先輩、雪那……」
ふたりには数日前に登校しようと思っていることを伝えていた。でもまさか待ってくれているなんて。
朔良先輩と雪那が笑う。柔らかい印象の朔良先輩とシャープな顔立ちの雪那は、兄妹だからと言って似ているわけではないけれど、それでも笑ったときの目元が似ている気がする。
「おはよう」
「おはよう、ふたりとも」
門扉を開けてふたりの元に走り寄ると、「瑠果、制服似合ってるよ」と雪那が私を抱きしめてくれた。
「ふたりとも、どうして……?」
「俺たちも一緒に登校させてくれないか」
「途中までだけど、私も瑠果と一緒に登校したいな」
「ありがとう……ふたりとも」
じんわり温かい気持ちでいると、朔良先輩が私に優しく笑いかける。
「さ、行こうか」
「うん……!」
ひとりだったらどこかで足が竦んでいたかもしれない。私はいつだってだれかに助けられて生きているのだと実感する。
雪那は隣町の女子高まで電車通学で、私と朔良先輩は駅から高校までバスを利用する。
分岐点である駅までの田舎道を歩きながら、私たちは他愛ない会話を重ねた。ふたりは私に変に気を遣うわけでもなく、自然な空気感の中で私を緊張から遠ざけてくれる。
制服を着てローファーを履いて。隣に波琉くんがいたはずの通学路とは、少しだけ風の色が違う。けれど、朔良先輩と雪那と見る今の色もまた好きだと思う。
駅に着くと、私と雪那の数歩先を歩いていた朔良先輩が背後から声をかけてきた。
「悪い、水筒忘れたから自販機で水買ってくる」
「はーい」
駅の駐車場前にある自販機に朔良先輩が向かう。その後ろ姿を見送りながら、雪那が私に耳打ちしてきた。
「お兄ちゃん、あの日から毎朝家を早く出て瑠果の家で待ってたんだよ。瑠果がいつ登校してもいいように」
「え?」
「俺は山下をひとりで頑張らせたくない、山下が頑張るときは隣にいたい、ひとりじゃ不安なはずだからって言って」
雪那の告白に私は動揺で目を瞬かせた。
まさか私を待ってくれていたなんて。そして朔良先輩はそんなことをおくびにも出さず、急かすことなく寄り添ってくれていたのだ。雪那が教えてくれなければ、私はきっとこれからも知らないままだっただろう。
抱えきれないほどの優しさに胸が圧し潰されそうになる。朔良先輩はいつだってそれを押しつけてこない。そしてそれは最大級の優しさだと思うのだ。
すると雪那は、透き通りそうなほど白い頬に長い睫毛の影を落とした。
「実は私もずっとお兄ちゃんに守られてたの。お兄ちゃんは私のせいで比較されてお父さんとお母さんに厳しく当たられてたのに、そのことで私に文句も言わず、私が責任感じるからって隠してた。だから私はお兄ちゃんが勝手にぐれたんだって勘違いしてずっと軽蔑してた。けど本当は、自分のことは顧みずに相手を守ろうとする信念の強い人なんだよね」
雪那の言葉が、朔良先輩のことを知った今ではよく理解できる。だれよりも心が澄んだ人だと思うから。
「朔良先輩ってなんであんなに優しいのかな」
思わずぽつりとそう呟くと、雪那が自販機の前に立つ朔良先輩を見つめながら返してくる。
「瑠果への優しさは他とは少し違うと思うよ」
「え? どうして?」
「瑠果だから、じゃない?」
そう言って雪那がなにかを含んだように綺麗に笑う。
「私だから……?」
言葉の意味がわからず首を傾げたそのとき、朔良先輩が戻ってきて雪那との会話はそこで切れてしまった。
それから間もなく電車がやってきて、雪那と別れて私たちもバスに乗り込む。15分ほど揺られたバスを降りて高校が近づくと、同じ制服を着た生徒が増えてきた。
それと同時にちらちらとこちらに向けられる視線も増えてくる。それはきっと波琉くんが海で女の子を助けていたという記事が地元の新聞に載り、波琉くんのことが再注目されていたからだろう。
「あの子、一ノ瀬くんのまわりにいつもいた子じゃない? 戻ってきたんだ」
「一ノ瀬くんのことがあった日、吐いちゃってたよね。そんなに仲良かったのかな」
「でもあれから学校に来れてなかったって、ちょっと大袈裟だよね。そんなに引きずるもん?」
下駄箱でローファーからスリッパに履き替えていると、ふと背後から女の子たちのひそひそ声が聞こえてきた。それは仲間うちで共有するくらいのボリュームで、私に聞かせる悪意はないのだろうけど、神経が敏感になっているからか喧噪であふれる空間の中でもその会話にチャンネルが合ってしまう。
思わずうつむきかけたとき、朔良先輩がそっと肩を寄せてきた。
「大丈夫か?」
「うん」
「教室まで送ろうか」
朔良先輩の問いかけに、私は顔をあげる。そこに一匙ほどの笑みを浮かべて。
「ううん、ここで大丈夫」
その笑顔は、傍から見れば頼りないことだろう。けれど自分の気持ちに嘘をついているわけでも、無理に強がっているわけでもない。こうなるだろうことはわかっていた。それでも登校すると決めたのは私だ。もう少しだけ、自分を信じてあげたい。
すると朔良先輩は躊躇うような間をすぐに拭い取り、私の気持ちを汲み取って頷いた。
「わかった」
「ありがとう、朔良先輩。私を信じてくれて」
「当たり前だろ」
朔良先輩が私の頭にぽんと手を置く。そして軽く腰を折って目線を合わせてきた。
「大丈夫だ、山下には俺がついてる。なにかあったらいつでも呼んでくれ。すぐに駆けつけるから」
「うん……」
いつだって私を真っ直ぐに見つめてくれる、星を散りばめた夜空のような双眸。この瞳に見つめられることに安らぎを感じるようになったのはいつだろう。
鼓動がどくどくと血の通った温かい音を奏でる。
私がここに今立てているのは、あなたのおかげなんだよ。
「行ってくるね」
朔良先輩のためだけに笑みを作る。今度はちゃんと笑えた気がした。
SHRを待つ教室は喧噪に満ちていた。
ざわざわと多方から声の行き交う教室の前にいざ立つと、リアルな実感に緊張が込み上げてきて鼓動が逸る。
……大丈夫、私は大丈夫。
それにね、もし失敗したとしたって何度だってやり直せるんだよ。
どんなに格好悪くたって、自分を愛せるように生きてみようじゃないか。
体内に沈んだ緊張を吐き出すように大きく深呼吸し、そして教室へと足を踏みだした。

