【完】さよならの向こうで待つ君へ




『俺、雨好きなんだよね』

 ふと思い出す。雨を降らせる空をどこか嬉しげに見上げていた一ノ瀬波琉の横顔を。

 この世界は彼にとっては小さすぎて、神様の手にも負えなくなってしまったのだろうか。



 あれは10月のある日。連日雨が降り続ける中、例によってあの日も午後から天気が急変した。
 隣町にある高校から乗ってきた電車を降りると外は土砂降りになっていて、今日に限って傘を忘れてしまった私は成す術もなく駅で雨宿りをすることにした。
 最寄り駅は出口がひとつしか設けられていない小さな無人駅だ。改札前には6席ほどの椅子が設けられ、そのスペースの目の前は出入り口になっている。
 その椅子の端っこに座り、ため息を吐きながら駅の外をぼんやり見つめる。
 雨はなかなか止みそうにない。このまま止みそうになければ、人に頼るのは苦手だけどお兄ちゃんに電話するしかないだろうか……。バスを使う手もあるけれど田舎道では本数が少なく、家の方面に向かうバスが来るのは1時間半後だ。
 職場が近くにある母にはもちろん電話などできなかった。両親は厳しい人たちで、私はいつも完璧を求められてきた。隙を見せることなどできない。

 何度目かのため息を吐いていると、駅前のロータリーにバスが滑り込んできた。
 けれど家とは逆の方面に向かうバスだ。私には関係ないため特に関心を向けずにいたとき。

『――なにしてんの』

 突然隣に人が座ってきた。
 何事かとそちらに顔を向けた私は、げっと顔を歪めそうになる。

『一ノ瀬さん……』

 柔らかそうなハイトーンヘア。強い引力を持つ濡れた瞳。陶器のような肌。
 そこにいたのは瑠果の幼なじみであり、お兄ちゃんの友人でもある一ノ瀬波琉だった。

 そして私は近寄りがたいこの男のことが苦手で少し怖かった。
 瑠果に紹介されて数か月が経ったけれど、何度顔を合わせても自分にはなぜかこの男が、私たちと同じ血の通う人間とは思えなかった。まるで人間味がないのだ。
 触れたら危険、それが第一印象だった。一度触れてしまえば底なしの沼に引きずり込まれてしまいそうだと。

 けれど瑠果はこの男に恋をしている。瑠果が彼のことを話してくれるとき、その眼差しと表情は愛おしさで満ちる。そんな姿を間近で見ているからこそ、瑠果がどうしてこの男を好きでいるのか理解できない。瑠果は、自分が波琉に依存してるのと言っていたけれど、この男に騙されているのではないかと訝しんでいた。

 それはそうとこの状況はなんだろう。
 瑠果やお兄ちゃんがいるときにばったり会うことはあっても、面と向かって会話を交わしたことはない。そんな一ノ瀬さんがどうして……。あまりの気まずさに肩を強張らせていると、そんな私を見て彼は鼻で嗤う。

『あのさあ、いつも思ってたけど、俺のこと警戒しすぎじゃない?』
『そ、そんなことは……』
『そんな怯えなくても取って食ったりしねえよ、俺だって選り好みくらいするから』

 数秒の間を空けて、侮辱されていることに気づいてかあっと頬に血が昇る。

『言っておくけど、私はあなたのことが嫌いなので……!』

 怒りのあまり思わず声を張り上げると、そこでようやくしっかり目が合い、『知ってる』と一ノ瀬さんが不敵に唇の端を持ち上げる。
 改めて、ぞっとするほど整った顔だと思う。人間離れしていて精巧に作られた人形のようだ。中性的というわけではないのに美しいという言葉が妙に似合う。
 他校である私の女子高でも彼の存在は有名で、女子たちがこぞってイケメンだと陰で騒いでいることも知っている。けれど私は生憎面食いではないから、この顔を目の前にしても靡いたりはしないけど。

『失礼しますっ』

 そう言って立ち上がろうとしたとき、『待てよ』とぐいっと腕を掴まれ、椅子に尻もちをつく。

『話がある』
『は?』
『ちょうど近いうちに呼び出そうと思ってたんだ』
『え、だれを?』
『この流れ、あんたしかいなくない?』
『なんで私……?』

 彼の真意が見えず眉根を寄せていると、駅の外の方へ顔をやった一ノ瀬さんがぽつりと声を落とした。

『ユイゴン』
『え?』
『遺言、預かってほしいと思って』
『は……? ユイゴンって、あの遺言、ですか……?』
『まあ、そうだね』

 あっけらかんとしたトーンで放ち、膝に頬杖をついた一ノ瀬さんが上目遣いで試すように私を見上げてくる。

『託されてよ、俺の遺言。俺、遺書とか残すタイプじゃないし』

 遺言とは、言葉のとおり死ぬ人が現世の人に向けて遺すものだ。その遺言を託そうとしているということはつまり……。

『……死ぬんですか……?』

 きっと冗談を言っているのだろう。だってあまりに現実離れしている。
 ありえないとは思いつつも、その言葉を口にするのはまるで刃を生身に突き刺すようで恐ろしく、声の芯が震えてしまう。そんな私の声をかき消すように、ざああっと雨の音が強くなった気がした。
 すぐ近くを、電車から降りてきた学生が通り過ぎていく。まさかここでこんな物騒な会話がおこなわれているとは想像もしないだろう。

 一ノ瀬さんは私の動揺を見透かすような瞳でこちらを一瞥し、それから上体を起こして再び椅子に深く寄りかかる。

『死ぬらしいよ、俺が見た未来では』

 まるで他人事のように言うから、一瞬理解が遅れた。数秒かけて咀嚼し、ようやくそれを言葉として認識した私は困惑の渦に飲み込まれる。
 未来を見た……?

『は……?』
『この前、突然胡散臭い建物が目の前に現れて、そこにある鏡に未来が映し出されたんだよ。その鏡に映ってたのは、大人になって夫婦になった瑠果と朔良の姿だった。で、俺は死んでた。まあ、俺が死ぬのは数か月後の話なんだけど』

 あまりに現実とかけ離れた話だった。
 作り話で私をからかっているに違いない。そう思えたら楽なのに、淡々と言葉を並べていく彼の横顔は嘘をついているとはなぜかどうしても思えない。
 でもそうだとしたら一ノ瀬さんは……。

『海で溺れてるガキを助けようと瑠果が無茶して、その瑠果を助けに海に入った俺が死んだらしい。鏡の中のあいつ泣いてたんだよね、俺が死んだのは自分のせいだって』

 絶句する。感情の置きどころがわからない。
 なにか言わなきゃいけないと思うのに、思考がぐちゃぐちゃになって、その中から言葉を掬うことができない。

 区切るように言葉を切った一ノ瀬さんが、呆然とする私を見て力なく笑う。

『まあ、馬鹿げた話だよな。自分でも思うよ、話してて馬鹿馬鹿しくなってくるくらいだし。だから信じてほしいとは言わない。ただひとつだけ頼みたいことがある』

 それから彼は切実な色を瞳に宿した。そしてこちらを澱みない眼差しで見据え、惑う私の意識を掴んで離さない。
 いつだって世界をなぞるだけの軽薄で冷めたその瞳にこれほどまでの意思が宿ったのを、私は初めて見た。

『死んだ日のことを見たわけじゃないから時間とか詳しい状況まではわかってない。けど11月15日、あいつを海に近づけないでほしい』

 明確な日付を提示され、喉が鈍い音を鳴らす。
 信じたくない、けれど抗えない。もう彼の話を虚言などと疑うことなどできなかった。これは――現実だ。

『自分を助けるために俺が死んだらあいつは自分を責め続ける。そんな重い十字架を背負わせたくない。だから俺は未来を変えようと思ってる』
『……もしかして、瑠果には関わらせずに、その子を助けるんですか?』

 言葉はなくともわかってしまった、彼はひとりで海に向かおうとしているのだと。瑠果と、そして見ず知らずの子どもを助けるために。
 するとそんな思考を読み取ったかのように、一ノ瀬さんは私の考えを一蹴した。

『勘違いしてるかもしれないけど、俺は利己的で善人なんかじゃない。ガキが死のうが知ったこっちゃないし、どうでもいい。でもあいつはきっと、そのガキを助けるために真っ先に海に飛び込んだはずだから。俺はただあいつが言う本当のヒーローになりたいだけ。だから協力してほしい。あいつにはなにも気づかせたくない』

 作り物のように無機質に感じていたその眼差しが本気だ。彼の中で覚悟はもう決まっている。そしてその覚悟の奥に潜む、あの子への切実な想いを見つけてしまった。

『もしかして瑠果のこと……』

 すると一ノ瀬さんはふっと私から目を逸らして体の向きを正面に戻し、憂いを帯びた表情で降りやまない雨を見つめた。

『俺にとってあいつはただの幼なじみなんかじゃない、俺のすべてだ。あいつは空っぽな俺を満たしてくれた。なんの価値もないゴミみたいな人生に、生きる意味を与え続けてくれた。俺は瑠果に生かされてた』

 思いもよらなかった告白に、思わず息をのむ。こんなにも大きな想いを体の内側に秘めていたなんて。
 それならばなんで瑠果に伝えようとしないのか。そう問おうとした私の前で、一ノ瀬さんは『だけど』と艶のある睫毛を伏せる。

『俺は愛し方がわからなかった。あいつは馬鹿みたいに俺を信じてくれてるけど、本当は騙してただけ。小さい頃、あいつが大切に育ててたミニトマトを、自分より優先されるのが嫌だからってだけで躊躇なくへし折ったことがあってね。でも俺は罪悪感なんて覚えなかった。あいつが泣いても、むしろ"俺だけ"になったことに満足してた。あいつを虐めたクソ女を褒められないやり方で脅迫して転校させたことも、あいつに絡んだっていう男の手を壊したりしたことも瑠果は知らない。あいつの目を塞いで、どす黒い部分から目を逸らさせてきた。歪んでるだろ、俺』

 ふっと浮かべられた自嘲の笑みに、私はなんて返したらいいかわからなくなった。そんなことないと否定してあげたいのに、彼はきっと慰めの言葉を欲しているわけではないとわかるから。そしてそんな自分自身をだれより憎んでいるということも。
 その表情はまさに、善悪すらわからない憐れな天使が人間になりたいと切願しているようだった。

『依存してるのは俺の方。いつも怖かった、そのうち俺んとこから飛んでいっちゃうんじゃないかって。あいつがいなかったら生きていけない。だれにも触れさせたくなかった。もし俺から離れようとでもしたらあいつの羽をへし折ることだって厭わなかったかもしれない。……自分の隣にいたらあいつは幸せになれないって、早く手放すべきだって、痛いほどわかってるくせに』

 一ノ瀬さんが力なく広げた自分の手のひらに視線を落とす。その横顔が初めてぶれて見えた。
 臆病で脆くて儚い。いつも暴力的なほど鮮烈なオーラに隠されていた彼の二面性が露わになる。

 そのとき、ランドセルを背負った小さな男の子と女の子が私たちの横を通り過ぎて改札の方へ走っていった。一ノ瀬さんの声だけが支配しているように感じていた静寂が割れて、雨の音が再び近くなる。

 彼は息を置くみたいなほんのわずかな空白ののち、眼差しを持ち上げた。

『でも朔良が瑠果を想ってることに気づいて、初めてこいつになら瑠果を託してもいいと思えた』
『え……?』
『簡単に譲れるほどの想いじゃないけど、朔良のことは信じられるんだよな。俺と違って誠実で真っ直ぐだから。朔良ならあいつのことを幸せにできる。で、朔良たちが一緒になる未来を見て確信した。俺にもしものことがあっても瑠果はひとりじゃない、朔良が瑠果のことを支えてくれるって』

 それから一ノ瀬さんは私に目を向けた。彼の世界に私が存在していたことをふと思い出す。

『ついでに瑠果の友達として、これでも一応あんたのことも信頼してる。だから遺言を託した』

 きっと、これが彼の独白の終着点なのだろう。
 体ごと一ノ瀬さんの方を向いていたその体制のまま私は俯き、そして言葉を手繰り寄せる。

『……遺言を託された意味がわかりました』
『ずいぶん一方的に話したけど、信じてくれるんだ?』

 下唇を噛みしめて頷く。今でも信じたくないけれど、信じる以外の選択肢はもうない。

『このこと、おにいちゃんには……?』
『朔良に話すつもりはない。未来を知らせて変にプレッシャーかけたくないし、それに』

 湿気で少し毛先の丸まった前髪の毛先いじりながら、一ノ瀬さんはくすりと笑った。

『心配するじゃん、あいつ俺のこと大好きだから』

 自分に向けられる愛を、我が物であることが当然のように手のひらの上で転がす尊大な男。
 けれど今その意識の先にはきっとお兄ちゃんがいて、そしてその笑顔はとても優しかった。

『でも、怖くないんですか……? いつ起きるかわからない事故なんて防ぎようがないじゃないですか。一ノ瀬さんになにかあったら……』

 子どもを助けるために、他に協力を求めるつもりはないのだろう。それはそうだ、事故が起きる未来を見たのだと言っても信じてもらえずに馬鹿にされて終わりだろうから。
 事故が起きることを知りながら、自分にはなにもできないことがあまりにも歯がゆい。

 すると彼は表情を緩めて笑った。私の不安や心配を宥めるような、穏やかな笑顔だった。

『心配するなよ、俺は死なない。遺言とは言ったけど、瑠果を守ってほしいだけだから。ガキを助けて帰ってくる』

 ――このときの笑顔を忘れることができない。
 一ノ瀬さんは私に嘘をついたのだ。本当は、病を抱えた心臓では泳いでいけないことを知っていたはず。彼にとって海に入るというのは自殺行為だ。海で事故が起きるということはつまり、生きて帰ってこられないということをわかっていたのに。

 そのとき駅のロータリーに、飛沫をあげて入ってきたバスが停車した。そして傘を差して数人が降りてくる。
 一ノ瀬さんがそちらを見て、眼差しを柔くする。

『俺、雨好きなんだよね』
『え?』
『くっつく口実ができるだろ』

 そのとき気づく。彼の視線の先に、バスから降りた瑠果の姿があることに。 
 瑠果はこちらに気づかず、目の前を通過しようとする。一ノ瀬さんは立ち上がると、椅子に立てかけていた濡れたビニール傘を私に差し出してきた。

『これ、適当に処分しといて』
『えっ』

 唐突のことについていけない私を置いて彼は雨の中に飛び出し、瑠果の前に姿を見せる。突然現れた幼なじみに、瑠果が驚きの顔を見せた。

『波琉くん? どうしてここに』
『傘持ってないからお前のこと待ってた』
『また持ってないの?』
『いいだろ、お前が傘持ってるんだから』
『しょうがないなあ。いいけどさ』

 そうして一本の傘の下で自然と寄り添い合うふたり。
 瑠果を見つめる彼の瞳にあんなにも愛が満ちていたことを、私はこのとき初めて知った。
 ある人はそれを執着と呼ぶのかもしれない。それでも私はたしかに純愛だったと、そう思うのだ。